幸せの在処


洗面台に手を掛け俯いていたオクタビオが、俺の気配に顔を上げて鏡越しに目が合う。
濡れたままの顔からは水滴が滴り、鼻の頭と目の縁が赤く染まっていた。
鏡の中のオクタビオは無言で、目玉だけを器用に動かして周囲の様子を探っている。
「そこに隠れてんだろ? 『ミラージュ』」
やれやれ、あいつにはお見通しか。
俺はパチンと指を鳴らしてあいつの後ろに立つデコイを消し去り、ドアの影から姿を現した。
「よお、アミーゴ、調子はどうだ?……なぁんてな」
できるだけいつもの調子で声を掛けたが、オクタビオの表情は固まったままだ。
尖った顎の先からぽたぽたと水滴が滴り、着ていたシャツの胸元を濡らしている。
それがただの水なのか涙なのか区別はつかなかったが、俺はあいつがまだ泣いているに違いねぇと思った。
「ひでぇツラだな。とりあえず顔を拭けよ」
棚からタオルを出してびしょ濡れの顔を拭いてやる。
洗いすぎて冷たくなった頬を両手で包むと、見開いた目からじわりと涙が滲んだ。
オクタビオはそれをこぼすまいとしてぎゅっと目を瞑り、「誰のせいだと思ってんだ」と鼻の詰まった声を出した。正直その必死な顔がかわいくて、自分の愚行を棚に上げて笑いそうになる。
「悪かったよ……、ごめんな」
目尻から溢れてくるしょっぱい液体を唇で吸いとり、オクタビオが俺にしてくれるように、顔のあちこちを寄り道しながら唇に辿り着く。
拒否されるかと思ったキスは、意外とあっさり受け入れられた。
涙を堪えて喉を鳴らす姿がいじらしくて、なんだか俺まで泣きたくなってくる。
「俺だって、お前と一緒にあのソファーで過ごす時間が大好きだったぜ? けどなぁ、オクタビオ。ソファーがなくなったってお前の居場所がなくなる訳じゃねぇんだ。ふたり一緒だったからこそ、あの場所にも意味があった。俺の言ってること分かるか? お前の本当の居場所はここなんだよ」
俺は心を込めてオクタビオを抱きしめ、それを示すように背中をポンポンと叩いた。
「離せよ、お前まで濡れちまう」
「構わねぇさ。一緒にあっためてやる」
オクタビオは俺を力任せにぎゅうと抱き返し、首のあたりに顔を押し付けてきた。
湿っぽくて暖かいものがじんわりと染み込んでくる。
「本当か?」
「ああ本当さ。俺の半径ゼロフィートはお前専用の場所だ。いつでも空けてある」
「ずっとか?」
「もちろん、ずっとだ。エンジェルシティの女神様にかけて誓うぜ」
「お前が言うと全部ウソくせぇんだよな……」
いつもの減らず口が、込み上げる嗚咽と垂れてくる鼻を啜る音で途切れる。
「クソ……カッコ悪りぃ……。これじゃ、お前の事泣き虫って笑えなくなっちまう……」
「涙なんてそんなもんさ。恥じることなんかねぇ、どんどん泣け。俺はそうしてる」
耳元でオクタビオが小さく笑うのが聞こえた。
キスがしたくなってこっちを向かせると、顔を見られるのが恥ずかしかったのか、俺がそうするよりも早く乱暴に唇を奪われる。
んん……嬉しいんだが、もうちょい優しくしてくれ。お前の尖った犬歯が、あっちこっちに当たって痛てぇんだよ……。

「あのソファーはどうなるんだ、エリオット?」
俺の肩に顎を乗せて、キスの余韻に浸っていたオクタビオが、思い出したように聞いてきた。
「リフォームされてまたどっかで売られるって言ってたぜ。安心しな、棄てられちまうわけじゃねぇ」
「そっか、ならよかったぜ」
「……なんなら、引き取った業者に連絡して返してもらうか? 今ならまだ間に合うかもしれねぇ」
「……いいんだ」
そう言って顔を上げたオクタビオの、まだ濡れている短い前髪をそっとめくり上げ、額に唇を付ける。
「ほんとか?」
「ああ。思い出にしがみつくなんて、俺様には似合わねぇからな。また新しく作ればいいさ」
少し腫れぼったくなった目を細めて、オクタビオはようやく心から晴れやかな笑顔を見せた。
やっぱりお前は笑ってる方がいいな。
レアな泣き顔も可愛かったけど。……なんて、つい思っちまったことは内緒だ。
多分お前はこの先も、簡単には泣いたりしないんだろう。
そんなお前の涙腺を緩ませたのが唯一俺だってんなら、それはそれで満足だぜ。

焦げたポークチョップとワインで乾杯し、いい感じに酔った俺たちはその夜、珍しく何もせずに新しいソファーの上で眠った。
ふたりの重さの分だけ座面を窪ませ、ぴったりと寄り添って毛布にくるまる俺たちは、まるで親の帰りを待ちわびる巣の中の雛鳥みたいだな。
お互いをお互いの居場所と思える、お前に出会えて良かったぜ。
愛してる。
おやすみ、オクタビオ。

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