安息の日
「お前のその腰にくっ付いてるのはなんの装置なんだ? もしかしてアドレナリン製造機か?」
オクタンがAPEXゲームに参戦してまもなくの頃、ミラージュは彼に聞いた事がある。
レジェンドが身に付けている装備は人によって様々で、ミラージュは両腕にホログラムの投影装置を付けているし、ジブラルタルは左腕にガンシールドを装着している。
ゲーム側から支給されるのは、高所からのダイブを補助したり着地の衝撃を和らげるジャンプキットと小型の無線機、そしてゲームの前に必ず服用する決まりとなっている小さなカプセル状のナノマシンだった。
それ以外は、各個人の特性に合わせた装備やアイテムを準備してゲームに臨む。
オクタンの両腰には、ジャンプパッドを収納するバックと、反対側にポンプのような筒型の箱が装着されていた。
「逆だ、逆。体の中の余分な興奮剤を濾過する装置さ。いくら俺様とはいえ、溜まりすぎると爆発しちまうからな」
ミラージュの問いかけに、オクタンはマスクの下でひび割れたような声を出した。
今日のゲームでもアドレナリン全開の彼は、その細身の体に興奮剤を突き刺し、盛大な雄叫びとともにフィールドを駆け回っていた。そのせいで普段よりも声が枯れているのだ。
「あんたもあんまり溜めすぎない方がいいぜ、JAJAJA」
オクタンは、同じチームのバンガロールに聞こえないように、ミラージュの耳の側でからかうような口調で囁いた。
生意気に下ネタかよ、と呆れつつ、自分よりもひと回り小さな身体を観察してみる。
右腕に巻かれたバンテージからは二本のチューブが背中に伸び、小さなバックパックの中からアンプルに興奮剤を補充しているらしい。
問題の濾過装置はどういった仕組みで動いているのか不明だが、オクタンの説明によれば、興奮剤によってできた血液中の不純物や自然に処理しきれない薬の成分をダイアライザーで濾過し、また体内に戻しているという。いわゆる簡易的な透析のようなものだ。
驚異的な回復力もそれに由来している。
激しいゲームのさなかにそんな恐ろしい事をやっているのかと、ミラージュはオクタンの強靭さに舌を巻いた。
普通なら、病院のベッドに横たわって安静にして行われるべき処置ではないのか。
「そんなに動き回ってて大丈夫なのか? 貧血になったりはしねぇのか?」
「ゲーム中はハイになってるから何も感じないな」
オクタンはこともなげにそう言って、腕をぐるぐると回した。
そこへ、バンガロールから集合の無線が入る。
透き通った黄緑色の興奮剤が入った注射器を指で器用に回しながら、オクタンはミラージュに向かって首をかしげてみせた。
「あんたも試してみるか?」
「いや、俺は遠慮しとくぜ。どっかの兵士みたいに、一週間も眠れなくなっちまったら大変だからな」
「俺のスティムは特別製だ、そんな事にはならねぇよ! そんじゃ、先に行くぜ! ヒャーッハッハ!」
言い終わるなり注射器を額に突き立てて、オクタンは疾風のごとくバンガロールの方へと走り去って行った。
ミラージュは半ば呆気にとられてその後ろ姿を見送った。
改めて考えればイカれた行為だ。注射が大嫌いなミラージュからすれば、それをさも嬉しそうに行っているオクタンもまたイカれた男に違いない。
まだ彼の素顔すら知らなかったミラージュは、オクタンの口は耳まで裂けていて、体には緑色の血が流れているような気がした。
ミラージュとオクタンが、互いの家を行き来するくらい親密になる頃には、ミラージュはそんな話をした事もすっかり忘れかけていた。
彼がオクタンを強烈に意識する事になったきっかけは、興奮剤の過剰摂取だったが、次の日にはケロリとしてゲームに参加し、特に目に見える異常もなく相変わらず元気なオクタンを見るにつれ、そう大した事ではないのかもしれない、と楽観的に思った。
それ以来、毎日のゲームやプライベートを共にし、新しい発見があるたびに、ミラージュはオクタンに惹かれていった。最近では、ふとした時にオクタンからの好意を感じることもある。
それは決してうぬぼれや勘違いではないと、ミラージュは思うのだ。いや、思いたかった。
恋人とは言うには決定的に色気が足りないが、俺はもう少し欲張ってもいいのかもしれない、そんな事を思い始めたある日のことだった。
キングスキャニオンの上空をソラスシティに向かって帰還するシップの中で、ミラージュは自分のブースで雑誌を読んでいた。
先日取材を受けたばかりの特集記事が載ったファッション誌だ。最新のコーディネートに身を包み、表紙を飾るエリオット・ウィットは、自分でも惚れ惚れするほどいい男だった。
あとであいつにも自慢してやろう……ミラージュは綺麗に整えられた髭を撫でつけ、無意識にオクタンの姿を探した。
向こう側の共有スペースのソファーでは、いつものようにジブラルタルやライフラインがお菓子をつまみながら談笑している。そこには、ついこの間仲間に加わったばかりのワットソンの姿もあった。
だが、オクタンのブースは空っぽで、ゲームが終わってから今まで声も聞いていないことに気付く。
試合後のオクタンは勝っても負けてもハイテンションなので、どこに居るかはすぐに分かった。
ブラッドハウンドのカラスにちょっかいを出したり、コンピューターゲームをしたり、ミラージュのブースに押しかけて来たり、大抵はこのフロアに居るはずなのだが、どこにも見当たらない。
何かあったのだろうか?
あの騒がしいだみ声が聞こえない事に物足りなさを覚えながら、ミラージュは再び雑誌に目を落とした。
ページをめくっていると、カメラ目線の自分の写真の上を、突然ゆらりと影が横切った。
ミラージュが顔を上げると、そこにはゴーグルとマスクを付けたオクタンが立っていた。洗いざらしの金色の髪がふざけたように飛び跳ねている。
ミラージュが口を開く前に、オクタンは無言で彼の隣にどさりと腰を下ろした。
いくらオクタンが傍若無人だとはいえ、他人の部屋ともいえるプライベートな空間に、いきなりずけずけと足を踏み入れるほどの常識知らずではなかったはずだ。
普段なら「よう、アミーゴ」とか「邪魔するぜ」とか、一応の挨拶をしてから入って来るのだが、今日のオクタンはどこか様子がおかしかった。
ミラージュは、不審に思ってオクタンの顔を覗き込んだ。
「……どうした?」
「ちょっとお前に頼みがあるんだ、アミーゴ」
オクタンはうつむいたまま、ボソボソと聞き取りにくい声で切り出した。
「悪いけど、俺んちまで乗せてってくれないか? なんだか調子が悪くてよ……」
「それは別に構わねぇが……なんだ、風邪でもひいたのか?」
よく見れば顔にはうっすらと汗が浮かび、Tシャツ一枚しか着ていない体には細かな震えが走っている。慌てて手のひらを額に当ててみたが、熱があるのかどうかよく分からなかった。
もっとよく確かめようと、そのまま首筋に触れるミラージュの手をオクタンが掴んだ。その指先は驚くほどひんやりしていた。
「お前の手、なんでこんなに冷たいんだ?……もしかしてまた薬を使いすぎたのか? だったら、俺の所に来る前にライフラインに診てもらえ」
「アジャイには内緒にしてくれ。あいつに知られると色々とうるせえから」
オクタンは押し殺すような声でそう言い、共有スペースにいるライフラインの様子を伺った。幸いにも彼女はワットソンやジブラルタルとのお喋りに夢中のようだった。
「またそんな事言って……。彼女がダメだってんなら救護室に行け」
オクタンは、答えるのも面倒くさいといった風に首を振るだけで、そのままソファーの背もたれに倒れ込んだ。
「オク」
「あとで話すよ……」
苦しいくせに、頑として動く気はないらしい。ゴーグルとマスクの下で、やせ我慢をしているさまが目に浮かぶ。
ミラージュはため息をつき、丸まっていた自分のジャケットをオクタンの肩に掛けてやった。
抱きしめる勇気のない、自分の腕の代わりだ。
一刻も早いソラスシティへの到着を願いながら、ミラージュの頭には興奮剤の過剰摂取によって倒れた、あの時のオクタンの姿が思い浮かんでいた。
ドロップシップがソラスシティに到着すると、ミラージュはオクタンを半ば抱きかかえるようにしてパーキングまで連れて行き、車に押し込んだ。
オクタンはTシャツとハーフパンツしか着るものを持っていなかったので、愛用している緑のジャケットをそのまま貸してやった。丈も身幅も余っているが、腕の長さはそんなに変わらないんだなと、妙な所に感心する。
ミラージュの愛車の助手席で、半ば朦朧としながらオクタンは説明を始めた。
「体の中の薬が完全に抜けるまでには時間がかかるんだ。短時間に使えば使うほど、体内に残る薬の量が増えてってオーバードーズを引き起こす。それを防ぐためにダイアライザーがあるのさ」
「それでもあのちゃちな装着じゃ限界がある。だから、定期的に掃除してクリーンにしなきゃならねぇんだ。自分の身体の中をな。腹膜透析って言うんだけど……簡単にいえば、車のオイル交換みたいなもんだ」
オクタンについて、大抵の事は知っていると思っていたミラージュにとって、それはショッキングな事実だった。
腹膜透析は、主に糖尿病患者や肝機能障害などの患者が、自分の腹膜を使って血液を健康に保つ為の医療行為だ。
オクタンの興奮剤が、そんなに大掛かりなメンテナンスを必要とするものだったとは、夢にも思っていなかった。
だが、ミラージュのジャケットの中で体を泳がせたオクタンに、悪びれた様子はない。
「それが面倒くさくってさ。……ついサボってたらこのザマさ。もしこれがアジャイに知れたら……わかるだろ?」
「俺なら怒らないと思ったのか?」
ミラージュは、怒鳴りたい気持ちを押さえつけてハンドルを強く握りしめた。知らなかった自分と、自分の体を省みないオクタンの両方に腹が立った。
「俺だってライフラインと同じ気持ちだぜ。もっと早くにこの事を知ってたら、お前を捕まえてベッドに縛り付けてただろうさ。ましてや彼女は看護士なんだ。その重要性は誰よりも知ってる。お前の事を心配するのは当たり前だろ?」
「……分かってるよ、アミーゴ」
青ざめたオクタンは、時おり襲ってくる吐き気と戦っているようだった。その苦しげな様子を見ると、それ以上のきつい言葉を掛ける気にはなれない。
ミラージュは片腕を伸ばして丸まった背中をさすってやった。
「もうちょい辛抱できるか?」
「……ああ、努力してるぜ」
オクタンの自宅の直ぐ側に車を着けると、オクタンは車から転げるように降りて、道の脇に胃液のようなものを吐いた。
黄色い液体には固形物はほとんど混じっておらず、彼がろくな食事をしていないことは明らかだった。
ミラージュは居ても立っても居られず、オクタンを抱えて背中に乗せると、目の前のガレージハウスに向かって歩き出した。
もうすでに背負われることへの抵抗も感謝も思いつかず、オクタンはミラージュの背中で「気持ちわりぃ」と力なく呟くだけだった。
ロックを解除し中に入ると、そこは興奮剤やジャンプパッドの保管されている倉庫になっていて、ダンボールやパレットが乱雑に積んであった。
奥には階段があり、オクタンが生活している部屋はこの倉庫の二階になっている。
ミラージュが階段へ向かおうとすると、オクタンは「そっちじゃねぇ……あっちだ」と、反対側の扉を指さした。
「ったく、人使いが荒いな」
言われるまま鍵のかかっていないドアを開けると、地下への階段があった。
何度もオクタンの家へ来てはいたが、ミラージュがここに入るのは初めてだ。この家に地下室がある事さえ知らなかった。
オクタンはミラージュの背中から降りて地面に義足を付けると、鋼鉄製の頑丈そうな扉の前でゴーグルをずらした。
「網膜認証か」
ミラージュが、その古くて簡素な建物に似つかわしくない物々しい扉をくぐると、白い天井と壁に囲まれた狭い部屋の中は、まるでラボのような造りになっていた。
真ん中に電動式のリクライニングチェアとワゴンに乗った透析機らしき機械が置いてあり、その周りには計器と大小のモニターが並んでいる。
病院の匂いだ、とミラージュは思った。部屋の中には、どこか懐かしさすら感じさせる薬品の匂いが漂っていた。
ここがワットソンやコースティックの研究室なら何も不思議に思わなかっただろう。
だが、オクタンとこの人工的な部屋がどうしても結びつかずに、ミラージュは戸惑っていた。
「悪かったな、ミラージュ。あとは大丈夫だ」
オクタンはそれ以上彼を中に入れまいと、ふらつく足取りで行く手を遮った。
「ちょっと待て、このまま一人にするわけにはいかねぇぞ。最後までその、透析とやらが終わるのを見届けねぇとな」
「……ちゃんとやるって」
「俺は帰らないからな」
ミラージュは適当な椅子を見つけて、そこにどっかりと腰を据えた。
「……勝手にしろよ」
オクタンは観念したように呟き、ミラージュに借りたままのジャケットを脱ぐと、透析装置の電源を入れた。そしてパネルに何かの数値を入力し、両手と器具を丁寧に消毒する。
迷いのない慣れた手付きは、これまでに彼が幾度となく同じ作業をしてきた事を伺わせた。
機械から伸びる二本のチューブを淡々と腹部のバルブに繋いでいく様子を見て、ミラージュは瞳を曇らせ、膝の上の両手を握りしめた。なぜだか涙が出そうになってくる。
それが意味のない事だと分かっていても、聞かずにはいられなかった。
「なぜだ? なんでそうまでする必要がある? 薬なんか使わなくったって、お前はじゅうぶん速いだろ?」
「だからお前には見せたくなかったんだよ。……お前は俺をかわいそうだと思ってるのか」
「そうじゃない……そうじゃねぇけど」
「だったらそこで見てろよ」
オクタンは緑色の丸いボタンを押して、静かに椅子に身体を預けた。ミラージュが立ち上がり、吸い寄せられるようにそこに近付く。
オクタンの腹から濁った液体が吸い出され、チューブを通り、機械の反対側のチューブから新しい薬液が体内に戻って行く生々しい作業が繰り返されるのを、ミラージュは言葉もなく見守っていた。
ゴトゴトという不穏な音と消毒液の匂い。
窓のない無機質な部屋。
一人で過ごすには、痛々しくて孤独な時間だ。
何時間かかるのかは分からないが、終わるまでずっと側にいるつもりだった。してやれる事がそれくらいしかなくても、オクタンが自分を頼ってくれたならそうするべきだと思った。
脱ぎ捨てられたジャケットを腹のあたりに掛け、顔を覆ったままのマスクとゴーグルを外してやる。
「痛くねえのか? 気分はどうだ?」
「全然、むしろ気持ちいいくらいだぜ」
乾いた唇の両端を持ち上げて、オクタンはミラージュを見上げた。
ミラージュの顔に笑みはなく、憂いを帯びた瞳が静かにオクタンを見つめている。
「お前はせめてちゃんと飯を食えよ……。終わったら俺が作ってやる。何か食いたいもんはあるか?」
オクタンが、戸惑ったように首を傾ける。
「……何でお前は俺にそんなに優しくしてくれるんだ?」
「理由なんか知らなくっていいぜ。知ったらお前は、俺の事を嫌いになっちまうからな」
優しい手がためらいがちに髪を撫でる。
ミラージュの手とジャケットの暖かさを感じながら、オクタンは黙って目を閉じた。
そのとき、モニターに写し出されたオクタンの脈拍の数値が一気に跳ね上がった事など、ミラージュは知るよしもなかった。
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