ミラオクリワト


翌朝、久々にひとり寝のベッドで目を覚ましたミラージュは、ゆうべ風呂に入りながら、青髪のオクタンを想像の中で弄んだことを思い出していた。
結局自分でするはめになるんなら、素直にやっときゃよかったぜ。あいつもその気だったみたいだし……。
ミラージュは頭を振った。
いや、あれで良かったんだ。俺の選択が正しかったってことは、今日のゲームが証明してくれるさ。
オクタンと顔を合わせる前にのぼせた頭を冷やそうと、ミラージュはシップを降りて早朝の散歩に出掛けた。
天気は快晴、オリンパスの鮮やかな色彩は、起き抜けの目に眩しかった。
こんな時間からゲームの準備をしているマーヴィンや、会場を巡視しているドローンの姿も見える。こんな風にゲーム前の風景を眺めるのは初めてだった。
だが、新鮮さを感じたのも少しの間だけで、話し相手がいないことに退屈したミラージュは、鼻歌を歌いながら来た道を引き返した。
遠くに人影が見える。ポケットに手を突っ込んだシルエットは、おそらくクリプトのものだ。
「あいつも散歩か……」
ミラージュは、何かを思い付いたように笑みを漏らした。
一方のクリプトは、事前に準備した情報と実際のアリーナを照らし合わせ、気になるポイントをチェックする作業をしているところだった。
思った以上に広いな……。
徒歩ではとても回りきれないと悟り、ドッグに戻ってきたクリプトは、地面に頬を付けてうつ伏せているミラージュの姿を目に止めた。
「一体、何をしているんだ?」
どうせろくでもない事だろうと思いつつも、つい尋ねてしまう。
「よお、クリプト。よく聞いてくれたな。俺はこの美しい空中庭園の鼓動を感じてたのさ。内部機構の動作音が、俺に素晴らしいインスピレーションを与えてくれる。最高だ。あんたもこの浮遊都市は傑作だと思わないか?」
ミラージュはおもむろに起き上がってクリプトに手を差し出し、それまで彼をクリプちゃんなどと呼んでからかったことや、オクタンと一緒になって仕掛けたイタズラ、その他もろもろの非礼を詫びた。
「急にどうしたんだ? 気味が悪いぞ、おっさん」
クリプトは差し出された手を握るどころか、訝しげな顔をして一歩後ずさった。
「俺は心を入れ替えることにしたんだよ。……30にもなって、自分の性欲に振り回されてるようじゃ、まだまだだって思ってな。俺は大人になるぜ、クリプト」
いつもの飄々とした調子で語り、ミラージュは「あんたも一緒に聞かないか? 天才同士、並んで」と、にっこり笑って地面を指差した。
なるほど。こいつは天才と言うよりは確実にバカだが、一応はエンジニアだ。
一体どんな独創的な音が聞こえてくるのだろう?
好奇心に勝てず、クリプトはそこから聞こえてくる鼓動とやらを想像しながら、金属でできた床に耳を付けた。
……何も聞こえない。
「そこじゃねえ、こっちだ」
ミラージュが示す場所にもう一度耳を澄ましたが、やはり何も聞こえず、代わりに頬っぺたがくっ付いて取れなくなった。
「騙されたな!」
ミラージュが嬉しげな声をあげる。
クソ……やられた。
クリプトは苦々しい気分で地面から頬を引き離そうと試みたが、見えない接着剤は強力で、ただただ頬の皮が伸びるだけだった。
「大人になるんじゃなかったのか?」
睨みながら問うクリプトの背中に片足を乗せ、ご機嫌なポーズでツーショットを撮り終えると、ミラージュはしゃがんでクリプトの顔を覗き込んだ。
「心配いらねぇ、じっとしてりゃすぐに取れるさ。そうだな、数分から数時間ってとこか?……いいか、クリプト。考えるな、感じるんだ。いつだって心のままに」
「……黙れ。子供みたいなことしやがって。そんなだから性欲に負けるんだ」
悔し紛れに放たれたクリプトの言葉に、言ってくれるじゃねぇか、と笑ってミラージュは立ち上がった。
「人として成長はしてる。……だが、結局俺は俺なのさ。おっさんなんだよ」
じゃ~ね~、クリプちゃん、と手をヒラヒラさせて去っていくミラージュを、クリプトは空しく横たわったまま見送った。
……あいつ、コロス。絶対に殺して……死なす。
クリプトは奥歯を噛み締め、ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
九十度角度の変わった景色の向こうから、かすかにカシャカシャと言う音が聞こえ、見慣れない青い髪の男が走って来るのが見える。
男は猛スピードでクリプトの横を通りすぎたかと思うと急ブレーキをかけ、ギアをバックに入れて戻ってきた。
「なーにしてんだ? クリプト」
「……別に、おかまいなく」
クリプトは素っ気なく答えた。オクタンがいつもと違う髪の色をしているのにも気付いていたが、突っ込むのも面倒くさかった。
「ハハッ、さてはエリオットにやられたな? あいつこの間、この接着剤は使えるぞ、なんて嬉しそうに言ってたからな!」
オクタンはポケットから端末を取り出し、しゃがんでカメラを自分とクリプトに向けた。
「ハイ、チーズ!」
「……くそ」
「心配いらないぜ。何分かすれば自然に剥がれるさ。いや……何時間だったかもな?とにかく、じっとしてることだ。無理に引っ張ると頬っぺたが取れちまうぜ?じゃあな、アミーゴ!」
オクタンは青い嵐のように去っていった。
あいつら揃いも揃って子供みたいだな。今日はシーズンの開幕戦なんだぞ? 緊張感ってものはないのか? こっちは少しでも時間が惜しいってのに……。
「な……、何をしているの? クリプト」
ぶつぶつとひとりごちているクリプトの上から、懐かしい澄んだ声が降ってきた。
「もしかして、気分でも悪いの?」
目だけで見上げた場所には、青い空と白い雲とワットソンの戸惑った丸い顔があった。
「な、ナタリー……いや、ワットソン」
クリプトは動揺し、こんな姿を見られる原因を作ったミラージュを心の中で呪った。
やけくそになって、そのミラージュの言葉を真似てみる。
「鼓動を聞いているんだ」
「鼓動?」
「そう、ここの内側から聞こえてくる稼働音からインスピレーションを得ようと……」
「おかしな事を言うのね」
ワットソンはくすりと笑った。
久しぶりに見る彼女の笑顔に、クリプトの心がふわりと和らぐ。
いつの間にか接着剤の効果は切れているようだったが、クリプトは地面に顔を付けたまま、ワットソンを見つめた。
「ナタリー」
急に名前を呼ばれたワットソンは、きゅっと唇を引き結び、
「あなたとはもう友達じゃないって……言ったでしょ?」
と、小さな声で言った。
「分かってるさ」
クリプトは憂い顔に笑みを浮かべ、何も聞こえない冷たい金属の床から顔を離した。
頬っぺたをさすってみたが、特に異常はないようだ。
「でっ、でも」
ワットソンが、取りなすように早口で言った。
「でも、技術者として興味はあるわ。その、あなたにも……この都市の内部がどんな仕組みで動いていて、どんな音がするのか、ってことにも……」
ワットソンは言い訳するように口ごもり、少し怒ったような顔をして、そそくさとクリプトの隣に寝そべった。そして、生真面目に聞こえるはずのない稼働音を探し、大きな目玉をくりくりと動かす。
「??? 何も聞こえないわ」
そう言って首をかしげ、今度は反対側の耳を押し付ける。
その様子を見ていたクリプトが耐えきれずに笑いだすと、ワットソンはパッと振り向いて、顔を赤らめた。
「私を騙したのね!?」
「すまない」
クリプトは謝ったが、顔がまだ笑っていた。
「……ひどい人」
ワットソンは頬を膨らませて唇を尖らせたが、その表情は怒っているというより、拗ねているようにも見える。
冷たい能面ではなく、彼女本来の可愛らしい、クリプトがずっと見たかった顔だ。
あの事件の前までは、よくこんな風に無邪気に感情をあらわにして怒ったり、笑ったりしていた。
クリプトがそれを懐かしんでいるうちに、ワットソンは気を取り直して立ち上がる素振りを見せた。
「……私、そろそろ行くわね。ゲームで会いましょ」
「待ってくれ」
クリプトは思わずワットソンの手を取った。だが、言葉が続かない。
こんな時、ミラージュなら何て言うんだろう? 俺には気の効いた言葉なんか思いつきやしない。
「俺も一緒に聞いてみよう。二人でなら、何か聞こえるかもしれない」
我ながら馬鹿げた提案だと思いつつも、クリプトはこのまま彼女を行かせたくなかった。
意外にもワットソンは
「……ウィ」
と言って頷いた。
それからしばらくの間、クリプトとワットソンは並んで地面に耳を澄ましていた。
これからここで戦いが始まるとは思えないような、のんびりとした時間が流れていく。
「やっぱりなにも聞こえないわ……、クリプト」
「そうだな、聞こえないな……」
「ふふ……。私たち、何だかバカみたいね?」
ワットソンが笑い、クリプトも困ったように微笑んだ。
「……ほんと、バカみたい……」
呟いたワットソンの青い目から、ぽろりと涙がこぼれていった。
2/2ページ
スキ