非線対称の夢

(2013/01/04)


 赤の王が死んだ。

 その報せを聞き、塩津は僅かに瞑目した。最初に思い出されたのはあの暴力的なまでの炎を纏った赤の王本人ではなく、その隣に常に控えていた赤の組織の参謀――草薙出雲の顔だった。
 数年前、初めて対峙したときは餓鬼くささの抜けていなかったあの男も、今や大きくなった赤の組織を纏め上げるそれなりの餓鬼になっていると聞く。と、そこまで思いを巡らせて、塩津は苦く笑った。この歳になると、どいつもこいつも餓鬼扱いしかできやしねえ。
 会わずともそういう情報だけは今も耳に届いていた。腐っても元セプター4だ。本当に、根本から腐ってはいたが。

 赤の王が死んだ。
 あの男は生きているのだろうか。
 だとしたら、ひどい責め苦だと塩津は思う。自らの生きる目的とも言えるだろう王を失う痛みは、塩津が一番よく知っていた。ましてあれは聡い男だ。盲目的に王の偶像を抱いたまま生きていけるほど、器用だとも愚鈍だとも思えなかった。
 あの男のことだ、覚悟はしていただろうが、それでも。

「どこ行くの?」
「どこか行くの?」
 塩津が席を立つと、何やら熱心に作業をしていた双子が弾かれたように顔を上げた。
「ちょっと野暮用だよ」
「ちゃんと帰ってくる?」
「何時くらいになる?」
「あー……わからんが、早めに帰ってくるようにはする。いい子にして待ってろよ」
「「わかった」」
 特に何をしに行こうと思ったわけではなかった。「励まし」や「慰め」などの言葉が脳裏に浮かびはしたが、塩津はそれらを鼻で笑い飛ばした。そんな温いものではない。
 少し顔を見に行ってやろうと思ったこの感情は、強いて言うなら好奇心だった。数年前、自分を前に啖呵を切ったあの若造が、本当に自分とは違うことを証明できているのか。できていなければ、嘲ってやるのだ。ざまあみろ、やはりお前も俺と変わらないだろう、と。
 塩津はタンマツを取り出し、目的地の情報を打ち込んだ。死んでいたら、それはそれで嘲ってやろう。偉そうな口を叩いておいて、結局お前は逃げたのかと。少しの羨みを混ぜて、盛大に哂ってやろう。



「……あら。これは珍しいお方が来はったわ」
 塩津が古めかしい木製の扉を開けると、ようお越しやす、と相も変わらず食えない顔で笑う男がそこにいた。草薙出雲。数年前とさして雰囲気は変わっておらず、その口元に煙草がくわえられている点も塩津の記憶と一致している。変わった点といえばサングラスを着用していることくらいか。
 サングラスに隠れて、草薙の表情はうまく読み取れない。
「……生きてたんだな」
 憮然とした塩津の呟きに気を悪くした風も無く、まあおかけやす、と草薙はカウンター席を指し示した。店内を見渡すと、客はおろか、この店をたまり場にしていたという赤のクランのメンバーの姿も見当たらなかった。かと言って奥のテーブル席に向かう理由も見当たらず、塩津は勧められるままにカウンター席に座る。
「いやあ、ご来店早々えらい言い草やないですの。何しに来はったん?」
「客に対してその言葉はねえんじゃねえのか」
「ああ、すんません。まさかセプター4の元司令代行ともあろうお方が、まさかこんなはよから酒飲みに来はったとは思わんかったもんですから」
 『えらい言い草』の意趣返しのつもりか、ちくりと毒を含んだ言葉が塩津を刺した。塩津はぎゅっと眉根を寄せる。
 しかし草薙は自分の害意などおくびにも出さず、あるいはまったく意識してすらいなかったのか、何にしましょ、お客さん、と泰然と構えるだけだった。自分が過剰に反応し過ぎただけか、と塩津は思い直して口を開く。
「……そうだな。じゃあ適当に、あんたのおすすめでも入れてくれ」
「かしこまりました」



 そうして出てきた色鮮やかなカクテルを、塩津は一息に煽って空にした。かん、とカウンターにグラスの底を打ち付ける。
「え、えええ? お客さーん、もおちょーっと味わって飲んでくれはってもええんちゃいます……」
「気分はどうだ」
 唐突な塩津の問いに、草薙は一旦表情を消して塩津を一瞥し、それからひどく大げさに顔を顰めた。
「……それはこっちのセリフですよ、お客さん。一気飲みなんかしはってからに」
「己の王が死んだ気分はどうだ」
 塩津が斬り込むように問うと、草薙は流石に言葉を詰まらせたようだった。痛いところを突かれると、僅かに素顔を晒してしまう、その悪い癖は相変わらずのようだ。それでも、ゆっくりと吸い込んだ煙草の煙を吐き出し、そして何事も無かったかのようにへらりと笑う、その動作に数年前ほどの無理は見られなかった。この状況でどうして平静に笑っていられるのか、塩津には理解できない。
「……悪うないですよ。なんや、長年の肩の荷が降りた気分ですわ」
「そうかよ」
 しかし答えた草薙の声からは、先ほどまでの覇気は失われていた。無理をしているわけではないが、それが本心のすべてというわけでもないようだった。当たり前だ、と塩津は思う。王の死を、そんな簡単な感情で片付けられるようなら、もとよりクランズマンなどになってはいないのだ。俺も、この男も。
 塩津は胸ポケットに手を伸ばし、自分の煙草を箱から取り出した。「おい、火はあるか」と訊くと、じっと微かな音を立てて煙草の先が熱を持った。それは間違いなく目の前の男の仕業だったが、てっきりジッポを取り出すものだと思っていた塩津は違和感を抱いてしばしの間固まった。
 次に塩津は、ゆっくりと草薙の首に右手を伸ばした。草薙はじいと自分に迫る手をサングラス越しに見つめるが、何も言わず、何もしない。カウンター越しに辿り着いた目的のものに対し、塩津は右手にぐっと力を込めた。どく、と血の鼓動が手中で跳ねる。
 そんな急所を無防備に晒している現状に対し、草薙の行動はその瞼を閉ざすのみに留まった。
「己の王が死んだってのに、自分だけおめおめと生き残っている気分はどうだ?」
「……それについてはノーコメントです。あとお客さん、うちのバーはお触り厳禁ですよ」
「へえ、そりゃあ知らなかった。風俗はやってなかったのか」
 侮辱を織り交ぜるが、草薙は目を閉じたまま動じない。
「自殺志願者にでもなったか」
「……そう積極的に望めるんやったら、とっくに俺はあの世におさらばしてますよ」
「そうだな」
 ぴくり、と草薙が瞼を揺らして目を開けた。塩津に胡乱げな視線が突き刺さる。塩津は、自分が驚くほど素直に破顔しているのがわかった。いけないとわかってはいても、嬉しさが声に滲み出る。
「そうだよな」
 かつてこの男に否定された自分の在り方が、間違ったものではなかった気がして、塩津は内心ひどく安堵していた。いや、間違ってはいた。間違ってはいたがしかし、それは仕方のない間違いだったのではないか。自分でも身勝手な解釈だと意識しながら、塩津は頬を緩める。
 取り繕う気もない塩津の喜色を目にし、草薙は嫌そうに口元を歪めた。
「……ま、たとえ王さん失うても、いたいけな幼女をむりやり王にしよ思て虐めるほど自分が落ちぶれてないようで安心しとります」
 草薙の軽く払う動作に合わせて、塩津は草薙の首にかけていた右手を解いた。
「相っ変わらず可愛げのねえ餓鬼だな」
「そらおおきに。おっさんに可愛い思われてもしゃあないですし」
 草薙は嘆息して二杯目のカクテルを塩津に差し出した。塩津はそれも一息に空にし、草薙を呆れさせた。



「これからどうすんだ」
「そうですねえ、まず吠舞羅は解散させな。どこぞの青の組織みたいに、後任の妨げになったらあきませんし」
 ちくちくと草薙の言葉が塩津を刺す。やはり悪意を持った嫌味ではないかと塩津は草薙を一瞥するが、サングラスの奥の瞳は塩津からは窺い知れない。
「後は、まあ、どこへなりと行きますわ」
 しかし静かに響くその声には、惰性など微塵も含まれず、自ら選択して残ることを決めた強い意志が表れ出ていた。
「自分の王に、せいだい背かんように」

 どうしてこう嫌味な言葉しか吐けないのか、と塩津は煙草を躙った。吠舞羅のナンバー2は来る者を拒まない人格者だというのが世間のもっぱらの評判だったが、この男が何か裏で情報操作でもしているのではないだろうか。
 そう塩津が口にすると、「嫌味に感じるのは、お客さんに後ろ暗いところがあるだけやないですか」と冗談めかして言われた。まったくその通りだったので、塩津は口を噤む。王の側近として、草薙の選択はあまりにも正しく、塩津にはあまりにもまっすぐに見えた。

「まあ、たまの酒にくらいは付き合ってやるよ」
「そらおおきに。絶対呼びませんわ」
「そうつれねえこと言うなよ。『お友達』だろ」
「……えらい昔のことを根に持ちはる」
 塩津が代金を置いて席を立とうとすると、草薙は「ええですよ、サービスさせてもらいます」とやんわりと首を横に振った。サービスされる謂れがない、と塩津は訝ったが、草薙曰く、いつも反面教師にさせてもらってますから、とのことだった。そのあまりにも堂々と毒を含ませた物言いに、塩津は言い返す気力も起きず、渋々と財布に金を戻す。



「……塩津さん」
 ふいに名前で呼び止められて、塩津は外へ出る足を止めた。先ほどの軽口とは違う、その僅かに脆さを露呈した声音に、振り返ると面倒事になりそうな予感を抱き、肩越しに声を投げるに留める。
「……なんだ」
「……もし、もしいつか、俺があかんようになったら。……そんときは、来てくれはります?」
 具体的にどうなったら、と草薙は言わなかった。来て、塩津に何をしろとも言わない。けれど草薙の望むものが、塩津にはわかってしまった。それは自分がかつて望んでいたものと同じものだ。
 塩津は振り返りはしなかったが、相手の平静を装った顔が今にも崩れ落ちそうなのが、容易に想像がついた。まったく、どこまでも嫌な餓鬼だ。
「……嫌なこった。テメエのケツくらい、テメエで拭え。俺は手伝わん」
 そう扉に向かって吐き捨てると、「さいですか」と背中に声が返ってきた。草薙にしては珍しく、無表情な声だった。落胆の色はなく、嫌味も飛んで来ない。



「……えらい時間取らしてしまいましたわ」
 僅かな沈黙の後、へらへらとした笑いを取り戻したであろう草薙がそう発した。止まった時間が動き出したのを見てとって、塩津は外へ繋がる木製の扉を押し開ける。
「邪魔したな」
「おおきに。またおいでやす」
「……ああ」
 草薙の声が背中にかかるが、もう会うことはないだろうと塩津は予感していた。駄目になったら、と彼は言ったが、それを塩津が見ることはないだろう。

 外は腹が立つくらいの晴天で、薄暗い店内から出た塩津は、その眩しさに目を眇める。
「俺が言えた義理じゃねえよなあ」
 自分で始末をつけろだなどと、言えた義理ではない、と塩津は自嘲する。しかし、草薙が塩津と異なる夢を見る以上、塩津が手出しをする結末が許されようはずもない。
「まあ、楽しみではあるが」
 ただ、そうして塩津が楽しみにしている限り、あの嫌味な餓鬼は、道を踏み外すその片鱗さえきっと塩津には見せないのだろう、と塩津は思う。
「……さて。帰るとするか」
 つくづく、嫌な餓鬼だ。
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