散るマリーゴールド

(2014/06/01)


「神よ、どうかお許し下さい。大義の下に同じ人の子を傷付けるわたくしを、どうかお許し下さい……」
 ルセアが魔導書を胸に抱えて祈ると同時に、目を焼き尽くさんばかりの光が辺り一帯に広がった。光は凶悪な刃の形を取り、ルセアの眼前に迫っていた山賊たちへと襲いかかる。
「ひっ……」
「うわあああ!!」
 ルセアの魔導を受け、山賊の一団は堰を切ったかのように総崩れになった。神に祈ることで得た力が、容赦なく敵を引き裂いていく。血しぶきが上がり草木を赤く染め上げる、その目を覆わんばかりの光景を、ルセアは目を逸らすことなくただただじっと見つめていた。
 ルセアには、人を殺めることができない。神の力を借りなければ、自らの身を守ることすら危うかった。しかし、そうして神の力を借りることと自らの手を汚すことに、一体いかほどの違いがあると言うのだろう。自分の手から生み出された惨状から、ルセアはどうしても目を逸らすことができなかった。
 ルセアひとりが敵前に現れた、その油断もあったのだろう、あっけないほどに部隊は恐慌状態に陥った。背を向けて命からがらといった体で逃げ出す山賊たちを、しかしルセアは追うことはしなかった。今の攻撃で何人かには手酷い怪我を負わせてしまっただろうが、どれも致命傷に至らなかったのは幸いだった。なるべくなら、殺したくはないのだ。地面に残る血の跡を見つめ、ルセアは目の前から去った脅威にひとつ息を吐き出す。

「……甘いな」
 不意に背後から声をかけられ、ルセアは飛び上がらんばかりに驚いた。何しろ声をかけられるまで、まったく音も気配もしなかったのだ。戦場において、その隙は致命的だった。漏れ出る悲鳴を喉の奥に詰めて、反射的にその場を飛び退る。
 そうして背後を振り返ると、声の主はすぐに知れた。
「……カレルさん」
「相変わらず、修道士にしては中々に反応がいい」
 そこに無造作に佇んでいたのは、鋭い眼光を持った痩身の男だった。刀を帯び、鋼色の長髪を風に揺らす彼こそは、剣魔と称され恐れられる人斬りだ。今もその衣服は所々が血に濡れ、赤く染まっている。それでも彼の浴びる血の量は、彼の斬る人間の量に比べれば極々僅かなものなのだとルセアが知ったのは最近のことだ。曰く、長年人斬りとして培ってきた技術が返り血を浴びることを嫌うと言う。今も彼のその血糊の付着した衣服の下には、目に見えないだけでもっと多くの人間の命が散ったに違いなかった。その事実を正しく認識しながら、しかし草原に溶け込むその血に濡れた獣の姿にルセアは安らぎすら覚え、全身の警戒を緩く解いた。両肩が、知らぬ間に強張っていたようだった。
 彼と組んでこちらの方角を制圧してほしいとエリウッドから指示を受けていたことを、ルセアは今更ながらに思い出す。剣士と修道士という組み合わせは相性が良いのか、ルセアにはそういった兵法の類はわからなかったが、最近はカレルと共に行動するよう指示を受けることが多い。元々カレルと同じく剣を扱う主人と共に戦に身を投じていたルセアにとっては、相手は変わるものの進軍に伴う行動に大した変化があるわけでもなかったので、戦いに支障が出ることはなかった。唯一の気掛かりと言えば気位の高い己の主人のことくらいであったが、彼は彼で軍に上手く溶けこみ、組んでいる弓兵と仲良くやっているようだった。それであればルセアからは何も言うことはなく、それ故今日も指示通りカレルと行動を共にしていた。
 しかし、今日は途中でカレルがふらりとどこかへ消えてしまっていたために、ルセアは一人で敵軍を制圧することを余儀なくされていた。彼がそうやって姿を晦ますことは然程珍しいことではなく、また彼が理由もなく無断で軍を抜けるとは考え難かったので、恐らくいつもの通り別の場所を制圧しているのだろうとあたりをつけ、ルセアは疑問を差し挟むことなく単独行動を取っていた。仮にカレルが軍を抜けるのであれば軍主であるエリウッドに一言あるはずで、そういうところは義理堅い男であるように、ルセアの目には映った。
「一体どこへ行っておられたのです?」
「少し、血の匂いのする方に」
 予想通りの曖昧な返答に苦笑して、ニ、三歩彼の方へと歩み寄ると、途端ひどく強烈な血の匂いが漂ってきて、ルセアは思わず後退りそうになる自分の足をぐっと意志の力でその場に押し留めた。この錆びた鉄の匂いは、何度嗅ごうと慣れるものではない。けれど彼や、彼の生き様を厭っているわけではなかったし、彼にそう誤解されるのは嫌だった。
 「お怪我は」と控えめに口にした言葉に、「あるはずもないだろう」と素っ気なく返る一言。ああ、このひとの血ではないのだな、と安堵するルセアが一瞬見せた具合の悪そうな顔色を見過ごすことなどできるはずもなかったのか、カレルはそれ以上ルセアに近付こうとはしなかった。

 互いに相手の無事を確認し合い、自分の戦果と状況を報告し終え、本隊と合流しようかというときに、「そう言えば」と話を振ったのはカレルの方だった。
「よく考えれば、最近行動を共にしている割に、私はお前のことをよく見ていなかったのだな」後方支援に回っていた所為もあるが、とカレルは口にした。「お前はもっと、容赦のないものだと思っていた」
「そう、ですか?」
 容赦のない、の意味が掴めず、ルセアは曖昧な疑問の言葉で語尾を濁した。これでも自分では容赦なく敵を攻撃したつもりだったが、彼にとっては違ったのだろうか。
「一人も殺さなかっただろう」
 殺すべきだったのに、と言外に含まれたニュアンスを、ルセアはわざと見ないふりをした。
「彼らも同じ人の子ですから。なるべくなら、殺したくはないのです」
「『なるべく殺したくない』にしては、お前の血の匂いは少々濃い」
 男にしては珍しい、揶揄するような物言いに、ルセアは僅かに目を見開いた。その空気を察したのか、あるいは自ら失言であると感じたのか、人斬りの男は気まずげにすっと視線を横に流した。
「……すまん。口が過ぎた」
「いえ。おっしゃる通りですので」
 敵意で言っていることではないくらい、ルセアには理解できていた。仮にルセアを害する意図で発するのであればそんな迂遠な言い回しはしない男であったし、そもそも目の前の男がルセアを害そうと意図すること自体が考えにくい、とここ最近の自分たちを振り返ってルセアは思う。きっと、ただ純粋に疑問に思ったが故の投げかけなのだ。
「容赦がない、とおっしゃいましたね。わたしがもっと人を殺すとお思いでしたか?」
「……いや。お前は確かに人を殺めることを憂う、と言っていた。だが、その甘さでここまで生き残っているということは、少なくとも躊躇いを表に出すことなく、殺すことができるのだと思っていた」
 人斬りの男は――これもまた珍しいことに――奥歯にものが詰まったかのように、言い辛そうにその言葉を口にする。「私の勝手な思い違いだったかもしれないが」ルセアとは、目を合わせようとしない。
「信じるものを貫く――と。確かにそう聞いたと思っていたが」
「……そうですね。信念を貫くために、必要であれば殺生は厭いません。しかし逆に言えば、必要以上の殺生は避けたいのです」
「自らの手を汚したくないということか」
「……わたしの負う罪の多寡に関わらず、命は尊ぶべきものだと思っておりますので」
 事実だった。ルセアは聖職者だが、聖人か罪人かで言えば既に罪人だ。それはこれから人を殺さずにいたとして、到底贖えるものではない。けれどその可不可とは別に、必要以上に人が死ぬのを見たくはなかった。
「そうだな。お前はそういう男だ。……愚かなことを聞いた。今の言葉は忘れてくれ」
 絞り出した答えに、カレルは納得したのかどうか、これ以上はいい、という風に静かに頭を振った。

「……しかし、どちらにせよその甘さ、捨てた方がよいのではないかと思うがな。戦場では、『殺さなくていい』状況など存在しない。信念の有無にかかわらず、生き残る為には他者を斬るしかない。さもなくば――」
 唐突にカレルは刀を抜き、ルセアの肩口に向かって振り下ろした。咄嗟のことに、ルセアは動けない。ただただ、迫る刃をじっと見つめる。
「うわあああ!」
「!」
 ぴしゃ、と血がルセアの頬に跳ねた。痛みはない。背後から聞こえた悲鳴に振り返ると、いつの間にか忍び寄っていた山賊が首から血を流しながら倒れるところだった。先程の山賊の一人だ。さっと顔を蒼白に変えたルセアを尻目に、カレルは刀に付いた血を払う。
「いつかお前の甘さは、その身を滅ぼす」
「……心に留めておきます」
 絶命した山賊に、ルセアは膝を折って祈りを捧げる。彼がどうか、安らかに眠りにつくことができればいいと思う。可能であれば埋葬も行いたかったが、その時間が許されていないことは重々承知している。
「けれど」
 早々に背を向けていたカレルを追って、ルセアは立ち上がる。
「けれど、やはりわたしは……誰のことも、殺めたくはないのです」
 締め付けられるように痛む胸から吐き出した言葉を、カレルは振り返り、無表情にじっと聞いていた。その目が一瞬、痛ましいものを見るかのような色を湛えたように見えたのは、ルセアの見間違いであったのかもしれなかった。
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