EP.1 マイ・マスター

 研究所の前にいたタクシーを捕まえ、トランクに沢山の荷物を詰め込むと、レイモンドはハクダンシティ方面にタクシーを走らせた。決めてから行動に至るまでの間が無く、そのスピード感にセシリアは探索に向かう前から既にぐったりしてしまっていた。講演のキャンセルをプラターヌ博士が快く許してくれたのがせめてもの救いだ。それだけレイモンドの衝動性は学者の間では知られているということなのだろうか。
 だが、そんなセシリアの苦労もお構いなしに、レイモンドは玩具を与えられた子供のように、終始笑顔でタクシーの運転手に古代カロスについて熱弁を振るっていた。いつもなら彼を窘めるところだが、もうその気力もなく、彼女の意識は柔らかなタクシーの座席に沈んでいった。





「この辺りで止めてくれ。」

 研究所のあるミアレシティから揺られること数十分。レイモンドはハクダンシティの東に位置するデトルネ通りでタクシーを止めた。半分眠っていたセシリアは、はっとして自分の頬を叩き、曇っていた意識をはっきりさせた。荷物を降ろし、運賃とチップを払う。運転手と一言二言挨拶を交わしてから、タクシーの後姿を見送った。


「あの、先生。どうしてここに?」

 周囲には草むらが広がっており、どこにでもあるような道路だった。セシリアの知っている限りでは、この辺りには目ぼしい遺跡はないはずだった。

「おや説明していなかったかな。それじゃあ、歩きながら話そうか。」
「お願いします。」

 彼の提案にセシリアは深々と頭を下げた。
 探索の装備が入ったリュックサックには重量感があり、一歩進む度、足が地面に沈むようだった。

「デトルネ通りの先に“空ろの間”という洞穴があるんだ。」
「空ろの間?…でもそこからは何も発掘されず、変哲のない空洞だと聞いたことがあるのですが。」

 そこまで口にしセシリアは、あっと何かに気づいた様子でレイモンドの顔を覗き見た。彼女の反応にレイモンドは満足そうに頷き、

「その通り。石板の言う“全てを棄て去りし地”…つまり“何も無い場所”ともとれるだろう?」
「確かに……。」
「空ろの間には謎が多くてね。人工的に作られたような痕跡はあるんだけど、一体誰が何のために作ったのかということはわかっていないんだ。だからこそ調べ甲斐もあるんだけどね。」


 話しながら歩き続けていると水辺の前で立ち止まる。空ろの間はデトルネ通りの川を下った先、つまりこの先にある。

「でも、どうやって行きましょうか…。」

 川だけならともかく、下へ行くには激しく水が直下している滝を下らなければならなかった。さすがに気力と根性だけでは行けそうにない。
 困った顔をするセシリアの横でレイモンドはふふっ、と自信ありげに頬を弛ませる。

「セシリアくん。僕はこう見えてポケモンなんだ。さ、お手をどうぞ?」

 レイモンドはいかにも紳士という風に、演技っぽく彼女に手を差し出す。セシリアはくすっと微笑し、差し出された手を取った。

 彼女のスカートがふわりと広がり、腰まで伸びた長い髪はゆるやかに風に靡いた。地面に着いていた足が地を離れ、宙に浮かぶ。水の流れに沿って空を飛び、滝を下った。


 人の手が届いていない小さな花畑が一帯に佇んでいる。ひとつ風が吹くたびに、華やかな黄色が揺れ動いた。
 その先に取り残されたように、洞穴の入り口があった。周囲の鮮やかな色と、無彩色のコントラストが一層洞穴の寂寥感を強めていた。
 着地し、入り口の前に立つ。洞穴から吹く風の音だけが耳に強く響く。高鳴る鼓動と、緊張感を噛み締めながら、ふたりは更に一歩足を進めた。



 レイモンドがフラッシュを使い、洞穴を明るく照らす。話に聞いていた通り、洞穴の中には殺風景な景色が広がっていた。石板に関係する手掛かりになりそうなものがないかふたりで手分けして地面や壁を調べる。
 手袋を嵌め、角ばった岩肌の壁に触れる。万一、洞穴の一部を傷つけるようなことがあっては考古学者の名折れになる。僅かな油断で洞穴が崩れて、自分の身が危険にさらされる可能性もあるのだ。


(…?何でしょう…この窪み……。)

 神経を研ぎ澄ませながら調べていると、丁度洞穴の中程辺りの壁面で、手の大きさ程の窪みを見つけた。小型のライトを取り出し、窪みに集中して光を当てる。だが、古代文字や壁画など特定のものを指し示すようなものは、目視の限りでは見つからなかった。
 単なる凹みだろうか、と思いながらも念の為、手を入れ、直接触れて確認する。案の定、変わったところはなかった。

「あ…あれ?」

 だが、異変はその後に起こった。窪みに入れた手が、接着されたかのようにくっついて離れない。じわりと背に張り付く汗。何かの間違いだろうと足に全体重を込め、再び手を引き抜こうと試みた。――だが、結果は同じ事だった。

「せ…先生っ!」

 可笑しい。漸くそれを受け入れたセシリアは震え、掠れる声を絞り出すようにレイモンドに助けを求めた。
 けれど肝心のレイモンドといえば、洞穴内部の質感や、成分の解析に夢中で彼女の声はまるで届いていない様子だった。レイモンドのマイペースさがここまでとは助手であるセシリアにも見抜けなかった。悲観と呆れを通り越して、彼女の思考は凍り付いてしまった。

 窪みに嵌ったセシリアの手を中心にして、歪な赤い紋様が壁全体に映し出される。まるで目玉がこちらを見ているような不気味な図柄。彼女は恐れながらも、それから目を逸らすことが出来なかった。

「――っ!」

 セシリアの周りが赤黒いオーラに包まれる。悲鳴を上げた瞬間、彼女の体は濁流のような闇に呑まれた。



「これを見てくれセシリアくん!ここの岩石から石板と同じ成分が検出され―――。」

 レイモンドが振り返るとそこにセシリアの姿はなく、地面には彼女の背負っていたリュックサックだけが残されていた。

「セシリアくん……?」

 彼女の名前を呼ぶレイモンド自身の声だけが空間に木霊する。しん、と音のなくなった世界で彼はひとり立ち尽くしていた。





 体が浮遊しているような、無重力感。見渡す限りの暗黒。今の今まで眠っていたのか、茫然と立っていたのかはわからない。ただ、セシリアはこの場所に存在していた。

「ここは……。」

 少なくとも洞穴の中ではない――この世の場所かどうかも定かではなかった。宇宙、亜空間。違う次元の世界だと捉えた方がまだ納得できた。
 持っていた荷物はなくなっていたが、何故か腕の中にあの石板があった。

 終わりの見えない黒の世界でひとつだけ、赤く光る場所を見つける。目を凝らしてみるとそこには祭壇のようなものがあった。
 セシリアはまるで導かれるように祭壇の元へと歩き始める。彼女が一歩進む度、足元が光り輝き、ひとつの道になった。

 三段ほどの段差の上にある台座。その側面には双剣を手にした者が民衆に襲い掛かっているレリーフが刻まれていた。阿鼻叫喚の様は当時の凄惨さを生々しいまでに表現していた。震え、恐れ、嘆く人々の声がセシリアにも聞こえてくるようだった。石板に触れた時のように、頭に鈍い痛みが走り、立っていられなくなる。膝から崩れ落ち、彼女は頭を抱えた。

(苦しい…これは、戦争の記憶…なの?)

 セシリアの脳裏に流れ込んでくる恐怖と血の歴史。二本の剣は刀身が血で染まり、惨劇の血の雨を降らせる。禁忌を手にした剣の持ち主は、笑い泣きながら刃を振るう。狂っているのは世界か、自分なのか。

 セシリアの見上げた先、台座の上。十字架の上を交差するように二本の赤い剣があった。生き物の憎しみと悲しみを取り込み、魔の力を宿した圧倒的な力。
 それが彼女に囁く。『力が欲しいか』『ならば代償を』と――。

 纏わりつく邪悪な瘴気。せめてこの意識だけは手放さまいと、セシリアは唇を噛み堪えた。

「いらない…何もいらない……私は何も欲していません…!」

 噛んだ唇から、血が零れ落ちた。一滴の赤い血はこの亜空間に波を立て、水面が躍る様に広がっていく。

 手をつき、俯いていた視線の先で鏡のように瓜二つに映る自分の姿があった。鏡の中に映る自身の姿は湾曲し、幼き日の姿に形を変えた。セシリアは震えた。レイモンドに引き取られる前。父と母を失い、腫物のように親戚の家をたらい回しにされていた頃の疲れ切った顔をしていた。

 ――パパ、ママ。わたしのことだきしめて。いいこにしているから、おねがい。

 泣いてばかりいた自分。どうして今、こんな夢を見ているのか。幻影。偽物。そうだとわかっているのに、セシリアは振り払うことが出来なかった。


「わた…しは……。」

 蹲る彼女の体を、瘴気が繭のように包み込む。それは恐ろしいほどに優しく、セシリアの奥底に眠る悲しみも溶かしていくようだった。


(とても温かい…まるでパパとママに抱きしめられているみたい……。)

 彼女が胸に抱きしめていた石板が発光し、粒子となって彼女の体に吸収される。
 永遠の安らぎ。母の子宮にいる胎児のように。大きな力で守られている感覚があった。
 この上ない幸福感に包まれている。
 だが、その温もりが優しければ優しいほど、セシリアの頬を冷たい雫が通り過ぎる。ひとりの世界では人目を憚る必要がないからなのか、それとも目が覚めてしまえばこの安らぎともう二度と触れ合えないことを知っているからなのか。次から次へと涙が溢れ出して止まらない。咽び泣き、温もりにしがみついた。


『ひとりじゃない。だから、もう泣かないで、マスター。』


 誰かがセシリアの頬を伝う涙を、指先で拭った。
 薄く瞼を開く。朧げに人の形をしたシルエットがふたつ、浮かんでいた。

「あなたたちは…だあれ…?」

 意識が遠のいていく。はっきりと顔は見えなかったが、セシリアの声にふたつの影がにっと笑ったように見えた。
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