shot.11 君に決めた!?

 最初にアンヌの異変に気づいたのは、次の出番に備え、舞台袖から彼女を見守っていたサイルーンだった。予定されていた間を過ぎても、セリフはおろか微動だにしない彼女に違和感を覚えたのだ。

(まさか…セリフを…。)

 練習を重ねても極度の緊張とプレッシャーによって、調子を崩し、ミスが起こるということはあり得る。ましてやアンヌは演劇の経験がない初心者だ。しかし、今の独白のシーンでは他の出演者はおらずアドリブで彼女をフォローするのは難しい。
 控えている他の役者達や関係者にも不安と焦りの色が見える。どうにかしてアンヌに次のセリフを伝える方法はないかと、慌ただしく動いている者もいた。

「みんな、落ち着いて。」
「しかし…このままでは。」
「…アンヌちゃんを、信じましょう。」

 だが、誰よりも彼女の側で演技を指導してきたサイルーンは確信し、むしろ、これはチャンスだと思っていた。練習の時、アンヌが見せた、恋焦がれる乙女の姿。彼女は自覚がないようだったが、あれは“演技ではない”とサイルーンは気づいていた。
 演技の素人であるアンヌを輝かせる方法ーーそれは嘘偽りのないアンヌの心から溢れ出すリアルな声。娘の仮面を外し、“本当”の恋する乙女の姿を見せるしかない。サイルーンがリスクを負い、素人の彼女を起用したのはそれを見抜いていたからだった。


 辺りは暗闇。世界から取り残されたような寂寥感がアンヌを襲う。心が乱れて、足に力が入らず、膝から崩れ落ちた。
 どうすればいいかわからない。焦りと不安が満ち溢れる。


『待ってたぜ、その言葉。』

 途方に暮れるアンヌの頭の中に、ふと、彼女がよく知る声が響いた。
 屋敷の外に出たいと、助けを求める彼女の背を押したグルートの声だ。いつだって彼は側に居てくれて、今もこの会場のどこかで見守ってくれている。そう思うだけで、ほっと安堵し、勇気づけられるような力が湧き上がってくる。

 彼を思い、張り詰めていた緊張の糸が少し緩んだお陰なのか、アンヌははっと、気付かされる様に思い出した。
 彼をエリート海兵役だと思って演技をしてみてーー練習の時にサイルーンにそうアドバイスされ、実演した際に、台本通りでないセリフと演技だったが大絶賛してもらったことを。
 その演技をさせた彼女の意図も、本番で上手くできるかどうかも、わからない。だが、セリフを忘れてしまった今はそうするしかないと、アンヌは決心した。

(本当、あなたには頼りっぱなしだけれど。…私に力を貸して、グルート。)

 すっと息を吸い、胸元を押さえる。衣装の下にはグルートから譲り受けた赤いペンダントを忍ばせていた。


(…アンヌ…?)

 まさか舞台に出演しているときまで身につけているなど、観客席にいるグルートには知る由もなかったが、その石はまるで互いの想いを導くかのように、僅かな“心の揺れ”として相手に知らせた。彼女に名前を呼ばれた気がして、彼は目を見張る。ステージに立つ彼女から目が逸らせなくなった。



「…あなたの姿をずっと追いかけていたわ。」


 台本にはないセリフをアンヌが喋り始め、裏方の役者達は驚き、顔を見合わせる。まさかアドリブで演技をするつもりなのか、と予想外のことに騒ついた。…ただひとりサイルーンを除いて。
 彼女はスポットライトに照らされたアンヌの姿をじっと見つめて、頷く。


 もし、物語の娘の様に自分もグルートと離れ離れになってしまったらとアンヌは考える。
 彼に二度と会えないと知ったら、自分はどう思うか、どうするのか。


「あなたを想わない日はたった一日だって無かった。…一目でもいいから、会いたくて堪らない。」

 頭で考えずとも、すらすらとセリフが溢れる。脳裏に過ぎるグルートとの思い出が、切なく揺れ動く。
 不機嫌そうに顔を顰める顔、悪態をついて悪い笑みを浮かべる顔、ーー真っ直ぐな瞳で、守ってくれる彼の勇姿。いつだって彼に支えられてきた。


「お願い、私の傍にいて。あなたが傍にいないと、駄目なの。」

 いつか、物語の娘の様にグルートとも別れてしまう日が来るのだろうか。そんな予感を抱いて、アンヌは体が震えた。

(ーー嫌、)

 心が真っ先に拒絶していた。我が儘な子供のように、むきになり、必死に抵抗する。

 心の叫びは、彼女の目から溢れ出し、頬を伝い流れ落ちる。
 スポットライトの光を掴む様に、彼女は天に手を伸ばす。暗闇に差す、たった一筋の光が、彼の様だと思いながら。


「私は……あなたを…あなたのことをーーー」

 そしてアンヌは自然と溢れ出たセリフによって、自身の中に眠っていた熱の正体を知ることになる。グルートのことを思うと感じる胸の高鳴りも、高揚感の理由も。

 いつからだったのだろうーーもしかすると、最初から、彼と出会ったその時から始まっていたのかもしれない。


 スポットライトの光が消え、次にアンヌが煌々と光を浴びた時、アンヌは妖精がかけた魔法で海のように澄んだ、美しい藍色のドレスを身に纏っていた。

 海の妖精の力で青年が乗っていた船に舞い降りた娘は、愛しい彼と感動の再会を果たす。
 ふたりは困難を覚悟しつつも、自らの幸せを選び、旅に出ることを決意する。

 海に沈む美しい夕日を眺めながら、舞台は静かに幕を引いた。

◇◆◇◆◇


 ブラボー、という喝采。輝かしい新星に会場が沸き、いつまでも拍手が鳴り止まなかった。まさに賞賛の嵐を体現したような様相だ。

 ーーしかし、それはあくまでも普通の観客に限ってはの話。素人が大コケする様を指を指して嘲笑する腹積りでいた男は、余裕綽々の笑みを崩し、口元を引き攣らせながら青ざめた顔をしていた。

「な、なんということだ…これでは私の計画が、せっかくの根回しも水の泡……。」

 どう見ても失敗する可能性しかなかった舞台を、素人であるただの少女が一気に形勢を跳ね返してしまった。
 滑稽なまでに落胆する彼を横目で見、金髪の男は小さく笑った。ふたりは協力関係にある様だが、金髪の男の方には絶望の色は見られない。むしろ、どこか楽しむ様な嬉々とした雰囲気すら感じられる。

「まあまあ、そう気を落とさず。ネガティブな感情に支配されては、見えるもの全てがつまらない景色になってしまいますよ。」
「しかし、これでは…。」
「ーー私は言ったはずですがね。幕切れまではわからないと。」

 金髪の男が何を言っているのか、彼にはわからず、間の抜けたような顔をするばかり。公演は幕が下り、成功に終わった。会場の高揚ぶりを見れば、その事実は覆しようがない。
 だが、彼は笑みを絶やさない。それは男への嘲笑か、勝利への確固たる自信からくる余裕なのか。
 金髪の男は音も立てず、軽やかに席を立つ。彼の額の赤い宝石が、ホールの照明に照らされ反射した。

「どちらへ?」
「…ショーはまだ終わっていない、ということです。」

煌びやかなベージュのロングコートをばさっと翻しながら、彼は男にも聞こえない声で呟く。…お楽しみはこれからだ。と。彼のにこやかな顔つきが、一瞬、狂気を纏い、歪んだ。
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