Beetlebum

《エリオット》

幸せになってくれ、とオクタビオは言った。
俺にとってある意味一番残酷な言葉だ。
お前がそれを言うのか?
お前の存在なしに、俺が幸せになれるわけねぇだろ?
あの日、後ろ髪を引かれる思いで部屋を出て行く俺を、あいつはベッドの上で膝を抱えた姿勢のまま見送った。その時の俺にはオクタビオと別れるなんていう実感はなく、ただ悪い夢を見てるようなそんな気分だった。
だってそうだろ?
お互いに嫌いになった訳じゃねぇんだ。
俺はオクタビオを愛してるし、あいつだってそのはずだ。なのになんでこうなる?
時間が経つにつれて理不尽な思いは大きくなり、俺は、もしかしたらオクタビオも後悔してるのかもしれねぇなんて思い始めた。
あいつは意地っ張りだからな。あんな事を言った手前、引くに引けなくなっちまったに違いねぇ。
じゃなきゃこんなの嘘だ。俺は認めねぇぞ、絶対にな。
だが数日後、そんな俺の楽観的な希望は打ち砕かれた。オクタビオから依頼されたという運び屋の男がやって来て、奴の荷物をよこせと要求してきやがったんだ。
「必要なら自分で取りに来いって言っとけ」
「あんたには会いたくないんじゃねぇの……?」
運び屋の男は、何となく言いにくそうにそう言った。こいつとは何度か会ったことがある。
ヒロタカ……とか言ったか? オクタビオの所に薬やジャンプパッドを定期的に運んでくる、怪しい業者の一員だ。オクタビオに言わせれば、ハモンドなんかよりよっぽどまともらしいが。
「オクタビオがそう言ったのか?」
「いや。でも別れた相手の家になんか、わざわざ来たくないだろ、普通は。気まずいし……」
俺と運び屋の間にも、しばし気まずい空気が流れた。丸い眼鏡の下の人の良さそうな目が、困ったように訴えかけている。
荷物を渡す気はなかったが、オクタビオが不自由していたら可哀想だと思い直し、俺は渋々そいつを家に入れて必要な物を運び出す手伝いをしてやった。
あいつの持ち物は元々そう多くはない。
わずかな日用品に、色とりどりのTシャツだのパーカーだの、普段着の類いと、めったに出番のないスーツと靴がいくつか。
あとは、配信に使ってた機材やゲーム機、義足のスペアとメンテナンスの道具、トレードマークの三点セットの数々……そんなとこだ。
ゲームで使う装備は丸ごとシップのロッカーに入っていて、家にはあまりゲームを連想させるものはない。
ここに住んでいたのは、レジェンドのオクタンでもシルバ製薬の御曹司でもなく、俺の恋人のオクタビオ・シルバそのものだった。
オクタビオが指定した荷物は、義足と少しの衣服だけだったらしく、作業はあっという間に終わった。それらが持ち出されたところで、家の中の様子は今までとさほど変わらない。
ただあいつが居ないだけだ。
なのに、オクタビオの居ないリビングはひんやりとしていて、ひどく殺風景に思えた。
「あとの物は捨てるなりなんなりしてくれってさ」
素っ気なく言い残して運び屋が去ると、俺は途方も無い喪失感に襲われた。もうすぐシーズンが始まるってのに、何もやる気が出ねぇ。
グダグダとソファーから離れられず、あいつのお気に入りだったクッションを抱きしめた。
もしかしたらと思い端末を開いても、そこに何かあるはずもなく、乾いた笑みが唇に浮かぶ。
ずっと続くと思っていた蜜月も、終わりはやけにあっけねぇもんなんだな……。
わずかでも存在を感じたくて、縋るようにオクタビオのSNSをタップしてみるが、あの日以降新しい投稿はなかった。
指で日付を遡ると、そこは苦しくなるくらいに俺たちの思い出で溢れていて、楽しげにポーズを決めるオクタビオの後ろの風景は、どれもこれも見覚えのあるものばかりだ。
その中には姿こそ写ってねぇが、確かに俺も存在していた。あいつの視線の先にはいつだって俺がいたんだ、いつだって……。
俺はふと自分の左側を見て、その空間にいるはずのないオクタビオの姿を思い浮かべた。
いつも隣りに座ってたよな。
気まぐれな猫みたいにちょっかいを掛けてきたり、ただ黙って背中で寄りかかっていたり、俺は少し手を伸ばせばすぐにお前に触れることができたんだ。
こんなでっけぇソファーに一人じゃ寂しいだろうが。ここがお前の居場所だろ?
オク……、会いてぇ。……お前を抱きしめて、キスしたい。

1/2ページ
スキ