インターバル

 
 物心ついたときに母親はいなかった。
 俺が母親のことを知る手掛かりは、屋敷の回廊に飾ってある肖像画一枚だけで、あとは写真にも記憶にもマムの姿はない。
 俺のオクタビオという名は、母親の名前から取ったのだと親父は言った。

 本当にお前は彼女にそっくりだよ、オクタビオ。

 そう言って俺を見るあいつの目は、いつも冷ややかだった。たとえ唇が笑っていたとしても、その薄緑色の瞳の奥に愛情を見出すことはなかった。
 まだ父親ってもんに夢を抱いてたガキの頃、俺はどうしたら彼に気に入って貰えるだろうと、そればかり考えていた。褒めてもらえるなら大嫌いな勉強だって頑張ろうと思ったし、それ以上に俺は誰よりも速く走れる両脚を持っていた。
 年上の奴らにだって負けねぇ、誰と競走したって必ず俺が勝つんだ。今でもオリンピックってもんがあったとしたら、きっと俺は金メダルを取れたに違いないぜ。
 けれど、どうやらそれはあいつのお気に召さなかったようで、俺は一日の大半を机に縛られて過ごさなきゃならなかった。シルバ家の次期当主、シルバ製薬の次期CEO、俺の肩書は幼い頃からすでに決まっていたんだ。
 父親の意に沿わないことをすれば殴られ、地下室に閉じ込められた。俺が泣いて許しを請うまで、あいつは絶対に俺を開放してはくれなかった。親父に隠れて俺に食事を持ってきた小間使いは、次の日にクビになったらしい。
 いつしか俺は親父を恐れ、あいつの前で萎縮する癖がついた。
 そんなある日、俺は親父にこう言ったんだ。俺は社長になんかなりたくねぇから、新しいマムの子供にでも会社を継がせればいい、ってな。
 あいつは俺と同じ色をした目を不気味に光らせて俺を見据え、思い切り横っ面をぶん殴った。

 シルバの名を継ぐのはお前だけだ。
 お前でなければ意味がない。
 二度とそんな事を言うな。

 吹っ飛んで床に転がり、鼻血を垂らしながら、その時俺の心にふつふつと沸きあがってきた感情は喜びだった。
 どんな風に扱われようが、俺は親父にとってただ一人の息子だと、他に代わりなどいない存在なのだと宣言された、そう思ったんだ。その言葉は俺にとって愛の告白に等しかった。
 思えば笑っちまうくらい可愛かったよな、あの頃の俺って奴はよ。あいつの手が自分に差し伸べられることを、一瞬でも期待しちまったんだからな。
 顔のない独裁者の眼が俺を見下ろして、容赦ない宣告を突きつける。

 お前は泣き顔まであいつと同じだ。
 俺はそれを愛しく思うと同時に、狂おしいほど憎んでいる。
 恨むなら母親を恨め。
 彼女は息子を生贄にして俺から逃げ出した悪い母親だ。お前は母親の分まで俺に忠誠を誓い、その身を捧げろ。
 シルバ家の当主として、ふさわしい人間になるんだ、オクタビオ。それ以外の道はお前には許されない。

 憎しみだけではない狂気にも似たなにか。親父にはそれが常に影のようにまとわりついている。
 俺に自分を裏切った母親を重ねてるのか?
 両親の間に何があったかは知らないが、親父は自分の元を去った女に未だに執着している。
 彼女に似たのは俺のせいじゃない。そんな事どうにもできねぇ、俺は俺だ。

 返事は?

 「イエス、サー……」威圧的な声に、俺は条件反射のようにそう答えた。
 俺の干乾びた目から、もう涙は出てこなかった。ただ、俺には家族ってもんはいないんだと、そう思った。
 父親が俺を後継者にしたがるのも、息子として愛してるからなんかじゃない。あいつはきっと傀儡が欲しいだけなんだ。
 十歳の俺はマスクとゴーグルで顔を隠すことを覚え、こいつの前では絶対に素顔を晒すもんかと決めた。飯を食うときだってゴーグルだけは外さない。
 冷え切ったテーブルの向こう側に座るあいつは、苦虫を噛み潰したような顔をして小言をたれた。
 俺は親父を心の底から恐れながら、心の中でざまあみろと笑う。お前の思う通りになんか生きてやるもんか。お前が俺を見ないのなら、俺ももうお前を見ない。
 勉強もほったらかしにして、見よう見まねで始めたスタントにのめり込んだ。
 最初はどこぞのガキのお遊びだと軽くあしらわれたが、動画をあげるたびに少しずつファンが増えていった。
 俺のことなんか知らねぇ、俺もそいつらのことなんて知らねぇ。それで良かった。誰でもいい、お前はすげぇ奴だって褒めてもらいたかったのかもしれない。
 俺は誰かに認められ、注目されることの快感を覚えていった。
 親父は親父で、以前にも増して家を空ける事が多くなり、俺たちが顔を合わせることは滅多になくなった。要件はすべてエージェントを通して伝えられるようになった。
 アジャイに出会ったのはその頃だったな。すげぇ気が合って、ホントのエルマナみたいだった。
 それでも俺は、アジャイにすら、親父の事は言えなかった。情けねぇ奴だって思われたくなかったんだ。俺に怖いものがあるだなんて、誰にも。
 相変わらず、俺の顔や体はいつも傷だらけだった。アジャイとうさぎのナビが俺の唯一の慰めだった。
 ナビを頭に乗っけて、よく空想にふけったもんだ。

 いつか俺は自由になるんだ。
 家からも父親からも。
 もっと大きな世界を自分の脚で駆け回りたい。
 なにかでっけぇ事を成し遂げて、あいつに俺を認めさせてやるんだ。
 ひとりの人間としての俺を。


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