悪夢の始まり

 その夜は冷たい白の粒がさらさらと天上から降り注いでいた。連日の雪で草むらや道は白く染まっており、闇に染まった夜の色とのコントラストにより一際、存在感を放っていた。

 女の子は逸る気持ちを抑えきれず、亜麻色の長い髪を靡かせながらビニル床の廊下を走っていた。小さな腕には彼女にそっくりな顔をしている、“セシル”と名付けたお気に入りのお人形さんを抱いて。

 やがて女の子の目の前には彼女の背丈の数倍はある扉が立ちはだかる。扉の横の札には“第1研究室”と書かれていた。女の子にはここに何度か足を運んだことがあり、その記憶を頼りに扉の前で手を翳す。認証画面が出て“OK”の文字が浮かぶ。すると彼女を導くように大きな扉が自動で開いた。

「パパ、ママ!わたし、おむかえにきたのよ!」

 研究室では大きな声を出してはいけないと言われていたが、聞き分けのいい彼女でも今日ばかりは高揚する気持ちを抑えられなかった。今日はクリスマス、そして、女の子の誕生日だったのだ。普段は忙しくて会えない家族がみんなで一緒に過ごせる尊い一日。大好きなパパとママといられる。笑顔にならずにはいられない日だ。


 研究室に入ると中央には巨大な培養槽があり、その中には繭のようなものが浸されていた。繭から溢れる赤黒いオーラは培養槽の中で禍々しくオーラを放っていた。初めて見る異様な物体に女の子は不思議そうにそれを眺めていた。


「――駄目だ、逃げろッ!セシリアッ!」

 パパの声がしてセシリアはぱあっと顔を弛ませる。しかしいつもは優しい笑顔を見せてくれるパパが、見たことのないような険しい形相をしていて。剣幕に驚いた彼女は表情を固くして、その場に留まった。彼女を戸惑わせたのはそれだけではない。時々女の子の遊び相手にもなってくれていた他の研究員が、パパとママの体を数人で押さえつけていたのだ。
 何が起こっているのか幼い女の子には理解できなかったが、その異様さだけは感じとって、怖くなった彼女はセシルを抱きしめる力を強くした。

 女の子に気づいた研究員が数人、彼女を追い詰めるように近寄ってくる。女の子は覚束ない足取りで後退するが、あっという間に大人達に囲まれてしまう。
 …研究員が女の子に手を伸ばす。女の子は震えながら目を瞑った。

 ―――その時、培養槽の繭が黒く光り、高密度の光線を周囲に放った。耳を劈き、切り裂くような、ガラスが割れる音。容器に入っていた培養液が飛び散り、床に広がっていく。

 女の子に注がれていた視線は一斉に繭に向く。彼らに浮かんでいたのは恐れではなく、その物体の破壊力に興奮する不気味な笑み。あちらこちらで感嘆の声が漏れ、狂気じみた拍手が湧いた。

 だがそれも束の間、再び大きな爆風が起こる。慌てて研究員がパソコンにデータを打ち込むが衝撃で繭を制御していたシステムは破壊され、その行為は無意味なものとなった。

 制御する力を失った繭は暴走し、資料棚や実験機器、壁、天井を次々に破壊していく。それはまるで繭が意思を持ち、怒っているようにも見えた。
 緊急事態を伝えるサイレンの音が鳴り響き、そこでやっと彼らは事の重大さに気がついた。揺れる地盤の中で躓きながら逃げ惑う研究員。悲鳴。研究室を照らすライトも弾け飛び、辺りは真っ暗になる。だが、その暗闇よりも繭の放つ黒いオーラは更に深い色をしていた。暗黒の暴風に充てられた研究員達は魂を吸われたように身動きが取れなくなり、そのまま落下した天井のコンクリートの中に消えていった。

「パパ、ママぁ!」

 視界は粉塵で覆いつくされ、女の子は泣き叫びながら二人の姿を探した。歩くこともままならず何度も転倒し膝を擦りむきながら、小さな彼女は闇の中を彷徨った。


 ――少し早いけれど、お誕生日おめでとう。愛しているよ、僕たちの可愛い娘。
 お仕事が終わったら、うんと豪華なパーティーをしましょうね。


 今朝、仕事に出かける前のパパとママの言葉がセシリアの脳裏に蘇る。今夜はパーティー。みんなで過ごせる素敵な日―――。
 けれど今は二人の声を思い出すほどに女の子の大きな碧い瞳からは止め処なく涙が溢れ出す。

 嵐のような黒い風に吹き飛ばされ、小さな体は瓦礫の上に叩きつけられる。痛みと空間に漂う黒い霧で彼女の意識は朦朧としていた。力も入らず、女の子が抱いていたセシルも彼女の腕を離れた。

「セシ、ルッ…!」

 ぼやける視界で女の子は必死にセシルに手を伸ばす。あと数センチというところなのに、その僅かな距離が、彼女とセシルを永遠の別れに導いた。セシルは彼女の目の前で暴風に吹き飛ばされ、裂けた地面に食らわれてしまった。

 小さな悲鳴を絶望の赤い光が覆う。それは研究所を飲み込み、漆黒の天を破るように広がる。時間が止まり、音もなく。思い出も愛も家族も、全てが爆発とともに吹き飛んだ。

 何もかも消えてゆく―――その最中「セシリア」と自分の名を呼ぶ、優しいパパとママの声に包まれたような気がした。





 意識が覚醒し、はっとセシリアは目を開いた。秋も深まり、朝晩は冷え込むはずなのに体は季節外れなほど汗だくだった。幼いころより更に伸びた髪も汗で首筋に張り付いている。

「……はあっ、はあっ…。」

 荒れる呼吸を整えながら、思い出される記憶の残像にセシリアは身震いしていた。全身に広がる疲労感が悪夢に魘されていたことを証明している。

(暫く見ていなかったのに……。どうして…。)

 あの日のフラッシュバック。彼女にとっては忘れてしまいたい、しかし忘れることができない残酷な記憶だった。
 ――彼女の父と母は幼い彼女を庇うようにして最期を迎えた。二人が命を懸けて守ったセシリアは奇跡的に一命を取り留め、あの日、唯一の生存者となった。
 世間では研究の最中の不幸な事故として片づけられ、やがて時間と共に忘れ去られた。しかし彼女の中ではただの事故で済まされるものではなく、時間が経ってもその傷が癒えることはなかった。

 静かな部屋に響く、時計の秒針の音にさえも追い立てられるような気持ちになる。午前3時。起きるには早すぎる時間だ。再び横になり眠りにつこうとするが、当然、眠れるはずもなく。喉の渇きを思い出し、彼女はカーディガンを羽織って、ベッドを抜け出した。
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