シュガークッキー


思いがけず深酒をしてしまったミラージュが、慌てて家に戻ったのは深夜過ぎだった。
明かりの消えたリビングを素通りして、ベッドルームのドアを開けると、ベッドの上には一人分の山ができていた。
「オクタビオ……」
ほっとしながら、シーツからはみ出している金色の髪に触れる。
「遅ぇぞ……」
くぐもった声と一緒に、筋ばった手がミラージュの手首を掴んだ。そのままベッドに引き込まれそうになるが、一旦手を離して着ていた服を脱ぎ捨てる。
オクタンの義足と服も、ベッドの回りに乱雑に散らばっていた。帰ってきてすぐ潜り込んだのだろう。
暖かいベッドに入り抱き寄せると、オクタンは間近で顔をしかめた。
「う、酒くせぇ……」
「ブラッドハウンドが帰ったあと、ヒューズとひと瓶空けちまった。遅くなってごめんな」
しばらくの間、ふたりは何も言わず抱き合って、言葉の代わりにキスを交わしていた。
ミラージュとオクタンが問題事を話し合うのは、大抵ソファーの上かベッドの中と決まっている。
休日前の夜は長く、心と体を十分に暖めてからでも遅くはない。
そのうちオクタンが、胸のつかえを吐き出すようにライフラインの名前を口にした。
「アジャイとケンカしちまった……。あの事がバレた」
「ヒューズ達から聞いたぜ。あのおっさんがドローンにイタズラして、再生ボタンを押しちまったんだそうだ」
「ヒューズのやりそうなことだぜ…」
しょうがねぇな、とオクタンは眉を下げて呆れたように笑った。思ったよりも落ち込んではいないようだ。
「オクタビオ」
ミラージュがオクタンと目を合わせて、その目尻を指でなぞりながら言った。
「俺はヒューズとブラッドハウンドにも全部話したぜ?そうしてもいいと思ったんだ」
非難されるのも覚悟していたが、意外にもオクタンは「そうか」と、頷いた。
マルタでのパーティーがあった夜のような憔悴した様子はなく、その目はしっかりとミラージュを見据えていた。
「あいつらも一緒に聞いちまったんなら仕方ねぇさ……」
それからオクタンは、ライフラインの部屋での顛末をミラージュに話した。
最後は「あのままいたら、きっと殴り合いになってた」と、彼女の部屋を飛び出して、歩いて帰って来たらしい。
オクタンはミラージュの首に腕を回し、唇が触れ合いそうなくらい顔を近付けた。
「アジャイは一体何が言いたかったんだ?昔の事なんか持ち出して……俺にはさっぱりだ」
オクタンは首を傾げたが、ミラージュには何となくライフラインの気持ちが分かる気がした。
あいつ以外は何もいらない、それはミラージュにとっては心が震えるほど嬉しい言葉だったが、今までずっと近くにいて、姉のように妹のようにオクタンを見守っていた彼女からすれば、オクタンの言ったことは自分を否定されたように思えたのだろう。
「お前は本当に俺だけいればいいのか? 彼女が言ったように、世界が俺とお前だけになっちまえばいいと思うか?」
ミラージュの問いかけに、オクタンは少し考えた後、「ああ」と答えた。
「そうなったら、他の面倒くせぇ事なんか全部忘れてられるだろ? ふたりで何も考えずに、朝から晩までずっと抱き合って過ごすんだ。誰にも邪魔されずにずっと」
「そりゃあ、恐ろしくロマンチックな話だな……」
暖かい体を抱きしめ、ミラージュはしばしの間、その夢のような世界を思い浮かべてみる。
だが所詮それは、どこまでも儚くて美しい逃避であり、共依存でしかなかった。
オクタンを自分だけのものにしておきたいのは確かだが、ふたりきりの夢の世界はどこか空虚で寂しい気がする。
「お前がそう思ってくれるのは嬉しいが、俺はもっとこう現実を生きたいぜ、オクタビオ。俺らは妖精さんじゃねぇんだ。朝起きて飯を食ってゲームに出て、ボロボロになって帰ってきて、また飯を食ってセックスして寝る……。その方がよっぽど健全だろ?」
オクタンは首を傾けて不服そうな顔をした。
そのやや膨らんだ頬を両手で挟み、お互いの額をくっ付けて、ミラージュは穏やかに言葉を継いだ。
「もう一度ライフラインの言ったことをよく考えてみな? 俺は彼女に感謝してるぜ。そりゃ、俺の知らねぇお前を知ってるって事には、ちょっと嫉妬したりもするけどよ……。ライフラインがいたからお前は独りじゃなかったろ? 彼女だけじゃねぇ、他にもいたはずだ。いつだって誰かが、お前の事を見守ったり助けたりしてたんだ。それを忘れんなって、お前のアネキは言ってるのさ」
オクタンはミラージュの酒臭い息を嗅ぎながら、ライフラインの言葉を思い出していた。
考えてみれば、そうだ。
両親の愛には無縁でも、そんな自分に優しく接してくれる使用人があの家にはいた。
学校をサボって遊び歩いているとき、たまには顔を出せよと言ってくれるクラスメイトがいた。
自分勝手な別れを告げても、責めるどころか幸せにと抱きしめてくれた恋人がいた。
モニターの向こうから声援を送ってくれるファン達、馴染みの義足技師と薬の運び屋…それから、うさぎのNavi 。
いつだって誰かが優しかった。
そんな名前も思い出せない人々を、自分は大切にしてきただろうか?
……気にしたこともなかった。
そんなのは取るに足りないものだと、必要ないものだと切り捨ててきた。
でも、そうではなかった。
何もないと思っていた日々の中にも、ちゃんと愛は存在していたのだ。
恋愛ほど激しくも甘くもなく、友愛というほど親しくもなく、名前のない小さな暖かい欠片のように、それはそこかしこに散らばっていた。
ミラージュとオクタンも、最初はその欠片だったはずだ。
「……でも、それでも……そうだとしても、俺は満足じゃなかった。なにかが足りねぇって思ってた」
食い下がるオクタンに、ミラージュは確信に満ちた表情でこう言った。
「そうさ、だから俺がいるのさ。お前の一番でっかい穴を埋めるのは俺に決まってんだろ? そこだけはライフラインにも譲れねぇぜ。形の違ういろんなピースの寄せ集めに、最後に俺という最高のピースを嵌め込んで、最高のオクタビオ・シルバが出来上がるんだ。どうだ? 完璧だろ?」

どうしてこいつの言葉は、いつも素直に心に落ちてくるんだろう?
ちょっとばかり大袈裟なのが玉にキズだが、俺が持て余してるあやふやな気持ちを受け止めて、ちゃんとした形にして返してくれる。
どうしたって敵いやしねぇ……。

オクタンは少し悔しい気分になって、ミラージュに覆い被さり、挑むように見下ろした。
「俺は時々、お前にすげぇ嫉妬するぜ、エリオット」
「悪いな、オクタビオ。お前をそんな気持ちにさせちまうなんて、俺も罪な男だぜ……」
にやけ顔のミラージュの手が頬から顎に下りてきて、野良猫を手懐けるようにゆっくりと前後する。
オクタンはその緩慢な愛撫の心地良さに抗いながら、しばらくミラージュを睨んでいたが、やがて観念したようにその唇にキスを落とした。

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