Part3(オクタン)


「夕食の用意はできています。すぐに召し上がりますか?」
オリンパスでのゲームを終え、プサマテの屋敷に戻った俺を出迎えたのは、黒縁眼鏡に黒いスーツを着た秘書の男と、入口に飾られた奇妙な形のオブジェだけだった。
選挙の日から二週間。
まだこの家に帰って来るのには慣れない。
ゲームの後、エリオットと一緒に帰りの船に乗ろうとして「お前の帰る方向はこっちじゃねえだろ」って笑われたのも、一度や二度じゃなかった。
夕食には早すぎる気もしたが、シャワーはシップで浴びてきたし、特にやる事もないので、とりあえず飯を食うと秘書に伝える。
ファンだったか、ウォンだったか、名前は聞いた気がするけど忘れちまった。
はじめのうちは、俺の行くところ全部、それこそトイレの中まで付いてこようとする勢いだったが、どうにも鬱陶しくて仕方ないので、会社の仕事以外の時は家で待っているよう言いつけた。
奴は不満そうだったが、命令には逆らわない。
よく躾けてある忠犬だ。
「よお、ワンちゃん、いい子にしてたか?」
俺の言葉に表情を動かすこともなく、秘書は一言「はい」と義務的に答え、俺を食堂へと案内した。
まったく、親父の部下どもは、揃いも揃ってユーモアを理解しない奴らばっかで困るぜ。
仕方ねえか、犬は飼い主に似るっていうしな。
「いちいちエスコートしてくれなくたって、自分ちの間取りくらい覚えてるぜ」 
「オクタビオ様が不自由のないようお世話するのが、私の仕事ですから」
「どうせ秘書なんて名目だけで、俺を見張ってんだろ?」
「オクタビオ様は分別のある方だと思っております」
「へっ、嫌味かよ」
退屈しのぎに突っかかってみても、まるで手応えがない。興ざめした俺は、黙ってそいつと並んで歩いた。
がらんとしたエントランスを抜けると、左右にスロープ状の階段が広がり、壁際には先祖らしき人々の肖像画がずらりと並んでいる。
それらを横目で見ながら長い廊下を歩いていくうちに、一見豪華な内装で飾られたこの家が、不気味なくらいに無機質なことに気付く。
ここには丸めて脱ぎ捨てられた洋服も、読みかけの雑誌も、作りたての夕食の匂いも何もない。人の笑い声どころか、話し声さえも聞こえない。
雇われていたエージェントや使用人たちはどこへ行っちまったんだろう?
家には三号や四号もいるはずだったが、元々俺と付き合いはない。彼女たちは、シルバー・シャトーと呼ばれるこの広い敷地の中で、それぞれに自分の領域を持っているらしかった。
俺にとってあいつらは親父の女ってだけで、母親だとか思ってねえし、向こうもこっちに興味がないんだろう。
それどころか、親父との間に愛情があるのかすら疑問だった。
考えれば考えるほど、俺んちは終わってる。
「なんだかやけに静かだな。前はもうちょい、人の気配ってもんがあったような……」
特に話し掛けるでもなく、思ったことを口に出しただけのつもりだったが、隣の黒服は、ちらりと俺を見てから律儀に返事をした。
「……あなたがいなくなったからでは?」
「何だよ、俺がひとりで騒いでたって言いてえのかよ?」
「私ではありません。前任のエージェントが、そう言っていました」
前任と聞いて、俺はふと、前に自分の監視役を勤めていたエージェントの女ことを思い出した。
奴らが俺をもて余して逃げ出したり、親父のお気に召さなくてクビになったりするのはいつもの事だ。
特に気にもしていなかったが、そういえば、どこにも姿が見えないな。
「あの、やけに澄ました吊り目の女のことか? 最後に会ったのは一年くらい前だった気がするけど……俺を逃がしたせいで、サルボにでも左遷されちまったか?」
「エージェント・マーシーは、半年ほど前に退職しました。なんでも、結婚して地球に移住するとか」
「へえ……」
意外な返答に、俺は思わず隣の男の顔を見上げた。
「あいつにそんな相手がいたとはな」
「……彼女だけではありません。他にも、ここ一年の間に去った者は大勢います」
黒服はそう言って表情を曇らせると、最近ではエージェントとは名ばかりの地味な仕事ばかりで、重要な任務はシンジケート部隊に取って代わられつつあると、初めて人間らしい愚痴をこぼし始めた。
言われてみれば、屋敷のまわりにも親父の身辺にも、緑色の兵装に身を固めた兵士の姿が目につくようになった。
今まで親父の手足となって働いてきた、シルバの私兵ともいえるエージェント達が、それに不満を持つのも無理はない。
黒い髪を律儀に撫でつけた真面目そうな男に、俺は少し同情を覚えた。
「確かにな。寄りすぐりのエリート達に与えられた仕事が、領収書の整理と問題児のお守りじゃ、そりゃあ張合いがねえよな」
「いえ、そんなことは……」
黒服はそう言って口ごもり、俺たちの間に再び沈黙が訪れた。


2/4ページ
スキ