チェリー

俺が目を覚ましたとき、オクタビオはまだ眠っていた。
起こさないように、そっとベッドを抜け出すのにも、もう慣れた。
俺はまずシャワーを浴び、それからキッチンに行って簡単な朝食を作りはじめる。
卵とベーコン、ほうれん草のシーザーサラダ、クロワッサンはワットソンから差し入れされたものだ。
慣れた手つきでコーヒーをドリップしていると、大あくびをしながらオクタビオが起きてきた。
十時を過ぎているが、ブランチにはちょうどいい。
「ふぁーあ……よく寝たぜ。お前は今日も早起きだな、エリオット」
お前にかかれば、何時だろうが自分よりも早く起きた奴は、みんな早起きになっちまうな。
Tシャツに手を突っ込んで腹をポリポリと掻きながら、キッチンに入ってきて俺にキスする。
「おはよ……」
何気ない朝。
毎日こんな朝ならいい。
寝起きのくしゃくしゃの髪の毛さえ愛おしく感じていると、気長に待つと決めたはずの一緒に暮らしたいという気持ちと、やんちゃな俺の息子がむくむくと頭をもたげて来そうになる。
いや、お前は大人しくしててくれ。
ゆうべさんざん暴れただろ。
今だって休みの日はほとんど一緒で、俺の家からゲームに行くことだって珍しくないってのに、なぜか同居にはうんと言ってくれないオクタビオは「お前に迷惑がかかると悪いから」なんて、他人行儀なことを言うんだ。
「エリ?」
ちょっと恨めしげな俺の視線に気付いたのか、オクタビオは首を傾けて俺の顔を見る。
クソ、いちいち可愛いな。
「シャワー浴びてこいよ。飯の用意しとくから」
オクタビオはおう、と素直にシャワーに直行した。
ライフラインに言わせれば、オクタビオを可愛いという俺の感覚は理解できないらしい。
それは幼なじみだからだと反論すると「そういうのを、アバタもえくぼって言うのよ」と返された。
冷静になればそうかもしれない。
顔も体も少年って感じじゃねぇし、女とみまごうような美青年でもない。
どうみたって24歳の男だ。
本人も、可愛いと言われて嬉しがってる様子はなく、むしろ嫌がってる。
そこで俺はこう思うことにした。
俺があいつくらいの頃だって、きっと可愛いかったんだ。まだ髭もなかったしな。
やたら年上の女に誘われたもんだ。
だから俺がオクタビオを可愛いと思うのは、何もおかしなことじゃない。
そういや、あの頃付き合ってた元カノはどうしてるかな……。幸せになってるといいが。

コーヒーを飲みながらオクタビオを待っているうちに、ちょっとした悪戯を思い付いた俺は、あいつがいつも座る場所の向かい側に移動した。
オクタビオは人と向き合って座るのが苦手だと言って、俺に限らず、誰かとふたりきりの時は必ず並んで座っていた。所謂、恋人座りってやつだ。
初めてオクタビオと同じテーブルに着いたときからそうだった。
最初こそ変な感じだったが、そのうち俺は特に気にもしなくなって、自然にあいつの右側に居るようになったんだ。
カシャカシャと義足の音がして、バスタオルで乱暴に頭を擦りながらシャワーから戻って来たオクタビオは、不思議そうな顔をして朝食の並んだテーブルの前で立ち止まった。
「いつもと違うな、何かあんの?」
「たまには向かい合わせもいいかと思ってな。お前はちゃんと髪を乾かして来なきゃダメだろ? 風邪ひくぞ」
オクタビオは自分の分の皿を引き寄せながら、無言で俺の隣に腰を下ろした。
「あーもしかして、怒ってる?悪かったって。ちょっとしたおふざけのつもりだったんだ」
「……いいさ、別に怒ってねぇぞ。ただ、全然面白くねぇとだけ言っておく」
ナイフを手にして器用にくるりと一回転させると、それを俺に向かって突き付ける。
怒ってるじゃねぇか。
「なぁ、オクタビオ。何でそんなに向かい合わせが嫌なんだ? 恥ずかしがるって柄でもねぇだろ。俺らもう、知り合ってからずいぶん経つぜ?」
オクタビオはクロワッサンを千切りながら、ちらりと俺の方を見やった。
「お前は前に座りてぇのか?」
「いや……別にそういう訳じゃねぇ。何か落ち着かねぇ理由でもあるのかって思っただけさ。まあいいけどよ。隣同士の方が、こうやってすぐキスもできるしな」
俺は、口をもぐもぐさせているオクタビオの唇の端を、自分の唇で軽くつまんだ。
中のものを飲み込もうと、隆起した喉がごくりと動く。
それを確かめて、唇を合わせようとした時、
「昔さ、ガキの頃……」
と、オクタビオが口を開いた。
お預けを食らった俺は、そのままやつの綺麗な緑色の目を見ていた。
こんなに近くでも目を逸らさないお前が、向かい合って座るのが苦手だなんてな。
「よく父親に説教されてたんだ。テーブルだの机だのを挟んだ向かい側でな。それだけじゃねぇ、あいつとふたりで向き合って飯を食ってるときのあの嫌な感じ……俺が会社を継ぐのに相応しいかどうか、まるで品定めしてるみたいな目で見やがる。あいつが俺の隣に居たことなんて一度もない。いつも、テーブルの向こうだ」
オクタビオの眉のあたりに険しさが漂う。
そうか、それでなのか……。
意外な理由に納得しかけて、俺は何か引っかかるものを感じた。
「ちょっと待て。今、会社を継ぐって言ったか?」
「ああ、言ったぜ。俺はシルバ製薬ってチンケな会社の跡取り息子だからな」
さらりとそう言ってのけたこいつの口から出てきたのは、フロンティア中で知らない奴はいねぇってくらい有名すぎる名前だった。
「冗談はよせよ。シルバ製薬といやあ、大企業もいいとこじゃねえか」
「まぁ、信じなくってもいいぜ。もう過去の話だしな。今の俺様には関係のない話だ」
こいつの口から家族の話を聞くのは初めてで、俺はいつかのライフラインの言葉に従って、自分から尋ねたことはなかった。
いいとこの坊っちゃんってのは知ってたが、オクタビオがどこの誰だろうが、正直どうでも良かったしな。
とはいえ、そのいいとこってのがシルバ製薬だって聞けば、さすがの俺も驚くってもんだ。
シルバ製薬は家庭用から軍用まで、医薬品はもちろん科学薬品や健康食品、果てはドラッグ紛いのモノまで、フロンティアの薬事情をほぼ仕切ってるっていってもいい。
パイロットが使ってた興奮剤だって、シルバ製薬が開発したもんだ。
その大企業の御曹司が、何がどうなってグレネードで足を吹っ飛ばし、APEXゲームに参加することになったのか……。
金持ちの道楽ってわけでもなさそうだ。
「お前が気付くまで黙ってようと思ったけど、その様子じゃ一生気付かなそうだな。言わなきゃよかったぜ」
オクタビオは俺をからかうように笑った。
不覚にも、俺は今の今まで、全く気付かなかった。
「だってよ……シルバなんて南米系の奴にはありふれた姓だし……」
それに、俺にとってシルバ製薬の話は、知ってしまえば最早どうでもいい。
こいつの肩書きより、中身が知りたい。
「シルバ製薬の御曹司ってのは過去のことなんだろ?その過去ってやつを俺は聞きたいぜ。今まで、そういう話をしたことがなかったからな」
「そんなの聞いたって、面白くも何ともねぇぞ。……むかしむかし、あるところに、シルバさんちのオクタビオくんというイケメンがいました。オクタビオくんは、将来が約束された退屈な毎日に飽き飽きしてたんで、ある日グレネードで全部ぶっ飛ばしてやりました。おしまい」
投げやりな口調でそれだけ話すと、オクタビオは口を閉ざした。
だが、俺は構わずに続けざまに質問を投げつける。
「わざとグレネードでケガしたってのか?」
「まさか。あれは俺がしくじっただけさ。アジャイのおかげで結果オーライになったけどな。会社とも親父とも生身の足ともオサラバして、家出する決心がついた」
「……母親は?」
「さぁ?俺が物心ついたときにはもう居なかったぜ。オリンパスのどっかの別宅で、若いツバメ達を侍らせてるって話だ。しかも、親父は親父で女を取っ替え引っ替えしてるってのに、あいつらまだ夫婦でいるんだぜ? 笑っちまうだろ? 俺には理解できねぇよ。そんなんでまともに育てっていう方が無理な話さ。けど、親父はそんなのお構いなしに、テーオーガクとやらを詰め込もうとしやがった。俺にできる唯一の反抗っつったら、顔を隠してヤバいスタントを繰り返すくらいで……あいつは気付いてたけどな。何も言わなかった」
冷たい大理石の机の向こうに、小さなオクタビオが見えた気がした。
どんな時も、家族の愛情を疑ったことなんてなかった俺には、オクタビオが抱えていた深い孤独と理不尽さなんて想像できるはずもねぇ。
黙りこんだ俺を気遣うように、オクタビオは唇の端を上げて笑ってみせた。
「勘違いすんなよな。……俺は別に寂しかったわけじゃないんだぜ、エリオット。寂しいってのは、持ってたもんが無くなったときに感じるもんだ。飼ってたウサギが死んだときとかな。けど、最初から何もなければ、そう思うこともねぇ」
「オク……」
「俺は愛情や金なんかより、自由が欲しかった。生まれた時から決まってる人生の、何が楽しいんだ? オクトレインにレールはいらねぇ、好きなとこに自分の足で走って行くぜ。そこでのたれ死んだって悔いはねぇ。この義足を手に入れたとき、俺はそう決めたんだ」
オクタビオは挑むような目をして、俺を見る。
愛がいらないなんて言うなよ。
悲しくなるだろ。
金だってなけりゃないで大変なんだぞ。
俺に何ができる?

「あっちに行こうぜ? 片付けは後でいい」
俺はオクタビオの手を引いて、リビングに場所を移した。
いつもふたりで座っている、柔らかい布張りのソファー。
何気なく座っていた幸せな場所に、そんな意味があるなんて思いもしなかった。
隣り合わせに座ってから、俺は改めてオクタビオの顔を見つめ、両手を握った。
「何だよ? 真面目くさった顔して……。心配すんな。俺はお前が思うほどヤワじゃねぇぜ」
「分かってるさ」
そう言って、手に力を込める。
「けどな、いつかきっとお前は、両親とも会社とも向き合わなきゃならない時が来る。血の繋がりってのは、簡単に絶ちきれるもんじゃねぇんだ。放り出したいと思ったって、どこかについて回るものなんだよ」
オクタビオは不満げな声をあげた。
「まるで親父みてぇだな。……そんな事ばっか言うと、お前のこと嫌いになるぞ」
「それは勘弁してくれ。……俺は今からお前にプロポーズしようと思ってるんだからな」
「!?」
切れ長のオクタビオの目が、飛び出しそうなほど丸く見開かれる。
みるみるうちに耳が赤くなって、それは頬にまで伝染していった。
俺はその反応に満足して、オクタビオを抱きしめた。
「……てのは冗談だ。だがな、いつか戦わなきゃならねぇ時が来たら、俺がいるってことを忘れないでくれ。ひとりで突撃するんじゃねぇぞ? ゲームでもチームワークが大事だろ? まぁ、しがないウィット家の四男坊が、天下のシルバ製薬相手に太刀打ちできるとは思えねぇけどな。そん時はそん時だ」
「頼もしいんだか、そうじゃねぇんだか……」
呆れたような声のあとに、耳元で小さく呟くのが聞こえた。
「グラシアス、エリオット」



「ところで、さっきのプロポーズの話は冗談なのか?」
「いや、まんざら冗談でもねぇ。けど、お前は自由でいたいんだろ?俺は、お前を縛りたいわけじゃねぇしな。どんな可愛い顔すんのか見れただけで満足さ」
負けず嫌いのオクタビオは、鼻の穴を膨らませて悔しそうな顔をした。
相変わらず耳は赤いままだ。
「それよりもまず、一緒に住む方が先だぜ。結婚したくなったら、今度は俺からプロポーズするから待ってろ。……そん時はめいっぱい可愛く返事しろよな?」
「ウン……」
俺は気持ちだけ24歳に戻って、可愛く頷いてみせた。

1/1ページ
    スキ