夜に紡ぐものの名は

(2022/05/08)


 ランプの炎が微かに揺れた。カレルの背後で帆布に映る影が大きくたわむ。それが風でなく、人の気配によるものであることをカレルは直感で嗅ぎ取った。長く剣と共に生きるが故に研ぎ澄まされた嗅覚だ。間を置かず、ゲルの外で微かに枝を踏み折る音がする。
「……カレルさん。少し、よろしいですか」
 けれどそっと夜の静寂を崩さないよう外から控えめに掛けられた声に、カレルは己の予想が外れたことを知る。即ち気配の正体だ――殺気はなかったものだから、軍の誰かだろうとまでは見当をつけていたが、軍主であるエリウッドか、はたまた伝言を預かってきたオスティア侯弟付の盗賊辺りだろうと踏んでいた。己の普段の他人を寄せ付けない振る舞いからすれば、彼ら以外の人間がこんな夜更けにカレルを訪れる理由がない。お陰で通常数人で共有するはずのこのゲルも、カレルが一人で悠々と使用する具合になっている。
 そんな中で、夜半にカレルを訪ねる声の主が、近頃僅かばかり己が心を砕いている男であったことは、ほんの少しだけカレルの意表を突いた。
 何故ならこれまで日が暮れてから会ったことはなかったからだ。それが互いの不文律となっている——と、少なくともカレルは認識していた。
 昼は共に戦うが、夜は向こうが避けている。
 カレルに遠慮があるのか、それとも。
「……ルセアか。構わないが」
「……失礼します」
 迷った末の返答と、外から深い深呼吸の音が二、三度。入り口の垂れ布が重たく持ち上げられて、現れたのはゆったりとした祭服を身に纏った司祭の姿だった。カレルの手元の灯りに照らされ、艶やかな髪が金の滴を零すように揺れる。手にしている大ぶりの杖は、近頃よく使用している回復魔法のためだろう。先日シスターから薫陶を受け、使い方を習得したと聞いた。
 促せば、ルセアは杖を置き、立てた片膝を抱えるように布の敷かれた一画に座った。
 互いの影が、布張りの壁に色濃く映える。
「お前が夜にこちらに来るとは珍しい」カレルも手にしていた剣を地に伏せ、詰めた呼吸を緩めるように座り直した。この男相手には警戒をする必要がない。「どうかしたか」
 ルセアはその言葉に、最初言い難そうに目を伏せた。けれど落ちた沈黙に耐え切れなくなったのか、もぞりと身じろぎをしたかと思うと、正座になって膝の上に手を揃え、きりっと腹を括った目でカレルを見据えた。
 口火を切る。
「怪我を、していらっしゃるでしょう」
「……、ああ」
 何を言い出すのかと思えば。カレルは微かに拍子抜けする。
 確かに今、カレルの右の脇腹には、昼間に負ったかすり傷が存在していた。そちらに手をやらずとも、はっきりと感じ取ることができる。じくじくと疼く痛みは、ルセアに指摘されてその目を覚ますまで、気の置けない隣人のようにカレルの神経に馴染んでいた。
 カレルにその傷を負わせたのは取るに足らない相手だ。少々間合いが厄介だったが——何せ奴らドラゴン使いと来たら、羽虫のようにこちらの鼻先を飛び回ることが己の使命だと信じ込んでいる——運悪くカレルへ槍を突き出した一瞬の隙に首を落とされ、竜に振り落とされた哀れな竜兵だ。それでも手傷を負ったのは、慢心よりも気まぐれからというべきだろう。
 完全に避けることもできたが、決着に時間をかけることを嫌った。穂先がどの程度皮膚を裂くか、どの程度の痛みをもたらすか、当然わかったうえで斬らせた。
 今は出血も止まり、膏薬で処置をして動きに支障もない。
「それがどうかしたか」
「……っ、どうして昼間、言って下さらなかったのです!」
「必要がなかったからだが」
 言いながら、カレルは段々と事態を飲み込み始めていた。つまり目の前のこの男は、どうやら傷を負った己の心配をしているらしいのだ、ということを、だ。普段の慎ましさを半ば投げ捨てるように上半身を傾けて前のめりになり、まるで傷を負ったのが自分であるかのように治療を乞うて瞳を潤ませるその必死さに、カレルの内心は少し愉快な気分になっていた。勝手に傷を負い好きに処置をした男のことなど放っておけばよいものを、わざわざ夜に抜け出して、こんなところまで来て。何より、誰も好んで近寄らないこの『剣魔』の心配とは、随分と奇特なものだと皮肉が浮かぶがしかしそれを混じり気のない善意でやってのけるところがこの男の美徳でありまた瑕疵なのだろう。短い付き合いの中で、カレルは目の前の男の性質をそれなりに承知していた。
 そしてそれが不思議と不快ではないことも。
「治療をさせて下さい」
「断る」
「何故です……」
「"なぜ"?」
 妙なことを聞く、とカレルは首を傾げた。
 何故なら必要がないからだ。傷はカレルと共にあり、カレルを形成する一部となる。
 しかし確かに常日頃から神の加護とやらを当てにしている人間にとっては、僅かに皮膚が裂けただけでも一大事であるのかもしれないなと思い直す。
「……そうだな」カレルは、互いの間に流れる大河に橋渡すことのできる言い表し方を探しながら、噛み含めるように言葉を紡ぐ。「無理に治療することを好まないのは、勘が鈍るからだ。斬られた痛み、恐怖、そういう本能に近い感覚を忘れると、獣は生きていかれない……」
「……剣に生きるあなたにとって、それが大事なものであることは否定しません。けれど、一度受ければ十分ではないですか。体の痛みにまで、あなたが苛まれる必要はない……」
「そしてお前の信仰する神の力で生物の摂理を捻じ曲げるのか?」
「癒しの力がわたしたちに与えられている事実を見ればその力もまた摂理に含まれるのではありませんか」
 カレルは胡座を崩し、僅かにそっぽを向いた。口論じみた問答は二人にとって今やじゃれあいのようなものだった。そして今回はカレルが白旗を上げるべきだろう。信仰の違いがあると言えども、ここまで強く頼み込まれて無碍にするほど一つの傷に執着する理由はないからだ。カレルは聖女エリミーヌの教えには興味がなかったが、己の信念を帰依した信仰に定めるこの男のことは好ましく思っている。
 けれどカレルのその態度をすげない拒絶と取ったのか、ついに前のめりでは勢いを殺し切れなくなり、ルセアは敷き布に両手を突いてぐいと身を乗り出しさえした。カレルはぎょっとして思わずルセアの腕を掴む——掴めるほどの距離で胸元に縋られ、ほとんど抱き留めるような姿勢となる。お願いです、と額を押し付ける頭の天辺のつむじが見える。控えめに漂っていた乳香のかおりが強くなる。
「……っおい、」
「――わがままを言っているのはわかっています。わたしの都合があなたの信念を曲げるものであることも。けれど、わたしはあなたがこれ以上、痛みを抱え込むのは嫌なのです……」
 どうか、治療を、と祈るように胸に置かれた手に、カレルは己の脈が僅かに乱れるのを自覚した。腕の中で無防備に身を縮こめるいきもの。はだけた肌に触れる湿った吐息の感触に、ぞわりと首筋の裏が総毛立つ。
 感じた恐れは目の前の男からではない。
 カレル自身の内から滲み出るものだ。
「ルセア」
 出た声は自分でも驚くほどに掠れ、熱を持った欲が滲み出ていた。恥じ入るように視線を伏せたルセアは気付かない。強引に胸元に飛び込む形になってしまったことに、ばつの悪さを感じているのだろうか、それよりもっと懸念すべきことがあるだろう。腕を掴む手に力が籠もりそうになるのを鋼の意志で押し留める。自分の力では、この男の腕は容易に折れてしまう。
「離れろ、ルセア」常にないカレルの語気の荒さに、ルセアがぴくりと肩を揺らす。のろのろと顔を上げれば、息の触れるほどの距離で、カレルの瞳の中に獣の息遣いを感じ取ったことだろう。「それとも、それを警戒して今まで夜に私に会うことを避けていたのではなかったのか」
 その言葉で、ようやくルセアが少し落ち着きを取り戻し、まじまじと自分達の有様を見下ろした。
 己が今何をしていて。
 互いの体が今どんな状態で重なっているのかを。
「あ……わたし……」
 かあっと白い肌に朱が差した。今やルセアはカレルの脚に手をかけ、押し倒さんばかりの勢いで寄り掛かっていた。無論、司祭の細腕で剣魔と恐れられる男を押し倒せるはずもなく、さながら仕掛けられた罠に飛び込んだ兎のように捕食を待つ身になっている。
 だが状況を把握してなお、ルセアはじっと動かなかった。静寂の中、こくりと喉を鳴らす音が妙に大きく響く。
「……どうした。逃げないのか」
「わた、しは……」カレルの腕の中で、ルセアは身を固くしながら、ゆっくりとカレルに体重を預けた。いっそ蚊の鳴くような震える声で告げる。「……あなたになら、如何様にされても……」
「……。お前」
「治療さえ、させて下さるなら……」
「…………」
 む、と思わず眉根も寄ろうというものだ。野兎よろしく怯えていたのではなかったのか。
 けれど未知への怯えは確かにあったのだろう、と思う。そしてとても口にはできない、身を焦がすような密やかな期待も。
 だがそれ以上に、自分にとって譲れないものが何かを知っていただけだ。この男は存外、したたかで我が強い。
「……いけませんか?」
 そしてカレルも、その我の強さを好ましく思ってこの男を受け入れた自覚がある。
 ……目を閉じて嘆息した。
「いいだろう。その治療、甘んじて受けてやる。……だが」
「あっ」
 カレルはやや強引にルセアの体を引き剥がし、一旦距離を取る形で向き直った。放蕩に身を委ねる前に、二つほどはっきりさせておかなければならないことがある。
「見返りが目当てではない」
 促せば、ルセアはおずおずと杖を手に取ってカレルにその先端を向けた。ここだ、と傷の位置を示すと、痛ましそうな表情を浮かべたのも束の間、紡ぐ魔法に意識を集中する。柔らかな詠唱と共に流れ込んでくる、温かな光。体の痛みにまで、苛まされる必要はない、というのがルセアの主張だったが、この男が使えば癒しの力はその奥にまで作用するような気さえしてくる。
 痛みが雪解けのように引いていく。
「私がお前の好意を受け取るのは、お前を好ましく思っているからだ。それを忘れるな」
「……はい」
「そして私が今からお前にすることも」
 治療を無事に終え、安堵の息を吐いてぺたりと座り込んだルセアに、今度はカレルが身を寄せた。敷き布の上に突いた手を捕らえ、細くうつくしい指を己の指で絡め取る。
「私がお前を好いているからに他ならない。お前が望まないなら、私も手を出さない」
 互いの息遣いの交わる距離でとめれば、とろけた青い瞳が従順に閉じられる代わりに、淡い薄紅の唇が薄く開いて口づけを誘う。軽く触れ合わせるだけで、先ほど与えられた光よりも深く己の中が満たされるのを感じる。
「それで、構わないな」
「……はい」
 腕の中で、応えるルセアの声は相変わらずか細い。しかしその奥に潜んだ震えるような歓喜の気配に、カレルはフッと息を零し、互いの熱の輪郭を確かめ合うように、緩やかに肌を重ねた。
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