EP.1 マイ・マスター

 セシリアは息を上げながら、研究所中を走り回っていた。雪崩れが起き、目の前に広がる散らばった書類。花瓶だったものは、生けていた花と陶器の破片が散乱している。ため息を吐く間も無く、箒を使って手際良く塵取りに収めたものの、その瞬間、今度はキッチンの方から爆発音が聞こえた。彼女は全身から血の気が引いていくのを感じながら、手にしていた掃除道具を投げ出し、音のする方に駆けつける。プラスチックが焦げたような、有害そうな異臭が辺りに漂っていた。

「うわーっ、何この箱。爆発しちゃった。」
「兵器じゃねぇの?」
「危ないなあ。マスターが怪我したら大変だ!」
「だな!スパッとやっちまうか!」
「だね!」
「――ま、待ってください!二人共!」

 絶え絶えの息の中キッチンに入ってきたセシリアの必死な声に、シューヴァとサンギは漸く動きを止めた。…が、一足遅く、電子レンジは綺麗に一刀両断されていた。
 セシリアは顔面蒼白で膝から崩れ落ちる。案の定、キッチンも割れた陶器の皿やガラスのコップ、食材や調味料類が散乱していて、見るに堪えない惨状だ。

「おーっ、マスターじゃねぇか。どうだ?綺麗に真っ二つだぜ!」
「マスターの危険を排除したよ!褒めて褒めて!」

 二人はさも重大な仕事を終えた様子で、誇らしげに鼻を鳴らす。主人からの賞賛の言葉を今か今かと待ち侘びていた。

「――いい加減にしてくださいっ!」

 だが、二人の期待は真っ向から打ち砕かれる。ぶち、と堪忍袋の尾が切れたセシリアは普段物静かな彼女が出すことがない音量で、腹の底から怒りを露わにした。悲鳴にも似たその怒号は研究所中に響き渡る。





 子供を叱る母親のように、怒りを爆発させたセシリアの説教は延々と続き、気がつけば日も落ちてしまった。それには破天荒な二人もさすがに気を落とし、彼女の前で並んで正座をしながら、涙目でがっくりと項垂れる。二人に部屋から出ないよう厳しく言い聞かせて、彼女は一人で後始末をすることにした。
 重い溜息をついて、片付けを決心してからの彼女は驚くべきほど手際が良かった。壊れてしまった家電類は早々に業者に連絡して引き取ってもらう手続きをし、手早く割れ物を片付け、調味料類で汚れた床もあっという間に拭き取り終える。ただ、散らばった書類は経費関係、研究機関からの資料、ダイレクトメールなど様々なものが入り乱れていて、一筋縄では行かなそうだった。元々、レイモンドが研究以外のことは疎かになりがちで、散らかり気味ではあったが…その比ではなかった。思わずセシリアの顔も強張る。用紙の白がどっさりと積もった雪のように見えた。
 意識が遠のきそうになりつつも、手を止めずに淡々とファイリングの作業を続けていく。
 それに没頭していると、怒りの気持ちが段々と逸れてきて、昂っていた感情も鎮まっていった。

(少し、怒りすぎてしまったかも知れませんね……。)

 仕分けが一段落して、休憩がてらハーブティーを飲む。ほっと息を吐きながら、セシリアは衝動的に怒ってしまった自分の振る舞いを反省していた。

 シューヴァとサンギに悪気がないことは頭では理解していた。ここ数日の不可思議な現象をまだ現実として受け止めることができず、その不安もあって、彼らに強く当たってしまったところもあったのだろう。
 まさか古代カロスの、それも曰く付きの魔剣に選ばれたなんて俄には信じ難い。テレパシーで聞いた声もあの日以来耳にしていないし、別段身の回りで変わったこともなかった。……研究所中を無茶苦茶にされる以外は。
 先程のように片っ端からセシリアの害になりそうなものを見つけては、壊して回っているのだ。全てはマスターの為、のつもりのようだが、あまりに腕白すぎるやり方に彼女も疲弊しきっていた。

 だが、仮に――二人が本当に古代の剣に関連する存在だとするのなら、現代の文明に無知で危険に感じるのは当然ともいえる。電子レンジなどその最たる物だろう。彼らは生まれたての無垢な赤ん坊と同じなのだ。
 そう考えると頭ごなしに怒ってしまったことに罪悪感を覚えずにはいられなかった。

『ママなんてだいきらい!』

 ――ふと、幼少期に母親と喧嘩をして、きつく当たってしまった後の気まずさが蘇る。どうしても欲しい玩具があったのに買ってもらえず、その気持ちをわかってもらえないことが悲しくて、怖くて、相手を傷つける様なことを言ってしまった。それは母親も同じで、『あなたのような我が儘な子はもう知りません。』と苛立ちながらそっぽを向いていた。
 家に着くまでの間、終止無言だった。多忙な母と過ごせる貴重な時間を台無しにしてしまったことがとても辛かった。謝りたいけれど、意地を張ってしまった手前、謝ることができなくて。
 そんな日の晩御飯は、決まって母親の手作りハンバーグが食卓に並んでいた。それはセシリアの大好物。そして母親は彼女を抱きしめながら、

『ごめんね。世界で一番愛しているわ。セシリア。』

 優しい声で囁きながら、額にキスをする。その温もりで強張っていた心が氷解して、仲直りすることができたのだ。
 あの時の穏やかな気持ちを思い出して、セシリアは母親に倣ってシューヴァとサンギに話を切り出してみようと思いついた。





 じゅう、と油が音を立てて、香ばしい肉の匂いが辺りに広がる。熱々のフライパンの上で肉ダネから溢れた脂がぱちぱちと音を立てて、踊り出す。

「いい匂いだね。今夜はハンバーグかい?」

 食欲を唆る匂いに釣られて、レイモンドがひょっこり台所に顔を出す。執筆中の彼の方から姿を見せるのはとても珍しいことで、セシリアは少し驚いた顔をしつつも、彼の言葉に照れ臭そうに頷いた。
 あとは仕上げに、特製のデミグラスソースをかければ完成だ。

 セシリアは部屋で縮こまりながら待機していたシューヴァとサンギに声をかけ、リビングに呼び出す。並んで椅子に座らされた彼らは見当もつかない様子で、同じように首を傾げていた。
 白い皿の上に乗せた出来立てのハンバーグを、それぞれのランチョンマットの上に置く。

「……これ、なあに?」

 シューヴァが遠慮がちな視線を送りながら、恐る恐る、セシリアに問いかける。やはり怒り過ぎてしまったなと反省しつつ、彼女は彼らを安堵させようと努めて柔らかな声で「ハンバーグですよ。」と答えた。魔剣といえど、彼らはポケモン。食事も普通のポケモンと同じようにできるはずだ。

「スッゲーいい匂いするけど……。」
「特別な日にママ……私のお母さんが作ってくれたんです。どうぞ、食べてみてください。」

 勧めてみるも、シューヴァとサンギは困った様子で顔を見合わせる。

「ごめん、マスター。俺達食べるってよくわかんない……。」
「斬り方ならわかるんだけどな。」

 しかし、どうやら二人は物を食べたという経験がないらしかった。ゴーストやエスパーのポケモンの中には他の生き物の夢や生命力を吸収してそれを栄養にするものもいる。彼らもそうだったのかもしれない。

「利き手にナイフ、反対の手にフォークを人差し指を添えながら持ってください。そして、一口サイズに切って…。」
「こ、こう?」
「そうです、上手ですね。」
「えへへ。」
「ああ!シューヴァ、お前だけマスターに褒められてずるいぞ!俺だって!」
「ふふっ、サンギさんも上手ですよ。」
「ああ!サンギだけ名前呼ばれてずるい!俺も呼んで呼んで〜!」
「はい、シューヴァさん。」

 二人はセシリアから名前を呼ばれたことに気を良くして目を細める。彼女に言われた通りハンバーグを一口大の大きさに切って、二人は同時に口に運んだ。途端、彼らは目を輝かせて、セシリアを見つめた。

「なにこれ!口の中でじゅわって広がって…。とけちゃった!」
「おう、俺もだ!どんどん食べたくなるぜ!」

 ナイフで切ることも忘れて、二人はハンバーグに食らいつく。猛獣のように貪る彼らの様子にはセシリアも驚いたが、幸せそうな笑顔に微笑ましさの方が上回って、くすっと笑みを零す。自分の作った料理を一生懸命食べてくれることが嬉しかった。

「それは美味しいというんだよ。ああ、過去と現代の文化がコラボレーション……!なんて感動的なんだっ!」
「……レイモンド先生、食事中に写真を取るのは控えていただけると…。」

 ハンバーグを食べるシューヴァとサンギの様子に、側で見ていたレイモンドは興奮した様子でスマホのシャッターを切る。彼にとっては何気ない二人の食事風景も歴史的瞬間なのだろう。セシリアの注意にはっと我に返ったレイモンドは「いやぁ、つい。」と罰が悪そうにスマホを後ろに隠した。

「おいしい…おいしいって言うんだな!」
「うん、これ…とってもおいしいよ、マスター!」
「ありがとうございます。褒められると少し、照れてしまいますね。」

 二人は頬の同じ箇所にソースをつけていた。彼らはこんなところまでお揃いのようだ。

「……二人共、さっきはごめんなさい。私、あなた達に厳しく言い過ぎてしまいました。」

 セシリアは二人に向き直り、深く頭を下げる。それにはシューヴァとサンギも目を見張って、ハンバーグを口に入れたまま硬直した。

「ここ数日で起こったことが驚くことばかりで……心に余裕がありませんでした。」
「マスターは悪くないよ!俺たちも好き勝手しちゃって… ごめんなさい……。」
「これからは気をつけるぜ…。」

 ナイフとフォークを置いて、二人は萎縮した様子で視線を落とす。セシリアは席を立ち、彼らの背後に回ると、優しく二人を抱き寄せる。仲直りの時にママがそうしてくれたように。

「それじゃあ私達、おあいこですね。」

 二人の温もりに懐かしさを感じながら、セシリアは目を伏せる。

「マスタぁ〜ッ!」

 瞳を潤ませながらセシリアを呼ぶ二人の声が重なり、彼らも飛び掛かる勢いで彼女に抱きつく。体は大きいのにその精一杯の仕草は小さな子供のようで、愛おしさが込み上げる。自分の母親もこんな気持ちだったのだろうかと思いを馳せる。

「ん〜ッ、いいねぇ!現代と過去の心が通じ合った瞬間だ!」

 懲りずにレイモンドが連続でシャッターを切るが、今度はセシリアも咎めず、シューヴァとサンギと共に笑っていた。

「みんなで一緒に食べましょうか。さあ、レイモンド先生も。」
「おっと、つい夢中に。ありがとう。」

 セシリアは台所からレイモンドと自分の皿を持ってくる。シチューと焼きたてのパンも追加して。すると、シューヴァとサンギは香ばしい匂いにまたもや瞳を輝かせる。
 四人で囲む食卓はとても賑やかだった。食の体験に興奮しっぱなしのシューヴァとサンギ。考古学オタクのスイッチが入って、講義のように知識を語り続けるレイモンド。思い思いにはしゃぐ彼らの話に耳を傾けながら、セシリアは絶えず笑顔で。それはまさに理想的な家族の団欒のようだった。
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