Part3(オクタン)


翌朝早く、親父からのメッセージを携えた例の秘書が、俺の部屋のドアを叩いた。
どうやら、朝食への招待という名の命令が下されたらしい。
せっかくエリオットと地球でデートする夢を見てたってのに、こんな朝っぱらから俺になんの用だ? また説教でもするつもりか?
半分寝ている頭で、何かやらかしちまったのかと考えたが、特に心当たりはなかった。
どうせ親父の気まぐれだ。
人の都合などお構いなしに、あいつはやりたい時にやりたいことをやる。それが当然だと思ってるんだ。
しばらくの間、ベッドに潜ったまま無言の抵抗をしていたが、しびれを切らした秘書に布団を剥がされて、仕方なく階下へと向かう。
食堂へ行くと、シワひとつないスーツを着た親父が、すでに朝食の並んだテーブルに着いていた。
親父はいつもこんな感じだ。一体いつ寝ているのかと不思議になるくらい、この人が家でくつろぐ姿を見た記憶がない。
ボサボサの髪、パジャマにマスクとゴーグルという異様な出で立ちで入ってきた俺を見て、親父は眉をひそめた。
「顔くらいは洗ってきたんだろうな?」
「あいにく、急に起こされたもんでな。マスクとゴーグルをしてりゃ分かんねぇだろ? JAJAJA」
「……なぜ私の前で顔を隠す? お前はいつもそうだった」
「あんたは俺の顔を見たくないのかと思ってさ」
「なんだって……」
俺は親父の言葉を遮って、わざと嫌がるような話題を振ってやった。無駄に早起きさせられた仕返しだ。
「なあ、俺って父親に似てるか? それとも母親似か? もちろん、本当の、だぜ」
親父は苦虫を噛み潰したような顔になり、テーブルの上で組んだ両手の上に顎を乗せ、眼鏡越しに俺を睨みつけた。
長いこと、俺たちの間で二号の話をするのはタブーだった。言われるまでもなく、俺は母親に大して興味がなかったが、今なら、あの人がなぜあんなに不機嫌な顔で額縁に収まってたのかが、分かるような気がする。
きっと彼女は全部知ってたんだ。
なのに、それを公にすることも許されず、偽物のドゥアルド・シルバの妻として生きなければならない絶望が、彼女をあんな顔にさせた。
そして、今もどこかでその秘密を抱えたまま、自由になれずにいる。
「くだらんことを言ってないで、早く座りなさい」
俺は言われたとおり、親父の向かい側の席に着き、ゴーグルとマスクを外して脇に置いた。
こうやって向き合うのは何年ぶりだろう。
いつも、この時間が早く終わればいいと思っていた。
「それでいい」
親父は機嫌を直したように満足気に頷いた。
「予定より早く起こしてしまったのは悪かったが、なかなかお前とゆっくり話をする時間がなくてな。今日も、朝食を済ませたらすぐに出掛けなければならない」
「ふん……さすが、シンジケートの議長様はお忙しいんだな。それに引き換え、俺は毎日退屈であくびが出るぜ。APEXゲームの会場と、この家を往復してるだけだ。いったい何しに戻って来たんだか」
「もう、あの男が恋しくなったか?」
俺は警戒心をあらわにして親父を睨んだが、やつは涼し気な顔でコーヒーカップを口に運んでいる。
「正直、すぐに別れると思っていたのだが、なかなかしぶとい奴だ。お前に付き合える忍耐強さだけは褒めてやろう」
「エリオットの話はいいだろ。あいつに構わないでくれ、何も知らないんだ」
「ほう」
眼鏡の奥の両目が、探るように細められる。
俺は牽制の意味を込めて強調した。
「そう、あいつは何も知らない。だって、これはあんたと俺の秘密だろ? 安心しな、エリオットにもアジャイにも、誰にも言ってないぜ。今のところは、な」
親父はふふんと鼻を鳴らし、俺を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「何がおかしいんだよ?」
「まさか、それが私に対する切り札だとでも思っているのか? オクタビオ」
図星をつかれて、俺は一瞬黙り込んだ。
「よく考えてみるんだな。もし、お前が私の正体をバラしたとして、世間が私とお前のどちらの言う事を信用するか……。ただの見世物小屋のスターと、アウトランズの未来を統べる指導者を比べるまでもあるまい」
「……その見世物小屋の興行に、ずいぶんとお熱じゃねぇか」
「APEXゲームが、アウトランズの民衆の心を掴んでいるのは事実だからな。お前は誤解しているかもしれないが、私は割と柔軟な人間なのだよ。カメラの前で笑えと言われれば笑いもする。それが効果的な事ならばな」
テーブルの向こう側で、親父は不敵な笑みを浮かべた。
「お前は私の側に付いたのだ。自らの手で証拠を燃やしたことを忘れるな」
胸の奥のほうが鈍い音を立てて疼いた。
なんでそれを知ってるんだ……。
子供の頃の嫌な思い出がじわじわと蘇る。
いつもこうなんだ。
対等なつもりでいても、気が付くと向こうが優位に立っていて、最後には決まって「イエス・サー」と答えさせられる。
憮然と料理を口に運ぶ俺とは対照的に、親父の口は憎たらしいほど滑らかだ。
「何にせよ、お前がここに戻って来たのは喜ばしい事だ。いずれお前には、シルバ家を継承する子をもうけてもらわねばな。ひ孫の顔を見るのが今から楽しみだよ」
どこまでが本気なのか、親父はナイフを片手に愉快そうに笑った。
「冗談はやめてくれ」
俺は反射的に顔を上げ、テーブルを拳で叩いた。
「これだけは言っておく。俺はエリオットと別れるつもりはないぜ」
「ふん、なにも無理に別れる必要はないさ。だが、シルバの血を絶やすことだけは許さん。彼との関係を続けたいのなら、他にいくらでも方法があるだろう。なに、心配するな。邪魔にならない程度に、物分りの良い女を探してやる」
話を聞きながら、じわじわと怒りが湧いてくる。
人をまるでゲームの駒みたいに言う。
そんなに簡単に割り切れるほど、俺とエリオットは薄っぺらな付き合いじゃないぜ。
あいつの存在が、どれだけ俺の心と身体の奥深くまで染みついているか、その時の気分で結婚式を挙げるような人間には、分からないかもしれないけどな。
「あんたの結婚相手みたいにか?」
「何も知らないくせに、知ったような口をきくな」
親父は、明らかに気分を害したように語気を強めた。
「息子を、ドゥアルドを失ってから、私はシルバの血筋を世に残すために努力してきたのだよ。だが、残念なことに、誰もその願いを叶えてはくれなかった。今となっては、お前が私にとって唯一の血縁者であり家族なのだ。これ以上私を失望させないでくれ、オクタビオ」
「……血統ってのは、そんなに大事か?」
「もちろんだとも。私たちに流れる血こそが、シルバである証なのだからな。いわば、ドゥアルドは私の理想の分身だった」
俺には分からねえよ、親父。
息子、家族、シルバ、血のつながり。
あんたが口にすればするほど、どれも空虚に思えてくる。いくら同じ血が流れているからって、そこに気持ちがないのなら、それはただの赤い色をした液体じゃねえのか。
「まあいい、それはあくまでも先の話だ。今はアウトランズの改革に全力を尽くすとしよう。もちろん、お前も協力してくれるな?」
「分からない。あんたは俺に何をさせたいんだ? 俺は……俺は何をすればいい?」
「お前が本当に優秀な息子なら、言わなくてもわかるだろう? 簡単なことだ」
まただ。
近づいたと思えばはぐらかされる。
離れようとすれば引き戻される。
親父はいつも、俺に考えさせるくせに答えをくれない。
だから俺は、いつの間にか考えることを止めて、なにも求めなくなった。
相容れないものを理解しようとして無駄な努力をするよりも、関わらないほうが気楽に生きられる。
目を瞑り耳を塞いでいれば、自分が自由だと錯覚できた。
でも、もうその時期は終わったんだ。
思わせぶりな言葉はもう飽き飽きだぜ。俺はそんな話を聞きたいんじゃない。
あんたは真実を語るって言ったよな?
なら、俺が本当に知りたかった事は、ひとつだけだ。
喉の奥に溜まった唾液をぎこちなく飲み込み、俺は恐る恐る口を開いた。
「なあ、親父」
「なんだ?」
「あの動画……あんたのパソコンに入ってた、息子宛のメッセージは本物か?」
「なんのことだ?」
「……息子が……自分の興奮剤だって……」
「いくら家族でも、勝手に人のデータを見るのは感心しないな」
親父は軽い調子で俺をたしなめたが、次の瞬間には、もう笑っていなかった。
その代わりに、哀れみとも蔑みとも取れるような、冷ややかな視線が俺を捉えていた。
「まさか、あれが自分の事だとでも思ったのか。言っただろう? 私は“彼”を愛していたと……」
心臓が嫌な音をたてる。
その音はどんどん大きくなって、まるで警告音のように頭の中で鳴り響いた。
「ドゥアルドは、シルバ家を継ぐに相応しい優秀な男だった。彼は常に私にエネルギーをもたらしてくれる、唯一の存在だったのだ。だからこそ、彼を救えなかった事が、今でも深い後悔となって私を苦しめている。あいつにはもっと生きる権利があった、そう……お前よりもずっと」
理不尽な怒りの矛先が、自分に向けられているのだと分かるまで、少し時間がかかった。
なにか言わなくちゃと口を開きかけたものの、親父は俺のことなど構わずに容赦なく先を続ける。
「お前が使っている興奮剤が何なのか、考えたことがあるか?……元はと言えば、あれは、ドゥアルドの病を治療するために開発した薬なのだ。いや、ドゥアルドだけではない、世界にとって偉大な発明になるはずだった。私はすべてを投げ打って、治療薬の完成に全力を注いだ。法を犯し、非道な実験にも手を染めた。すべては息子のためだ。ドゥアルドはそれを非難したが、彼の命を救えるなら、いくら憎まれようが構わなかった。だが、その願いも虚しく、ドゥアルドは永遠に帰らぬ人となってしまったのだ。……なのに、お前はその薬を自分の享楽のためだけに使い、いたずらに人生を消費している……!」
親父は肩を怒らせ、両手を固く握りしめた。
爆発しそうな感情を必死で押さえつけているみたいだ。
俺はただ黙って、機械のように動く口元を見つめることしかできなかった。
「ドゥアルドが死んだ時、私は彼が残した者を愛そうとした。お前とお前の母親をな。それが彼の遺言だったからだ。そして、少なからずお前に期待していたのだ。だが、お前はことごとくそれを裏切った。その脚を見てみるがいい。せっかく持って生まれた健康な身体を、自らの愚かな行いで傷つけるなど……」
親父はそこで大きなため息をついて、ゆっくりと首を振った。
「だが、今思えばそれも当然だ。なぜなら、そこに予期せぬ不純物が混ざったからだ」
「不……純物?」
「……お前の母親の事だ。ドゥアルドがあの女と結婚したせいで、シルバ家の家系にはふさわしくない血が混じってしまったのだ。そして、お前はそれを色濃く受け継いだ。野蛮で奔放な性質、浅はかな思考、勤勉さのかけらもない……。それでも、私はお前を愛そうとした。だが、事あることにお前は、私にあの忌まわしい女と、ドゥアルドの死を思い出させるのだ」
――そんなの、俺にどうしろってんだ。
叫びだしたかったが、喉に鉛でも詰まったかのように声が出なかった。
長い暗闇を抜けて、ようやく見ることのできた親父の本心が、愛どころか自分の存在を否定する感情だったなんて。
足元がガラガラと崩れていくような感覚の中で、滲んだテーブルの向こうに目を向ける。
親父は微動だにせず、俺を突き放すように冷たく言い放った。
「よく考えて行動することだ。いわばお前は、ドゥアルドが生きるはずだった人生を生きているのだからな」
「俺が……俺が奪ったとでも言うのか? あんたの息子の人生を? なら、あんたのやってる事だって同じじゃねぇか。テロを起こしたり、シンジケートを支配することが、あんたの愛する息子の望みだったのかよ!?」
俺は、掠れそうになる声を必死に振り絞った。
そんなのはおかしい。
誰も誰かの代わりになんかなれねえし、それで幸せにもなれない。
――俺は、俺だ。
「あんたは間違ってるぜ、親父」
「黙れ!」
親父が激昂したように立ち上がり、側にあった杖に手を伸ばす。
ぶたれる、と、直感的に思った俺は、とっさに顔を背けて身構えたが、鉄鎚が飛んでくることはなかった。
親父はうつむいて肩を震わせ、青ざめている。
はじめは怒りを押し殺しているのかと思ったが、どうも様子がおかしい。
そのうち、尻餅をつくように、元の椅子へと崩れ落ちてしまった。
「お……親父?」
「うるさい、うるさい! お前も、ドゥアルドと同じ事を言うのか……」
思わず側に駆け寄った俺の手を弱々しく振り払う。
こんな親父は見たことがない。
俺の目に映っていたのは、シルバ製薬のCEOでもシンジケートの支配者でもなく、息子を失ったひとりの老人の姿だった。まるで魔法が解けてしまったかのように、老いて力なく見える。
その落ちくぼんだ目の奥は濁り、放心したように虚空を見つめていた。
俺が見ているのは一体なんだ?
これが、あんたの正体だとでもいうのか?
時間にしたら、ものの数秒だったろう。
じきに我に返った親父は、スーツの内ポケットから注射器を取り出すと、微かに震える手で腕に突き刺した。
「……最近は薬が切れるのが早くてな。まだまだ改良の余地がありそうだ」
俯いていた顔を上げ、忌々しげに舌を打つ。
不遜な笑みを浮かべたその表情は、何事もなかったかのように、いつもの余裕を取り戻していた。
「どうした、オクタビオ。お前にはいささかショッキングな話だったかな?」
目の前の獲物をいたぶる捕食者さながらに、親父は目を細めた。自分が優位に立っている事を信じて疑わない顔だ。
そして、その無力な獲物に気まぐれな慈悲をかけるかのように、優しい口調で続けた。
「お前は真実を知りたがっていたが、それが必ずしも、人に幸福をもたらすものではないという事を覚えておくんだな。なに、悲観することはないぞ。お前を一人前として扱うと言ったのは本心だ。今からでも遅くはない。お前が良い子になると約束するなら、私も良い父親になれるよう努力しよう。家族とは、助け合うものだからな――」
親父はそう言い残し、席を立った。
不規則な杖と革靴の音が遠ざかり、重い扉の軋む音がする。痩せた背中が出口の向こうに消えるのを見届けると、俺は半ば機械的に自分の席に戻った。
冷たくなった朝食の残骸が、目の前の皿を汚している。
「ふざけんなよ……」
俺は固くなったベーコンにフォークを突き刺した。
そして、残っている料理を片っ端から口のなかに放り込んだ。
もはや味などしなかったが、とにかくこの理由のわからない感情を消化したくて、俺は咀嚼を続けた。
自分が怒っているのか悲しんでいるのかさえあやふやなまま、涙だけが溢れてくる。
なぜあのとき、親父はそうだと言ってくれなかったんだ。
嘘でもいいから、ただ一言、愛していると言ってくれたなら、俺はそれを信じていられたのに。
真実が幸福をもたらすとは限らない。
親父の声が、頭の中で何度も再生されては消えていった。
――どれくらい時間が経っただろう。
すべての皿が空っぽになっても、長い間、俺は席を立てずにいた。
いつの間にか、窓の外からは柔らかい日差しが差し込んで、親父が座っていた場所を照らしている。
朝っぱらから、いろんな感情が自分の中を通り過ぎていったけど、最後に残ったのは不思議な静けさだけだった。
空っぽの脳みその中に、最初に思い浮かんだのはエリオットの顔だ。瞳の色、眉の形、鼻の高さ、その顔の傷のひとつひとつまで、鮮明に思い描くことができる。
そのうち、その輪郭が少しづつぼやけていって、無意識に違う人間を形作ろうとしていた。
俺はそいつが誰なのかを確かめようと、必死に霞んだ目を凝らした。
だが、今までに出会ったすべての人々の面影を繋ぎ合わせても、その像を完成させることはできなかった。
テーブルの向こうにあるのは、空っぽの椅子だけ。
俺は生まれてはじめて、そこに座っていたはずの、顔も覚えていない父親に思いを馳せた。

……なぁ、親父? あんたはどうして死んだんだ?
――俺のことを、愛してたか?



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