ハロウィンの影たち


木の匂い、葉っぱの匂い、乾いた風と大地の匂い、エリオットの匂い……。
レイスのポータルで元の世界に戻ると、いきなり色んな匂いが戻って来た。もうすぐ夜が明ける。
ここに太陽の匂いが加わったら、そこはもう完璧な俺たちのキングスキャニオンだ。
俺はエリオットを医療班に引き渡し、しばらくの間シップの外で風に当たっていた。
ポータルからは続々と他の奴らも戻って来て、チャンピオンの俺へ、祝福とねぎらいの言葉を掛けて通り過ぎて行った。
最後に出てきたオビが、にこやかに俺の前で立ち止まる。
「素敵でしたよ、シルバ。とても格好良かったです」
「巻き込んじまって悪かったな、オビ」
「いいえ、とんでもありません」
オビは胸に手を当てて、軽く頭を垂れた。
「私は嬉しいのですよ、シルバ」
「嬉しい?」
「私はあの頃、あなたは死にたがっているのだと思っていました。死に場所を探して、無茶を繰り返しているのだと。でもそれは私の思い違いだったようです」
「オビ……」
「ここに来て、それが良く理解できました。あなたに必要なのは、死ぬ場所ではなく生きる場所だったのだと。それを求めて、あなたは戦っていたのですね」
「………戦ってなんかねぇ。逃げてただけさ、たぶん」
「今は?」
「さぁ、どうだろうな? 俺はあんたみたいにゴチャゴチャ考えたりしねぇから分からねえよ」
オビは帽子の鍔の下の青い目を細め、うっとりしたような調子で語りだした。
「私は、あなたとエリオットの信頼関係に、とても深い感動を覚えました。あなたのトラウマであるかもしれないグレネードを、何の躊躇もなくあそこで使うことができるとは……。お互いを信頼していなければ、到底できない事です。幼児だとばかり思っていたあなたが愛を知り、人として成長している、ああ、なんて素晴らしい事なのでしょう、オクタビオ・シルバ。……今夜の戦いは、私に大いなるインスピレーションを与えてくれました。私は詩を綴り、それを歌にするでしょう。そして、私のオーディエンスたちに聴かせて差し上げるのです。ああ、聴こえる……美しき愛の奏でる旋律が」
オビは恍惚とした表情で身悶えていたが、俺はこっそりとその場を去った。どうやら俺の背中にもシャクトリムシが這ってるみたいだ。
いい奴には違いねぇが、勝手に自分に酔いしれるところは変わってねぇな。
ドロップシップに向かうと、ちょうどエリオットが降りてくるところだった。ゲームの装備のまま、金属製の杖をついて右足を浮かせている。
俺はすかさずエリオットに駆け寄って、身体を支えた。
「みっともねぇとこ見せちまったな」
「気にすんな。それより、脚の具合はどうだ?」
「……大したことはねぇ、ちょっと捻っただけだ」
エリオットは、包帯とサポーターでぐるぐる巻きになった足を持ち上げてみせた。
イベントには出られなくなったが、捻挫だけなら来シーズンには間に合うだろう。こいつにとっちゃ願ったり叶ったりってわけだ。
帰りの道すがら、あの時何があったのかと尋ねると、エリオットは立ち止まり、朝焼けに煙るキングスキャニオンの空に視線を移した。
「……声が聞こえたんだ。あれはレヴの、いや、もう一人のシミュラクラムの声だ。頭の中に直接話し掛けてくるみたいに、俺と母さんの事を面白おかしく言いやがって……」
「あいつはそうやって俺たちを惑わそうとしてるのさ。人の弱みに付け込む、嫌な奴だぜ」
「俺はまんまとそれに嵌っちまったってわけだ。……気が付いたら、俺の目の前にあの影がいた。お前も見ただろ? 俺にはすぐ分かったぜ、あいつらが誰かって事がな」
「エリオット」 
「分かってるって。あれはただの影だ。そうだろ? ……多分俺は、兄貴たちを見つけられなかった自分に、どこか負い目を感じてたんだろうな。あいつらは死んで、俺だけが生き残った、その事を恨んでるんじゃねぇかって……。だからあんなもんを見たんだ。認めたくはねぇが……」
そう言ってエリオットは皮肉交じりの笑みを浮かべた。
なぁ、アミーゴ、こんな時なんて言ったらいいんだ? 情けねぇことに、俺には何も思い浮かばねぇ。エリオットを慰めてやりたいのに、俺はただ黙って手を握るくらいしかできねぇんだ。
俺は松葉杖を握るエリオットの手に自分の手を重ねて、グローブの隙間に指を入れた。
そこはいつもと同じように温かく、浮き出た血管には確かに血が巡っていた。
こいつがちゃんと生きている、そのことにほっとする。
もしあの時俺が撃たなかったら、エリオットはあの影にやられて、どっかに連れてかれちまったんだろうか? 一体どこへ……?
俺はぶるぶると頭を振って、その考えを振り払った。
どこにも行かせやしない。
たとえそれが、エリオットの兄貴たちだったとしても、こいつは俺のものなんだからな。
勝手に連れてってもらっちゃ困るんだ。
「オクタビオ? どうかしたか?」
「いや、なんでもない」
不思議そうに微笑んでいるエリオットをハグして目を瞑り、俺は生きているエリオットの匂いを思いっきり吸い込んだ。
バランスを崩しかけたエリオットは、松葉杖と左足で踏ん張って、眉尻を下げる。
「おい、よせよ……まだ汚れたまんまなんだ」
俺は構わずにエリオットに頬を寄せて、背中に回した腕に力を込めた。
 ――ああ、そうか。
俺は唐突に理解した。
あの影はきっと、エリオットを殺そうとしたのでも、連れ去ろうとしたのでもなかった。
……ただ、抱きしめたかったんだ。
影になってさえ、独り置いてきちまった泣き虫な弟を抱きしめて、慰めてやりたかったんだ。
俺を見つめる柔らかな眼差しに、写真で見た昔のエリオットの面影がよぎる。ヒゲも傷もない、ソフトクリームみたいな髪をしたチコ。
だったら、俺が代わりにそうしてやるよ。
俺がいる限り、エリオットに寂しい思いなんかさせるもんか。めいっぱい抱きしめて、キスして、笑わせてやるんだ。
俺はマスクをずらして、その唇に約束がわりのキスをした。
「俺は、お前が生きててくれて嬉しいぜ、エリ。お前の兄貴たちだって、きっとおんなじさ。幸せになって欲しいって思ってる」
目の前のエリオットの顔がくしゃりと歪んだかと思ったら、すぐに俺の首元に埋まって見えなくなった。
手から離れた松葉杖が地面に落ちて、軽い金属音が響く。俺はエリオットの両腕と懐の中に、すっぽりと抱きしめられていた。
……これじゃ逆なんだけど、ま、いいか。
背中をさすって、刈り上がった後頭部を撫ででやる。
エリオットは俺の顔の横でスンスンと鼻を鳴らし、
「お前はいつもお日様の匂いがするな」
と、鼻声で呟いた。

4/4ページ
スキ