shot.12 金の楔
「はぁ…。」
鏡に映っている自身の浮かない顔を見て、アンヌはまた、重い溜息を吐く。ロビーの混乱も嘘のように、楽屋で過ごすひとりの時間は穏やかに流れていた。
公演が終わっても、心臓は未だ忙しなく動いている。緊張の余韻、というにはあまりにも息苦しかった。ーー否、この胸の痛みの理由は既にわかっている。セリフを忘れ、心の底から溢れた言葉によって、彼女は自分でも気付かぬうちに抱いていた、彼への想いを自覚してしまったのだ。
『私は……あなたを…あなたのことを、愛しているから!』
素晴らしい演技だと称賛を受けた独白のシーン。あれは海兵をグルートに見立てて、グルートのことを想い、言葉を発していたのだ。それが作り物ではないということはアンヌが一番わかっていた。
「愛して…いるから。」
どくどく、と鼓動は煩いぐらいに脈を刻む。悩ましく頬を押さえると、ほんのりと熱を帯びていた。着替えるのも忘れて、ステージの衣装のまま、ぼんやりと考え込んでしまう。
思い返せば、これが初めてではなかった。グルートのことを思うと胸が苦しくて、無性に切なくなり、激しい熱が内に満たされる…。そんなことが度々あり、時には、彼と物語の王子様を重ね合わせてしまったこともあった。
(この気持ちが…恋なの…?)
記憶にあるグルートの表情を思い浮かべるだけで、気恥ずかしくなり、アンヌは両手で顔を覆った。怒った顔も笑顔も、彼のものだと思うと全てが愛おしくてたまらない。今までとは彼の見え方が変わってしまい、どこおかしくなってしまったんじゃないかと、戸惑いから自責の念すら湧いてくる。
『温かくて、優しい色。それは素敵な気持ちだから。…だから、捨てようとしなくていいんだよ。ありのまま、こうやって、優しく受け止めてあげて。』
あの時既に、自分の内なる感情をソフィアは見抜いていたのだろうかと、アンヌは思い返す。…グラにも冗談混じりで『惚れとるなぁ~?』と揶揄われていたこともあった。
周りからもわかるぐらいグルートに夢中になってしまっていたのかと思うと、アンヌは益々恥ずかしくなって、鏡に映る顔がオクタンのように真っ赤に染まった。
途切れることのないため息を、もう一度溢しかけた時。唐突に楽屋の扉をノックする音がした。思考に耽っていたアンヌは心臓が飛び出そうなほど驚き、息を潜める。
(もしかして、みんなが来てくれたのかしら。…だとしたら、グルートもそこに…。)
かっと、身体中の熱が沸騰する。もし彼がいるのだとしたら、一体どんな顔をして会えばいいのだろう。とてもではないが、平常心でいられる気がしない。この熱を冷ますには時間が足りなかった。
(だからと言って、無視をするのは失礼だわ…。)
落ち着きのない様子でドアと鏡を交互に見つめる。小さく息を吸ってから、恐る恐る、ドアの側まで体を近づけた。
「ご、ごめんなさい!今少し取り込んでいて…また後で来てくれないかしら?」
嘘をつくのはいい事ではないと知っていたが、心が乱れているこの状態では会話もままならない気がして、グルートとの対面を回避しようとした。少しでも間を持たせて、心の準備をしたかったのだ。
「ご安心ください。お時間は取らせませんので。」
(ーーえ?)
そこにグルートがいる、とばかり思い込んでいたアンヌは返ってきた声に拍子抜けした。
扉の向こうにいるのはーーーグルートではない。バリントンボイスから推察するに、男性の声だ。見知った仲間達の声ではなかったが、彼女にはその甘く、蠱惑的な音の響きに聞き覚えがあった。
返事もドアも開けることもできず、アンヌが狼狽えていると、彼は応答がないことを了承と受け取り、彼女が動くより先に素早く楽屋のドアを開けた。
◇◆◇◆◇
真っ先にアンヌの目に入ってきたのは、情熱を体現したように赤い、沢山の薔薇。豪華な花束に彼女は驚き、差し出されるがまま、反射的に受け取った。
「花は可憐な女性によく似合う。…尤も、あなたの美しさには敵いませんがね。」
「あ、ありがとうございます…。」
お辞儀をすると、薔薇の甘い香りが鼻腔につく。本物の女優になったような扱いに戸惑いつつも、彼の上手い口に乗せられ、顔を綻ばせた。
顔を上げて、来訪者の彼に向き直る。額に輝く赤い宝石。煌めく金の髪。ベージュのロングコートがよく似合う、スレンダーな体型。加えて端正な顔立ち。俳優かモデルか、何にしても一度見たら決して忘れることはできない浮世離れしたオーラの持ち主だ。現にアンヌはその顔を見て、すぐに彼のことを思い出した。
「あなたはヒウンシティでお会いした…。」
「おや、嬉しいな。覚えていてくださったのですか。私も公演を拝見して驚きましたよ。まさか、あの可憐な女性がミュージカルホールの女優さんだったとは。…素晴らしいステージでした。」
初めてヒウンシティに足を運び、仲間とはぐれてしまった時。彼はアンヌが人混みに飲まれ、転倒しそうになったところを助けてくれた例の紳士だった。
「その節はありがとうございました。まさか、あのとき、助けていただいた方に公演を見て頂けるなんて。」
「ええ。本当に運命的だ。」
「お名前を伺っても?」
再会に感動しつつ、改めてヒウンシティでの出来事にお礼を言いたくて、アンヌは彼に名を尋ねる。ーーと、言葉を紡いでから、彼女は人に聞くときはまず自分からというルールを思い出して、はっと慌てた。
グルートとの対面ではなかったことにとりあえず安堵し、つい気が緩んでしまっていたようだ。
「あっ、ごめんなさい…。私から言うべきでした。ええと…。」
「ああ、構いませんよ。素敵な女性に興味を持って頂けるのは男として、最高の誉れですから。」
彼はコートの内ポケットから名刺入れを取り出し、手早く一枚取り出すとそれをアンヌに差し出した。
黒の台紙に金色の文字で書かれた、高級感のある名刺のデザイン。株式会社ジョバンニ代表取締役社長…という、立派な肩書きが目についた。もしかすると、ミュージカルホールに関係がある会社のひとなのかもしれない。
彼は一礼し、アンヌの手を取る。以前別れ際にしたように、再び彼女の手の甲に口付けした。
見上げた彼の視線と合い、色を含んだサディスティックな瞳にアンヌは心臓を鷲掴みされるような、妙な心地を抱いた。
「…改めまして、私はギルバートと申します。あなたと再会できた幸運に、感謝を込めて。」
「え、ええ…こちらこそーー。」
名乗り終わった彼の手が離れ、アンヌはそれに何故か安堵していた。
わからない…けれど、さっきの彼の眼差しが脳裏に焼き付いて、無性に不安な気持ちが湧き上がる。体は自然と彼から距離を取ろうと一歩後退していた。
鏡に映っている自身の浮かない顔を見て、アンヌはまた、重い溜息を吐く。ロビーの混乱も嘘のように、楽屋で過ごすひとりの時間は穏やかに流れていた。
公演が終わっても、心臓は未だ忙しなく動いている。緊張の余韻、というにはあまりにも息苦しかった。ーー否、この胸の痛みの理由は既にわかっている。セリフを忘れ、心の底から溢れた言葉によって、彼女は自分でも気付かぬうちに抱いていた、彼への想いを自覚してしまったのだ。
『私は……あなたを…あなたのことを、愛しているから!』
素晴らしい演技だと称賛を受けた独白のシーン。あれは海兵をグルートに見立てて、グルートのことを想い、言葉を発していたのだ。それが作り物ではないということはアンヌが一番わかっていた。
「愛して…いるから。」
どくどく、と鼓動は煩いぐらいに脈を刻む。悩ましく頬を押さえると、ほんのりと熱を帯びていた。着替えるのも忘れて、ステージの衣装のまま、ぼんやりと考え込んでしまう。
思い返せば、これが初めてではなかった。グルートのことを思うと胸が苦しくて、無性に切なくなり、激しい熱が内に満たされる…。そんなことが度々あり、時には、彼と物語の王子様を重ね合わせてしまったこともあった。
(この気持ちが…恋なの…?)
記憶にあるグルートの表情を思い浮かべるだけで、気恥ずかしくなり、アンヌは両手で顔を覆った。怒った顔も笑顔も、彼のものだと思うと全てが愛おしくてたまらない。今までとは彼の見え方が変わってしまい、どこおかしくなってしまったんじゃないかと、戸惑いから自責の念すら湧いてくる。
『温かくて、優しい色。それは素敵な気持ちだから。…だから、捨てようとしなくていいんだよ。ありのまま、こうやって、優しく受け止めてあげて。』
あの時既に、自分の内なる感情をソフィアは見抜いていたのだろうかと、アンヌは思い返す。…グラにも冗談混じりで『惚れとるなぁ~?』と揶揄われていたこともあった。
周りからもわかるぐらいグルートに夢中になってしまっていたのかと思うと、アンヌは益々恥ずかしくなって、鏡に映る顔がオクタンのように真っ赤に染まった。
途切れることのないため息を、もう一度溢しかけた時。唐突に楽屋の扉をノックする音がした。思考に耽っていたアンヌは心臓が飛び出そうなほど驚き、息を潜める。
(もしかして、みんなが来てくれたのかしら。…だとしたら、グルートもそこに…。)
かっと、身体中の熱が沸騰する。もし彼がいるのだとしたら、一体どんな顔をして会えばいいのだろう。とてもではないが、平常心でいられる気がしない。この熱を冷ますには時間が足りなかった。
(だからと言って、無視をするのは失礼だわ…。)
落ち着きのない様子でドアと鏡を交互に見つめる。小さく息を吸ってから、恐る恐る、ドアの側まで体を近づけた。
「ご、ごめんなさい!今少し取り込んでいて…また後で来てくれないかしら?」
嘘をつくのはいい事ではないと知っていたが、心が乱れているこの状態では会話もままならない気がして、グルートとの対面を回避しようとした。少しでも間を持たせて、心の準備をしたかったのだ。
「ご安心ください。お時間は取らせませんので。」
(ーーえ?)
そこにグルートがいる、とばかり思い込んでいたアンヌは返ってきた声に拍子抜けした。
扉の向こうにいるのはーーーグルートではない。バリントンボイスから推察するに、男性の声だ。見知った仲間達の声ではなかったが、彼女にはその甘く、蠱惑的な音の響きに聞き覚えがあった。
返事もドアも開けることもできず、アンヌが狼狽えていると、彼は応答がないことを了承と受け取り、彼女が動くより先に素早く楽屋のドアを開けた。
真っ先にアンヌの目に入ってきたのは、情熱を体現したように赤い、沢山の薔薇。豪華な花束に彼女は驚き、差し出されるがまま、反射的に受け取った。
「花は可憐な女性によく似合う。…尤も、あなたの美しさには敵いませんがね。」
「あ、ありがとうございます…。」
お辞儀をすると、薔薇の甘い香りが鼻腔につく。本物の女優になったような扱いに戸惑いつつも、彼の上手い口に乗せられ、顔を綻ばせた。
顔を上げて、来訪者の彼に向き直る。額に輝く赤い宝石。煌めく金の髪。ベージュのロングコートがよく似合う、スレンダーな体型。加えて端正な顔立ち。俳優かモデルか、何にしても一度見たら決して忘れることはできない浮世離れしたオーラの持ち主だ。現にアンヌはその顔を見て、すぐに彼のことを思い出した。
「あなたはヒウンシティでお会いした…。」
「おや、嬉しいな。覚えていてくださったのですか。私も公演を拝見して驚きましたよ。まさか、あの可憐な女性がミュージカルホールの女優さんだったとは。…素晴らしいステージでした。」
初めてヒウンシティに足を運び、仲間とはぐれてしまった時。彼はアンヌが人混みに飲まれ、転倒しそうになったところを助けてくれた例の紳士だった。
「その節はありがとうございました。まさか、あのとき、助けていただいた方に公演を見て頂けるなんて。」
「ええ。本当に運命的だ。」
「お名前を伺っても?」
再会に感動しつつ、改めてヒウンシティでの出来事にお礼を言いたくて、アンヌは彼に名を尋ねる。ーーと、言葉を紡いでから、彼女は人に聞くときはまず自分からというルールを思い出して、はっと慌てた。
グルートとの対面ではなかったことにとりあえず安堵し、つい気が緩んでしまっていたようだ。
「あっ、ごめんなさい…。私から言うべきでした。ええと…。」
「ああ、構いませんよ。素敵な女性に興味を持って頂けるのは男として、最高の誉れですから。」
彼はコートの内ポケットから名刺入れを取り出し、手早く一枚取り出すとそれをアンヌに差し出した。
黒の台紙に金色の文字で書かれた、高級感のある名刺のデザイン。株式会社ジョバンニ代表取締役社長…という、立派な肩書きが目についた。もしかすると、ミュージカルホールに関係がある会社のひとなのかもしれない。
彼は一礼し、アンヌの手を取る。以前別れ際にしたように、再び彼女の手の甲に口付けした。
見上げた彼の視線と合い、色を含んだサディスティックな瞳にアンヌは心臓を鷲掴みされるような、妙な心地を抱いた。
「…改めまして、私はギルバートと申します。あなたと再会できた幸運に、感謝を込めて。」
「え、ええ…こちらこそーー。」
名乗り終わった彼の手が離れ、アンヌはそれに何故か安堵していた。
わからない…けれど、さっきの彼の眼差しが脳裏に焼き付いて、無性に不安な気持ちが湧き上がる。体は自然と彼から距離を取ろうと一歩後退していた。