甘口カレー


休日の午後六時。
いつもなら、もうすぐ楽しい夕食の時間がやってくる頃だというのに、オクタンはなぜかミラージュの家の一室に引きこもっていた。
元々ミラージュがひとりで住んでいたこの家には、地下に彼のワークショプがあり、地上にはリビング、ダイニングキッチン、バスルーム、寝室の他に、客間と称する小さな空き部屋が存在している。
同棲するにあたって、オクタンは特に自分の部屋がなくても気にしなかったが、ミラージュはゲームや配信をするのに必要だろうと言って、洋服や雑貨だらけのクローゼットルームと化していたこの部屋の一角を、オクタンに提供してくれたのだ。
「いいさ、どうせ誰も来やしねえんだ」
というミラージュの言葉が、少し悲しげだったのを覚えている。
とはいえ、最近のオクタンは、配信やゲームをすること自体が少なくなっていた。
忙しいというのはもちろんだが、何よりもミラージュとリビングで過ごす時間が好きだった。
オクタンがここを使うのは、一人で暇を持て余したときくらいだ。
それまでどこに居てもその場所に愛着や執着といった感情はなく、――それは生まれ育った家ですら例外ではない、ただ名前の付いた空間という認識しか持たなかったオクタンにとって、安心してくつろげる居場所というのは新鮮で居心地の良いものだった。
そんな快適なリビングを放棄して、オクタンがこの統一感のない部屋に籠っているのには訳がある。
その日、ミラージュには朝から送迎付きの取材が入っていて、オクタンは家で留守番をしているはずだった。
しかし、ひとりでゲームをするのにも動画の編集にも飽きてしまったオクタンは、以前から運転してみたくてたまらなかった“空を飛ばない車”を自由にできるチャンスだとばかりに、こっそりミラージュの愛車に乗り込んだのだ。
いつもは助手席から見ているだけで、いくらしつこくねだっても、ミラージュはオクタンにハンドルを握らせなかった。
今思えば、それは至極正しい判断だったといえる。
オクタンは意気揚々とガレージから車を出そうとしたが、クラッチの操作は思ったよりも難しく、哀れなミラージュの愛車は、ガガガという不協和音とともにシャッターの外枠をかすめてエンストした。
「こりゃまずいことになったぜ……」
恐る恐る外に出てみると、特徴的な曲線を描くリアフェンダーの部分がわずかに凹み、擦ったような傷ができている。
その傷をしゃがんで確認していたオクタンは、思ったよりも大したことはないなと胸をなでおろした。
これくらいなら修理に出せばすぐに直るだろう。
用心深いミラージュのことだから、きっと保険にも入っているに違いない。
ガレージの中で斜めになっている車を元に戻すことを諦めたオクタンは、何事もなかったかのように家に戻り、ミラージュの帰りを待った。
一方、そんな事とは露知らず、ゴージャスな取材の余韻に浸りながらご機嫌で帰宅したミラージュは、閉めておいたはずのガレージの扉が開いていて、入り口にめり込むように停まっている愛車を見て目を丸くした。
「オクタビオ! 大変だ、俺の車が……」
ドタバタと玄関に駆け込み、出てきたオクタンの腕を掴んでガレージに逆戻りする。オクタンの義足は、勢い余ってたたらを踏んだ。
「おっとととと、あぶねえな……。まあ、一旦落ち着けよ、エリオット」
「これが落ち着いていられるかってんだ! 見ろよ、このひでえ有様を。こりゃあ、誰かが留守中に俺の車を盗もうとしたに違いない」
「いや、俺はずっと家にいたが、怪しい奴の気配はなかったぜ。……てか、乗ったのは俺だ」
オクタンはあっけらかんと白状した。ミラージュが真顔になり、訝しげに眉をひそめる。
「一体どういう事なんだ? 説明してくれ、オクタビオ」
珍しく険しい顔をしたミラージュは、悪びれた様子もなく、隣で呑気に腕を組んでいるオクタンに詰め寄った。
「見ての通りだぜ、アミーゴ。お前が出かけてる間にドライブでもしようと思ったら、車が言う事をきかなくてさ」
「……一応聞いておくが、お前はライセンスを持ってたか?」
「まさか。プサマテとかガイアならいざ知らず、ここら辺で真面目にライセンスを取るやつなんか、いたらお目にかかりたいレベルだぜ、JAJAJA」
「おい、マジで言ってんのか? だからって、お前が勝手に俺の車を運転していいって事にはならないだろ? うっかり人でも轢いちまったらどうするんだ」
「大丈夫さ。なんせ、俺は道路に出てもいないんだからな」
ああ言えばこう言う、まさにこの事だ。
のらりくらりとミラージュの追求を交わすオクタンに、さすがのミラージュも堪忍袋の緒が切れた。
ミラージュの愛車は、レジェンドになったときに一念発起して買った大事な車だ。まだローンも終わっていない。
その愛車を傷つけられたうえ、当の本人が大して反省していないのだから、ミラージュが怒るのも無理はない。
「話にならねぇな」
ミラージュはキーの刺さったままの車に乗り込み、とりあえず曲がった車体をガレージの中に納めた。
そして何も言わずにシャッターを閉めると、オクタンを置いてさっさと家の中に戻ってしまった。
オクタンが慌ててミラージュの後を追うが、ミラージュは憮然とした表情でリビングのソファーを占領している。オクタンが近づいても、席を空けてくれる気配はない。
「……悪かったよ。もう勝手に乗ったりしねぇからさ」
ミラージュが本気で怒っていることを察したオクタンは、ようやく謝罪の言葉を口にした。オクタンにしてみれば、これで丸く収まるはずだった。
ところが、ミラージュは許すどころかますます不機嫌になり、
「今日はお前の分の飯は無いと思え。自分で作るなり買いに行くなり勝手にしろ」
とオクタンに言い放った。
「なんだよ、ちゃんと謝っただろ!」
「お前には反省が必要だ」
それっきりミラージュはそっぽを向き、タブレット端末を操作し始めた。
オクタンがいくら話しかけても、口をへの字に曲げたまま返事をしない。
こうして、突き放されて居場所を失ったオクタンは、仕方なくこの部屋に撤退した、というわけだ。


籠城から二時間以上経っても、オクタンはまだ部屋の中にいた。
とっくに頭は冷えて、自分が悪いことも分かっているのに、今までに見たこともないようなミラージュの怒り顔を思い出すと、気まずくて出ていくことができない。
時間が経つのがとても遅く感じる。
そのうち、ダイニングの方からスパイスのいい香りが漂ってきた。
今日のメニューはカレーのようだ。
ミラージュのつくる日本式のカレーは絶品で、初めて食べたときからオクタンの大好物になった。スパイスの調合から具材、ルウのとろみ具合にまでこだわり、長年に渡って研究を重ねた成果だ。
「うう……」
キーボードの上に突っ伏し、オクタンは苦しげな唸り声をあげた。
食欲をそそる濃厚な香りは空きっ腹にこたえる。
しばらく葛藤したのち、ついにカレーの誘惑に耐えられなくなったオクタンは、部屋を出てふらふらとダイニングへ向かった。
「エリオット、腹減った……」
山盛りのカレーを前にしたミラージュは、か細い声で訴えるオクタンに、冷ややかな視線を送るだけだった。
テーブルを見ても、当然ながら自分の分は用意されていない。
オクタンは気を取り直し、次の作戦を実行した。
「おっ、今日はジャパニーズカレーか? 俺様はお前の作るカレーが世界で一番好きだぜ!」
ミラージュは、なおもしらっとした目でオクタンを見ている。
「そんなおべっか使ったって無駄だからな」
「えり、ごはん♡」
「こういう時だけかわいこぶるな」
オクタンのあざとい作戦は、ことごとく失敗に終わったようだ。
ミラージュは佇むオクタンを放置し、見せつけるようにカレーを食べ始めた。オクタンの口の中は唾液であふれ、腹がぐうぐうと鳴っている。
しばらくの間、ミラージュが旨そうにカレーを貪る様子を眺めていたオクタンは、今日のミラージュが簡単には墜ちない事を悟ったのか、すごすごと冷蔵庫に向かい、エナジードリンクを取り出した。
オクタンの名誉のために言っておくと、これは作戦ではなく、万策尽きた諦めゆえの行動だった。
スプーンを咥えたまま、ミラージュはそれを黙って見守っている。
うなだれたオクタンが、そのまま自室に戻ろうとした時だった。
「……ひとり分くらいなら、まだ鍋の中に残ってるぜ。食いたいなら勝手によそって食え」
ミラージュの言葉を聞いたオクタンの顔が、ぱっと明るく輝いた。
急に電源が入ったように忙しない動きでキッチンへ駆け出すと、鍋の蓋を開けて中を覗き込む。
使い込んだ寸胴鍋の中には、どう考えても残り物とは思えない、たっぷりのカレーが入っていた。オクタンの好みに合わせた大きめのじゃがいもと小さめの人参、よく煮込まれた鶏肉も玉ねぎも、あらかじめ二人で食べることを想定して用意されたのは明らかだった。
「へへ……」
オクタンはいそいそとそのカレーを皿に盛りつけ、ダイニングに戻ると、照れくさそうにミラージュの隣に座った。
今すぐかぶりつきたい気持ちを抑え、ミラージュに一応のお伺いを立てる。
「食っていい?」
「俺と神様に感謝してからな」
ミラージュが表情を和らげて厳かに頷く。
「Gracias a Elliot y a Dios!」
オクタンは額の前でぞんざいに十字を切り、熱々の湯気を立てているカレールウを大きな口いっぱいに頬張った。
無くなりそうに細められた目が、その旨さを物語っている。さっきまでのしおらしさはどこへやら、オクタンは上機嫌な時にそうするように何度も頷き、ゆらゆらと頭を揺らした。
ミラージュはといえば、自分の作ったカレーを幸せそうに堪能するオクタンの隣で、どこか複雑な表情をしながらスプーンを口に運んでいる。
「どうした? なんか変なモンでも入ってたか?」
「いや」
ミラージュはその一口を確かめるようにゆっくりと味わい、最後にぽつりと呟いた。
「……やっぱり、ちょっと甘かったような気がしないでもないな……」




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