Brand New Days
自分の家とは街の反対側に位置するオクタンのガレージハウスに到着すると、ミラージュは家の前に車を停めて、外付けの階段を上がっていった。
ドアを開けるやいなや、軽い衝撃とともにハグされる。
こちらもTシャツに七分丈のカーゴパンツを身に着けたオクタンは、ミラージュの首に腕を巻き付けて「早かったな」と唇の横っちょにキスをした。
「準備はできてるか?」
「俺の身ひとつで十分だろ?」
「はは、違いねぇ」
一番大事な荷物をぎゅうと抱きしめて唇を重ねる。
部屋の中を見渡せば相変わらずの散らかりようで、これから引っ越す者の部屋とは思えなかった。
足元にひとつ大きなスーツケースがあるだけ。どこまでも身軽なオクタンらしい荷造りだ。
「飯は……どうせ食ってねぇんだろ?」
「俺、ドライブに行きてぇな。今年はまだ海に行ってないだろ? ボサッとしてたらあっという間に夏が終わっちまう」
「よし、決まりだ」
しわしわのベッドもそのままに、二人はさっそく出掛けることにした。
この家はまたしばらくの間、無人の倉庫としての役割に戻ることになる。
オクタンは、無造作に積んであったダンボールの上の小さな箱を持ち出して、入口に鍵をかけた。
本日もソラスはからりとした晴天だ。
ラジオから流れる音楽とオクタンのお喋りをBGMに、ミラージュは軽快に愛車を走らせ、雑多な街並みを抜けて海岸線へと流れていく。
真夏のソラスの太陽の下、色付きのゴーグルだけを装着したオクタンは、助手席から照り返す海を眺めて潮風に短い髪をはためかせた。
適当な場所に車を停めて、手を繋いで海辺をぶらぶらと歩く。
強い日差しとファンの目を避けるためにお揃いの麦わら帽子を買い、その怪しい見た目にお互いを見て笑い合った。
足元を除けば、まるで示し合わせたかのようなコーディネートだ。オクタンの義足とミラージュのサンダルは、熱く灼けた砂の上に並んで足跡を残していった。
こんな風にゆっくりとした休日を過ごすのは久しぶりで、自然と気分も浮足立つ。
そしてここは、初めてオクタンと二人でドライブに来た場所でもあった。
「お、見ろよ、エリ。あのウドン屋まだやってるぜ。昼飯はウドンにしよう」
「この暑い中、熱いウドンを食うのか? 勘弁してくれ」
オクタンは、辟易とした表情のミラージュの手を引いてどんどん歩いていく。
そんな二人を、寸胴の愛らしい水着姿に、ネッシーの浮き輪をはめた小さな女の子が不思議そうに見上げている。
ミラージュは女の子に向かって、サングラスの下から困ったような愛想笑いを送った。
ミラージュの抵抗も虚しく、三分後には、笑顔のオクタンが、両手に熱々のうどんが入った丼を手にしていた。
「どっちが早く食えるか競争だ」
海の見える歩道沿いのテラス席へと移動する。
海水浴に来た家族連れやカップルでそれなりに賑わっていたが、二人に気付く者はいなかった。
空いたテーブルに丼を置き、隣に座るはずのオクタンは、なぜかミラージュの向かい側に席を取った。
「オク……?」
「こっちでいいんだ」
オクタンは片手で頬杖をつき、戸惑うミラージュに向かって微笑んだ。
今まで自分の向かい側に座られる事を嫌い、常に隣に身を置いていたというのに、どういう風の吹き回しだろうか。
「俺は全然平気だけど、お前の方が落ち着かないみてぇだな」
「だってそりゃ、お前……」
帽子とゴーグルを外し、吹っ切れたような清々しい表情で、オクタンはミラージュを真正面から見つめた。
人好きのする笑顔は変わらないが、ほんの少し精悍さを増した頬の線と、いつの間にか定番になりつつある薄い顎髭には大人びた雰囲気が漂い、真顔で見つめられればついドキリとさせられる。
「なんていうか……俺はもう、誰かの視線の向こうにいる親父に囚われなくてもいいんだって、思えるようになったのさ。本当に、いつの間にかそうなってたんだ。あいつと俺が親子なのはどうやったって変えられない、クソみてぇな事実だが、少なくとも別の人間ではある、そうだろ?」
ミラージュは、オクタンの目を見て静かに頷いた。
力強い輝きは、同じ色であっても父親のものとは違う、目に映る世界に光を見出そうとする、希望と好奇心に満ちたものだった。
「そう思えるようになったのは何よりだ。これからは、二人掛けのテーブルにぎゅうぎゅう詰めにならなくて済む」
「……お前のおかげだぜ、エリオット」
「俺は何もしてないさ、特にはな」
「お前は俺がどこにいたって、ちゃんと俺のことを見てくれるだろ? それでじゅうぶんさ」
「今日はやけに素直なんだな」
「なんだかそういう気分なんだ。ほら、さっさと始めようぜ? こいつは俺の奢りだ。早く食わねえとのびちまう!」
オクタンはミラージュが箸を持った事を確認すると、「レディ・ステディ・ゴー!」と、勇ましく宣言して、丼にかじりついた。
はなから勝負などするつもりはなかったが、ミラージュも一応、付き合い程度にうどんを啜ってみる。
上手くもなく不味くもない、屋台の味だ。
うつむき加減のオクタンは、額に汗して真剣に早食い勝負に挑んでいるようだった。
「俺もハシを使うのが上手くなっただろ?」
オクタンは器用に右手で箸を使いこなし、湯気の中からうどんの束をすくってみせた。
汁が飛ぶのも構わず豪快に唇に吸い込まれていくさまを、ミラージュは微笑ましい気持ちで見ている。
そして自分たちの間に流れた時間と、築き上げた確かな信頼のようなものを思って自然と笑みが浮かんだ。
初めてこの場所に来たときは、こんな風に二人で時を重ねて笑い合っているなどとは想像もできなかった。
ただ訳もなく、目の前の活き活きとした眩しい存在に惹かれ、ずっと見ていたいと思った、その延長線上に今もいる。
それはきっとこの先も変わらないのだろう。
一度は切れかかった、細く頼りない糸を手繰り寄せてより合わせた絆は、今までよりも強くしなやかなものとなって、お互いを繋いでいるような気がした。
「食わねえのか?」
「なんだか、胸がいっぱいでな」
「ちぇ、張り合いがねぇな、まったく」
オクタンは最後の一口を豪快に平らげ、無造作に口元を拭うと口角を上げた。
「俺の勝ちだな」
空になった丼を見せつけて、オクタンはつゆの味がする唇で、ミラージュから勝利のキスを奪った。