EP.1 マイ・マスター

 足をかける度、ギシギシと音を立てて軋む木造の階段を降りる。案の定、1階の電気はついていて昼間だと錯覚してしまうほど明るかった。暗がりから急に明るい場所に出たセシリアは目を細めながら、未だデスクで石板と睨み合っている彼に声をかけた。

「レイモンド先生。まだ起きていらっしゃったのですか。」
「この一文は大戦の武器についての記述かな…うん…実に興味深い。」
「先生!」

 もう一度セシリアが強く呼びかけると、彼はやっと彼女の存在に気が付いた様子でズレた丸眼鏡を直しながら、顔を上げた。

「ああ、セシリアくん。君が起きてきたということはもう朝か。」

 彼はヨルノズクのレイモンド。その道では名の知れた考古学者だ。生前、セシリアの父とも親交があり、身寄りのなかった幼いセシリアの引受人になってくれたひとでもある。現在セシリアは彼に師事し、助手をしながら両親と同じ考古学者を目指している。
 レイモンドの考古学に対する興味と愛は凄まじいもので、寝る間を惜しんで研究に没頭している日々だ。長い付き合いであるセシリアでさえも彼が眠っているところを見たことがなかった。その上、数日前に遺跡から発掘された石板がレイモンドの元に届いたのもあって、不規則な生活に益々拍車がかかっていたところだ。後ろで結われたゴールドの長い髪もだらしなく緩み、目元には一層濃い隈ができていた。

「い、いえ。今日は…目が覚めてしまったもので。」
「おや、悪い夢でも見たのかな?」

 レイモンドの指摘にセシリアは一瞬どきりとした。ジョークにしろ、偶然にしろ、彼の言っていることは見事に的中していた。事情を知っているレイモンドに今更隠すこともないとセシリアは小さく頷いた。

「はい。……とても恐ろしいあの日の夢を…。」
「!…そうか、それは辛かっただろう。軽率な発言だったよ。すまなかったね。」
「いいえ、大丈夫です。お気遣いいただきありがとうございます、先生。」
「あまり、無理をしてはいけないよ。セシリアくん。」

 彼女の見たものを察したレイモンドは柔らかな言葉を彼女に投げかけた。その言葉の端々から滲み出る優しさにセシリアは心から感謝した。心配してくれるひとがいる自分は幸せ者だ――と。


「先生こそ、少しはお休みになってください。お体に悪いですよ。」
「はは…それを言われてしまっては返す言葉もないね。」

 とはいえ、説得したところでレイモンドの探求心が易々と収まるものではないということぐらいセシリアは充分に知っていた。朝日が昇っても彼が机に向かっているのは目に見えている。苦笑するレイモンドを見つめながらセシリアは小さく笑った。

「それじゃあ、私もお手伝いしますね。」
「いいのかい?」
「はい。目も冴えてしまいましたし…。」
「それじゃあ、まず、コーヒーを淹れてくれるかな。味は――。」
「知っていますよ。ブラックですよね?」
「さすがセシリアくん。君は優秀な助手だな。」

 ブラックコーヒーは彼には欠かせない研究のお供だ。いつものことだったので自然と覚えていただけだったのだが、大げさにレイモンドに持ち上げられ、セシリアは気恥ずかしそうに視線を逸らした。





 カーテンの向こう側が明るくなり、隙間から爽やかな朝の日が差し込む。夜、起きてからセシリアはレイモンドと共に石板の解読に励んでいた。作業に没頭していてすっかり時間を忘れてしまっていたようだ。彼女の頭もウトウトと上下していた。

「わかったぞ!」

 突然、レイモンドが椅子を転がす勢いで立ち上がり、興奮した様子で声を荒げた。その声に驚き、セシリアの遠のいていた意識は現実へと引き戻される。


「これは3000年前の大戦の際、カロス側が使用していた武器について書かれているようだね。」

 3000年前の大戦。歴史学や考古学に精通する者の間ではそう呼ばれている、大きな戦いが古代カロスではあった。隣国との侵略戦争が絶えず、血で血を洗う戦争は数百年に渡って続いたと言われている。

 レイモンドは石板の古代文字をなぞる様に指差した。意識を集中させる彼の赤い瞳が、ぼんやりと発光する。


「『人々の間を渡り歩き、数多の命を斬り捨てた刀身は憎悪や悲しみを吸い取り、血で赤く染まった。
 双剣はやがて魔の力を宿し、持ち主に囁く。

 右手の剣が囁く[力が欲しいか]と。
 左手の剣が囁く[ならば代償を]と。

 恐ろしい力だ。だが、あの圧倒的な力に魅せられてしまえば、何を失っても構わないと思わせられる。

 我々は勝利の血の雨を降らせるこの双剣を【シューヴァサンギ】と名付けた。』」


 レイモンドが石板に書いてあった文章を読み終わると、辺りがしんと静まり返った。
 武器は武器でも書かれている内容から察するに、それは曰くつきの“魔剣”のことのようだった。考古学に携わっていれば呪詛というような宗教的、霊的といったような関係に遭遇することは珍しいことではない。寧ろ古代の人々の暮らしや考えを知るために、それらは重要な資料となる。しかし、まだまだ考古学者としては未熟なセシリアには不気味だと思う気持ちは拭えなかった。

「…なんだか恐ろしいですね。本当にこんな双剣が実在したのでしょうか。」
「ああ、恐らくね。解読できた時、赤い双剣に精神を支配された戦士の“ヴィジョン”が浮かんだ。」
「レイモンド先生、さすが、ですね。」

 セシリアが感心するとレイモンドは照れ臭そうに微笑し、まだまだと謙遜した。ヨルノズクである彼はエスパーの力を使って、遺物から人々の思念の残滓と繋がることができた。思念と繋がることは精神的負荷も大きく、容易に出来ることではない。レイモンドが考古学者として名が知れているのも、その能力が優れているからでもあった。

「尤も、信憑性を高めるには更なる検証が必要だけれど――。」
「はい。カロスが強大な兵器を持っていたということは数多くの文献にも残されていましたが…資料は戦火で破損してしまったものが多いですから。こうして彼らの状況を知れるものはとても貴重ですね。」

 セシリアの言葉にレイモンドは同意するように頷き、興奮冷めやらぬ様子で、益々熱心に石板に見惚れていた。余程嬉しいのか彼の目は徹夜の疲れも感じさせないくらい、爛々と輝いていた。


「いやあ!しかしまたひとつ、古代カロスの景色を知ることが出来たというわけだ!」

 石板を持ち上げ、レイモンドは小躍りした。まるで恋人と巡り合ったかのように軽快にターンする。

「あ、あの…先生……。はしゃぐ気持ちはわかるのですが…その、もう少し落ち着いた方が……。」

 長年の経験からセシリアは嫌な予感がしていた。機嫌がいいのはいいことだが、レイモンドは考古学に関わることになるとしばしば周りが見えなくなることがある。特に難題を解決したあとのような達成感に浸っているときが一番危険だった。喜びに浸って、本人が疲労を忘れたつもりでいても体には負荷がかかっており、いきなり気を失ってしまうことはしょっちゅうあった。…必ず、何かをやらかすのだ。

「落ち着いてなんかいられないさ!ああ、太古のロマン……。もっと彼らの時代とお近づきになりたい!」

 だが、セシリアの言葉は舞い上がっているレイモンドには届かなかった。これも彼女には経験済みの反応だった。
 レイモンドが石板を天に掲げる。――と、その時、勢い余って彼の手からするっと石板が抜け落ちるような感覚があった。

 あっ、と息を呑んだ時にはもう遅く、石板はフローリングの床に向かって真っ逆さまに落ちようとしていた。

「危ないっ!」

 夢うつつのようにぼんやりとしているレイモンドを他所に、セシリアは逸早く石板に手を伸ばした。しかし、間に合わず、石板は彼女の指を掠めただけだった。
 このままでは貴重な資料が破損してしまう。なんといっても方々の関係者に合わせる顔がない。謝り倒しの未来がちらりと過って、セシリアは気が遠くなった。


 地面に落ちる寸前、不意にセシリアの頭に微弱だが痛みが走った。すると同時に思いもよらぬことが起きた。
 ――石板が重力に逆らうように宙に浮いたのだ。彼女は目を疑い、見開く。動揺のあまり身動きが取れないでいる間に、石板を中心に黒い靄が広がり始める。窓から差し込む朝の光もたちまち闇に遮られた。





「な…なんだ…?」

 さすがのレイモンドも浮かれたままではいられず、辺りに充満する禍々しいオーラに目を覚ました。
 石板は天井にほど近いところまで浮遊すると、ぴたりとその場に留まった。石板に目があるはずはないのに、何故かセシリアはこちらを見られているような気分になった。しかし、背中を這う悪寒に逃げ出そうとしても、体が動かない。靄と共に広がっていく邪気に息を呑む。


『力を欲する者よ。全てを棄て去りし地で、相見えん。』

 セシリアの頭の中に直接響いた声のせいか、今度はうっと顔が強張る程の激痛が頭に走る。
 状況を分析する冷静さはなく、セシリアは騒めく胸の音を聞きながら、宙に浮かんだ石板を仰ぎ見ることしかできない。彼女の視線に合わせて、石板から発せられる闇はぎらぎらと深みを増す。それは彼女を呼んでいるようにも見えた。 


 僅かな時間、だが、硬直は数時間に渡って続いたように感じられた。
 不意に石板は吸い寄せられるように彼女の腕に収まる。部屋に漂っていた靄も薄らぎ、やがて消滅した。張りつめていたプレッシャーから解放されたセシリアは全身から力が抜け、その場に足を崩す。やっとまともに呼吸することができるようになった。


「一体…今のは……。」

 現実とは思えない摩訶不思議な状況に彼女は呆然とする。白昼夢でも見ていたようだ。未だ黒い靄が視界にこびり付いているようで彼女はぼんやりと石板に視線を落とすことしか出来なかった。



「す……すごいじゃないか!セシリアくんッ!!!」
「……え?」


 レイモンドは彼女とは正反対の反応を見せた。高揚する気持ちを抑えきれないようで瞳を輝かせ、鼻息を荒くさせている。セシリアの肩をがっしりと掴み、何度も頷きながら感心した様子で彼女を見つめる。自分との温度差にセシリアは困惑した様子で頬を引き攣らせた。おまけに顔も近い。

「僕にもテレパシーで聞こえたよ!石板は君を呼んでいるんだ!そうに違いない!」
「そんな…まさか……。」

 ポケモンの彼には今の超常現象もすんなりと受け入れられたようだったが、人間のセシリアには未だ信じられないところがあった。石板が声を発するなど有り得ない、疲れから幻覚や幻覚を見聞きしてしまったのだと思った方が気持ちは楽だった。
 けれどその道に明るいレイモンドがそう言うのだから、彼女も先ほどの状況を見て見ぬふりをすることはできなかった。

「充分に有り得ることだよ!いいかい、物には思念が宿るものなんだ。この“思い”という感情は凄いものでね、憎しみ、喜び、悲しみ、怒り…それらは時に現実で不可思議な物事を引き起こすことだってある。そして、強い思念を持つ者同士は引き合うこともあるんだ。」
「でも私は強い思いだなんて何も……。」
「何を言っているんだい!あるじゃあないか!ひたむきに考古学を愛し、探究する気持ちがね!」
「は、はあ……。」

(…でも、それならレイモンド先生の方が選ばれるべきだと思うのですが……。)

 何故自分のような平凡な考古学者見習いがと疑問に思った。が、一方で、やはりレイモンドがそう言うのならそうなのだろうという思いと、現に石板が手元に戻ってきたということもあり、彼女は深く考える間もなく勢いに流され、妙にすんなりと納得してしまった。


「“全てを棄て去りし地”とはどこを指しているのでしょうか?」

 少し気持ちも落ち着き、セシリアは話題を変え、テレパシーで聞こえた声についてレイモンドに投げかける。わざわざ語りかけてくるぐらいなのだから、石板に関係する重要なことが隠されているのは間違いないだろう。彼は彼女から手を放し、顎に手を当て、少し間をおいてから口を開いた。

「――ひとつ、思い当たる場所がある。……そうだ、早速行ってみようじゃあないか!」

 さもいい考えを思いついた!という口振りのレイモンドにセシリアは目を点にさせた。そして、だらだらと嫌な汗が額から溢れ出すのを感じる。

「えっ、でも先生…今日は午後から、ポケモン研究所で講演の予定が……。」
「キャンセルだ!善は急げってね!」
「ふ、ふええっ~~!?」

 案の定というべきか、突発的すぎるレイモンドの無茶振りにセシリアは悲鳴を上げた。…だが一度こうなってしまうと目的を達成するまで彼を止める術はない。あれこれとレイモンドに言いたいことが腹の底から沸き上がるが、彼の気持ちは既に講演よりも探索に向いており、壁にかけてあった探検用のリュックサックを取り出し、探索の準備を始めていた。
 …もうこれは駄目だ、最後まで付き合うしかないと観念した。はあ、という大きな溜息を吐き、ポケモン研究所に謝罪の電話を入れるため、セシリアは重苦しい気持ちで受話器に手をかけた。
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