whole Lotta Love


 扉を開けた瞬間に、むせ返るような甘い香りが漂ってきた。
オクタンが次に案内したのは、通りから少し奥まった場所にある若者向けのクラブだった。ここでは毎日何らかのレイヴパーティーが開かれており、店の雰囲気も比較的カジュアルだ。
「個室を用意いたしますか?」
黒服の男がオクタンに声を掛けたが、オクタンはそれを断り、ミラージュの手を引いて、人波でごった返す店の中へと連れて行った。
目がチカチカするほどのどぎつい照明と、爆音で鳴らされるダンスミュージックに圧倒される。
四つ打ちのリズムに身体を揺らし、客はみな一様に陶酔しきった表情でダンスに興じていた。
その様子が不気味に思えて、ミラージュは不安そうにあたりを見回した。
「奴ら、まるでみんなしてキオナンダケを食ったみてぇだな……」
「なんだって!?」
オクタンが怒鳴り、ミラージュの口元に耳を寄せる。そうしないと、まるっきり会話が成り立たないのだ。
「もうちょい静かな場所はねぇのか!?」
オクタンは頷き、フロアから吹き抜けになっている二階へとミラージュを案内した。そこは下よりも若干落ち着いた雰囲気のラウンジになっていた。
「ふー、ったく耳がおかしくなるぜ」
ようやくひと息ついたミラージュは、耳に指を突っ込み、やれやれと頭を振った。
クラブに出入りするのは初めてではないが、ここまでの音圧は体験したことがない。音楽というより、もはや騒音にしか思えなかった。
「飲み物取ってくる」
バーカウンターに向かうオクタンの後ろ姿を見送り、ミラージュは上質な革張りのシートに身体を沈めた。
吹き抜けから下を覗くと、フロアでダンスを楽しむ人々に混じって、そこら中で抱き合ったりキスを交わしたりする若者達が目に入ってくる。中には、半分脱げかけた服のまま絡み合ったり、複数できわどい行為に興じている集団もあった。
そこに昔のオクタンの姿を重ねて、ミラージュは複雑な気分になった。
オクタンが決して品行方正な人間ではない事は知っている。自分以外の男や女と、遊びの延長で夜を共にした事だってあるかもしれない。
そう思うと、自分でも抑えきれない嫉妬やら独占欲やらが渦巻いてくるのだ。
来たいと言ったのは自分だというのに、ミラージュはここに来たことを後悔し始めていた。
「見かけない顔だな、ひとり?」
声をかけられて我に返ると、ミラージュの隣には痩せた青白い顔の男が、グラスを片手に佇んでいた。
「いや、悪いが連れがいるんだ」
ミラージュは、キョロキョロとあたりを見回してオクタンを探した。
「あんた、ミラージュに似てるな」
「ん? そうか? 俺にとっちゃ、そりゃ最高の褒め言葉だぜ……」
うわの空で返事をしながら、ミラージュの視線は、フロアの片隅で知らない男に絡まれているオクタンの姿を捉えていた。
大柄な赤毛の男は、壁際に追い詰めたオクタンに酒を勧め、ミラージュの許容範囲を超えた距離で話し掛けている。にも関わらず、警戒している様子のないオクタンの態度から察するに、どうやら二人は昔からの知り合いのようだった。
ミラージュの視線の行き先に気付いた男が、にたりとした笑みを浮かべる。
「シルバの連れなのか? じゃあやっぱり本物のミラージュだ」
「オクタビオを知ってるのか?」
「知ってるも何も、この界隈であいつを知らない奴がいるか?」
ミラージュよりもやや年下に見える男は、栗色の長髪を一つに束ね、顔のあちこちに穴を開けていた。
馴れ馴れしく隣に座り、距離を詰めてくる。
ミラージュは、鼻につく甘い香りがその男の体から漂ってくるのを不快に思った。店に入った瞬間に感じた、あの匂いだ。
「丁度いい、あんたも俺達と楽しまないか? 上の階にプライベートルームを取ってある。お望みなら天国へ飛べる上物もあるぜ」
「せっかくだが、他を当たってくれ。俺はこう見えて、わりと一途な性格なんでな」
ミラージュが即座に拒否する。
「ここでそんな事にこだわるのはナンセンスだぜ、レジェンドさん。デュオニソスでは何でもありなんだ。あんたなら、男も女もよりどりみどりさ。人間に飽きてるんなら、それ以外の楽しみ方もあるぜ? 常識を忘れて、欲望に忠実になれよ」
ピアス男は、すでに何かのドラッグを決めているようだった。どろりと濁った瞳の奥だけが、やけにギラギラと輝いている。
無意識に後退りしながら視線を動かすと、あろうことか、さっきの男とキスしているオクタンの姿が目に入った。
いくら旧知の仲とはいえ、警戒心がないにも程がある。それは、ほんのおふざけ程度の軽いキスだったが、ミラージュの目には十分過ぎるほど挑発的に見えた。
「ったく、あいつはもう……」
ミラージュは、短いため息と共に隣のジャンキーを押しのけて立ち上がり、つかつかとオクタンたちの方へ歩み寄って行った。
「おい、お前ら――」
怒気を含んだミラージュの声とともに、オクタンに覆い被さっていた厳つい肩が、荒っぽく引き剥がされる。
反射的に振り返った赤毛の男は、目を丸くして裏返ったような声をあげた。
「あら、もしかして、もしかしたらミラージュ? やだ、嬉しい」
予想を裏切る反応に出鼻をくじかれ、ミラージュは、赤らんだ頬に両手を当てて恥じらっている男をまじまじと見やった。
「そんなに見つめないでよ、恥ずかしくなっちゃう」
「あ、こりゃ失礼……ってなあ、俺は見つめてるんじゃねえ、睨んでんだ。おまえ今、オクタビオと何してた?」
ミラージュは、さっきまでの怒りを思い出したように、眉間にシワを寄せてみせた。だが、赤毛男は「怒った顔もステキ」などと言って、ちっとも懲りていないどころか、うっとりしている始末だ。
「まったく呑気なもんだな。こいつを本気で怒らせるとおっかないぜ? 早いとこ退散したほうが身のためだ」
オクタンは壁に寄りかかったまま、手に持っていたショットグラスの酒を一口で飲み干し、男に突き返した。
「ごちそーさん」
「ふん、つれないのね。オクタビオは最近すっかりいい子になっちゃったって、みんな寂しがってるわよ。プサマテを飛び出したかと思えば、今度はママゴトみたいな戦争ごっこに夢中だなんて、一体いつになったら戻って来るの?」
「余計なお世話だ」
オクタンは、肩に腕を回そうと寄りかかってくる男をすり抜けて、ミラージュの傍らに身を移した。ミラージュは相変わらず、しかめっ面で男を睨んでいる。
オクタンに絡んでいた男は、興味深そうに二人を眺めていたが、彼らが自分たちの誘いに乗らないと悟ったのか、あっさりと引き下がるそぶりを見せた。
「でも、ま、久しぶりに会えて良かったわ。じゃあね、オクタビオ。これは記念に貰っといてあげる」
去り際にちゃっかりとミラージュの唇を奪い、満足気な赤毛男は、フワフワとした足取りで下に降りて行った。
「なっ、……なんだありゃ?」
呆気にとられたミラージュは、口のまわりを自らの手でゴシゴシとこすり、不味そうに舌を出した。
横からオクタンが、さも面白いものを見たと言うような笑い声を上げ、赤くなったミラージュの唇の端をぺろりと舐める。
「ったく、油断も隙もありゃしねえな」
「……お前が他の誰かとキスするのは良くて、俺はダメなのか?」
「ありゃ、見てたのか」
「どういうつもりだ? オク。おまえなら、逃げようと思えば逃げられたはずだろ? それともわざとか? あんな野郎に軽々しく唇を許すなんて……」
「お前が昔の俺を知りたいって言うから、その通りにしたまでさ」
オクタンは、悪びれた様子もなく肩をすくめた。一気飲みした酒が回っているのか、へらへらと笑いながらミラージュに寄り掛かってくる。
「どうだ、がっかりしたか?」
ミラージュは、返事の代わりに、薄く朱に染まった額を軽く指で弾き返した。
キョトンとした表情のオクタンは無意識におでこを抑え、ミラージュを見上げる。
「そう俺に言って欲しかったのか? ったく、お前はたまに、言ってる事とやってる事が違うんだよ。どうしてそうやって自分を安売りするんだ」
「……言ってる意味がわからねえな。俺が王子様じゃないって事を知るにはいい機会だったろ? もとはと言えば、お前が望んだことだ」
「ちょっと待て、俺はそんなつもりじゃ……」
「言っとくが、こんなのはほんの入口に過ぎないぜ。ここには、お前が知ったらドン引きするような場所が山程あるし、俺がそこに足を踏み入れてたのも事実だ」
「それがどうした? 俺は、お前の過去の粗探しに来たんじゃねえぞ。ただ、お前が見てたものを見て、同じ空気に触れたかっただけだ」
ミラージュは、フォローのつもりで慌ててオクタンを抱きしめた。が、その身体は頼りなく、抜け殻みたいに手応えがなかった。それが無性に心細くて、存在を確かめるように腕に力を込める。
「それに、今さら何を知ったからって、お前の事を嫌いになったりするわけがねえだろ?……俺の気持ちはずっと変わらない、約束する」
「俺に約束なんて無意味だぜ、相棒。今だけ全力で愛してくれればいいんだ。俺がほしいのはそれだけ」
オクタンはミラージュの肩に顔を乗せ、気の抜けたような笑みを浮かべた。
その意味を読み取ろうと顔を覗き込んでも、乾いた瞳の色は、どこまでも本心を隠そうとする。
あれはいつの事だっただろう?
初めから何も持っていなければ失うことはないと、オクタンは言った。だから寂しくもないのだと。
裏を返せばそれは、失う前にすべてを捨ててしまおうとする、無自覚な防衛本能だったのかもしれない。
それから決して短くはない時間をともに過ごし、埋められたかと思っていた心の隙間が、再びミラージュの前に現れた気がした。
オクタンは頑なに今だけが真実だと主張する。
自由奔放で刹那的な生き方が、オクタビオ・シルバという人間の魅力のひとつになっているのは確かだが、ミラージュにはそれが歯がゆくもあった。
オクタンにとって、自分たちが積み重ねた時間や、これから築いていく未来も、信じるに値しないものなのだろうか?
いつだって掛け値なしの愛情を注いでいるつもりなのに、オクタンの心の器には見えないヒビが入っていて、そこからポタポタと零れ落ちてしまう、そんな気がしてならないのだ。
”まだ足りないか?“
ミラージュは心の中で問いかける。
複雑なミラージュの胸の内を知ってか知らずか、腕の中のオクタンは呑気にひとつあくびをし、眠そうな声を出した。
「さて、次はどこへ行く?」
「もういいから帰ろうぜ」
「気は済んだか?」
「ああ」
ミラージュはオクタンの腕を取り、足早にクラブを後にした。



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