shot.11 君に決めた!?
ホールは静まり返り、会場の視線は一斉にステージに向けられた。
注目を一身に集めるアンヌは観客の数に圧倒されて、狼狽えそうになったが、観客は“ラッキー”と思えばいいという仲間のアドバイスを思い出し、なんとか視界から意識を逸らす。
落ち着いて、と心に念じて。
すぅ、と息を吸い、アンヌは何度も練習してきた音を、丁寧に歌い出した。
彼女の歌声がホールに響く。しかしそれはアンヌであって、既にアンヌではなかった。今の彼女は両親を失い、港の酒場で住み込みながら働く、健気な娘。娘は自らに降りかかる不幸と貧しさに苦しみながらも、真っ直ぐに生き、清らかな心を持っている。
何度も縫い直し、つぎはぎだらけになったワンピースを纏う見窄らしい格好。けれど彼女が一度歌い出せば、まるで天使のような優美な声が辺りに広がっていく。
彼女にとって歌は束の間の休息のようなものだったが、彼女と同じように貧困の中で生きている街の子供達もその美声に安らぎ、胸を躍らせた。その上、自身の生活も決して裕福とはいえないのだが、彼女は集まった人々にパンを分け与える慈悲深さもあり、周囲の人々にとってまさに女神のような存在だった。
ーーそんなある日。いつものように手のかかる荒くれ者達が多く集う酒場で、給仕の仕事を終え。埠頭の外れで歌を歌っていると店で見た船乗りらしき酔っ払いが、彼女に迫った。
「おい、遊ぼうぜ。姉ちゃん。」
「嫌よ!離して!誰か、誰か助けてください!」
彼女が助けを求めるも、海賊のようなガラの悪い、しかも屈強なガタイの男に刃向かおうとするものは誰もいない。見て見ぬふりをして、足早に過ぎ去っていく。
そこへ現れた勇猛な一人の青年が粗暴な男の腕を掴んだ。彼は厳粛そうな詰襟の制服を着こなし、いかにも生真面目といった雰囲気を纏っている。
「止めろ。嫌がっているじゃないか。その汚い手を離すんだ。」
そのまま男の腕を捻りあげる。男は悶えながらも青年を振り払おうとしたが、その目論みは叶わず、青年に殴られてしまった。無様に退散する男の様子を確認すると、彼は娘に近づいた。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
「え、ええ…助けてくださって、ありがとうございます。」
「良かった。」
爽やかな彼の笑顔に娘は胸を高鳴らせる。
アンヌはうっとりと青年を見つめる娘になりきる。運命的な出会いだと。そしてふたりの出会いを祝福する歌を、青年役の男と歌い出した。
青年の職業は海兵で、若くして役職についている絵に描いたようなエリート。代々国に仕え、父親も軍の上層部の人間。身分の高い裕福な家柄だった。
ーー私では彼に釣り合わない。
分不相応な願いであることは娘が一番よくわかっていた。しかし、彼女は彼を忘れることができなかった。許されないとわかっていても、心は彼を求めていて。荒くれ者から助けてくれたあの真っ直ぐな眼差しを思い出す度に、焦がれて溜息が溢れてしまう。
それは青年の方も同じだった。彼女と歌を歌い、他愛の無い話をしながら過ごした時間が忘れられず、気がつけば四六時中娘のことを考えるようになっていた。
それから何度も、ふたりはこっそりと逢瀬を重ねるようになる。初めて会った時から彼らはお互いを想い合い、運命に引き寄せられる様に、恋に落ちていたのだ。
(このまま、あなたとずっと一緒にいられたら、どんなに幸せでしょう。)
(君と共に人生を歩めたら、笑顔が絶えないだろな。)
初めて身を委ね、人を愛し愛される事を感じられた。その限りない尊さに、ふたりは幸せになれることを確信するぐらいに激しい熱情を感じていた。
◇◆◇◆◇
暗転し、場面が変わる。
縁談の話を持ち出されたことをきっかけに、青年は意を決して自身が恋焦がれる娘のことを、両親に話した。正直に打ち明けて、真摯に話せば伝わるはずだと信じて。
ーーしかし、身分違いの恋。それは青年が思っているほど容易に周囲から祝福されるものではなかったのだ。
両親、特に血筋に誇りを持っている父は激昂し、青年に平手打ちをした。
そして、彼の所属する海軍に圧力をかけて、調査任務と称し、長期に渡る航海を命じた。青年と見窄らしい娘を引き裂く為に。
娘に別れを告げる時間すら与えられず、追い出されるような形で、青年は港を出た。
ぱたりと青年からの連絡が途絶え、娘は彼の身を案じていた。
不安に苛まれる彼女の元に、青年の両親からの使いが現れる。使いは娘に「彼は事故で死んだ。」と告げた。ふたりを引き裂くための残酷な嘘。それを知る由もない娘は絶望し、嘆き悲しんだ。
だが貧しい彼女に悲しんでいられる余裕はない。引きちぎれそうな感情に蓋をしながら、それを忘れるぐらいに、がむしゃらに働く。ただただ、人形のように淡々と日々をこなしていく。彼と会う前に戻っただけだと言い聞かせていたが、仕事が終われば涙が溢れて止まらなかった。
虹色だった彼女の世界は灰色に退色していく。舞台のセットも娘の心模様と重なる様に彩度を失い、暗い色に変わっていった。
笑顔を失ってしまった娘を見かねて、彼女の歌をよく聴いていた子供達が声をかけた。
いつか街で会った老婆から聞いた話でーー「海の妖精を歌で感動させることができれば、願いを叶えてくれる。」と。お伽話のような話だ。ロマンチックだと思う人はいても、その言い伝えを心から信じているものは殆どいなかった。
けれど、ーー娘の足は導かれる様に砂浜へと向かっていた。誰もいない夜の海。寄せては引く細波の音だけが、空虚に響いていた。
「作り話でも夢でも構わない。だから、もう一度だけあの人に会わせて!」
見えない光を必死に手繰り寄せ、祈る様に、彼女は来る日も来る日も海に向かって歌い続けた。日が照りつける灼熱の日も、凍える様な寒い日も。彼と過ごした大切な時間を心に思い描きながら。
酷い嵐の日だった。港の船も全て欠航し、娘の勤める酒場も臨時休業となった。ハリケーンの恐ろしさを知っている港町には、こんな日に外に出る命知らずはいなかった。…ただひとり、哀れなほど純粋にお伽話を信じる彼女を除いては。
白く波打つ海を見つめ、吹き荒ぶ雨風をその身に受けながら、娘は砂浜に立っていた。無論、彼女もハリケーンの脅威を知らないわけではない。けれど、彼に会いたい想いと、彼を失った空虚感が彼女をそこに向かわせてしまったのだ。
ーーどうか、私の願いを聞いて。
海の妖精に訴えかける様に、娘の切実な想いをアンヌは代弁する。
娘の体は風に吹き飛ばされ、海に引き摺り込まれる。不思議と彼女の心に恐怖はなかった。彼の元にいけるなら、これでもいいのかもしれないと抵抗せず海水に身を委ねた。
ーーしかし時間が経っても、不思議と彼女の意識が遠のくことはなかった。溺れて窒息するどころか、陸上と変わりなく、水の中で呼吸ができることに彼女は気が付いた。
海の住人に扮した水ポケモン達が、セットの岩場の影に隠れて、隙間から娘を興味深そうに見つめている。彼女の目の前には成人がまるまるひとり入れそうな大きな貝があった。固く閉じていたそれが艶やかな音色とともに開き、中から人の姿をした者が現れた。…サイルーンが演じる、海の妖精だった。
男性にも女性にも見える中性的な美しさが彼女をより神格化させ、誰もが思い描く妖精のイメージへと導く。ファンタジックな存在である妖精を遜色なく現実にする。青みがかった半透明のロングドレスを纏い、精緻な貝殻とスパンコールの装飾がその美貌を益々引き立てていた。
「愛するものを想うあなたの歌に心を打たれました。素晴らしい歌を聴かせてくれたお礼として、あなたの願いを叶えましょう。」
子守唄の様な優しい妖精の声が広がる。それは舞台に立つアンヌを見守っている風にも見えた。
物語はクライマックスへと向かう。
妖精の立つ華やかな海の舞台が暗転し、暗闇の中、娘役のアンヌにスポットライトが当てられる。青年を想う娘の感情を露わにする独白のシーン。ステージに立つのはアンヌただひとり。小細工も誤魔化すこともできない。一層、失敗できないというプレッシャーがアンヌに、のし掛かった。
(ーーーあれ?)
アンヌが異変を感じたのはその時だった。
台本は句読点の位置を覚えるぐらい何度も読み直した。早朝から夜遅くまでこのシーンを練習してきたのだ。サイルーンにも役者の皆にも、仲間達にも沢山協力してもらった。
練習を重ねた、忘れるはずのないシーンーーなのに、口からセリフが一言も出てこないのだ。
緊張がアンヌの思考を止めてしまったのか。幾ら探しても、思い出せない。何故、どうして、と慌てふためき彼女の背に気持ちの悪い汗が這った。頭が真っ白になり、焦燥感が彼女の首を締め付ける。
娘の顔を演じていた仮面が今にも剥がれ落ち、元のアンヌに戻ってしまいそうだった。
注目を一身に集めるアンヌは観客の数に圧倒されて、狼狽えそうになったが、観客は“ラッキー”と思えばいいという仲間のアドバイスを思い出し、なんとか視界から意識を逸らす。
落ち着いて、と心に念じて。
すぅ、と息を吸い、アンヌは何度も練習してきた音を、丁寧に歌い出した。
彼女の歌声がホールに響く。しかしそれはアンヌであって、既にアンヌではなかった。今の彼女は両親を失い、港の酒場で住み込みながら働く、健気な娘。娘は自らに降りかかる不幸と貧しさに苦しみながらも、真っ直ぐに生き、清らかな心を持っている。
何度も縫い直し、つぎはぎだらけになったワンピースを纏う見窄らしい格好。けれど彼女が一度歌い出せば、まるで天使のような優美な声が辺りに広がっていく。
彼女にとって歌は束の間の休息のようなものだったが、彼女と同じように貧困の中で生きている街の子供達もその美声に安らぎ、胸を躍らせた。その上、自身の生活も決して裕福とはいえないのだが、彼女は集まった人々にパンを分け与える慈悲深さもあり、周囲の人々にとってまさに女神のような存在だった。
ーーそんなある日。いつものように手のかかる荒くれ者達が多く集う酒場で、給仕の仕事を終え。埠頭の外れで歌を歌っていると店で見た船乗りらしき酔っ払いが、彼女に迫った。
「おい、遊ぼうぜ。姉ちゃん。」
「嫌よ!離して!誰か、誰か助けてください!」
彼女が助けを求めるも、海賊のようなガラの悪い、しかも屈強なガタイの男に刃向かおうとするものは誰もいない。見て見ぬふりをして、足早に過ぎ去っていく。
そこへ現れた勇猛な一人の青年が粗暴な男の腕を掴んだ。彼は厳粛そうな詰襟の制服を着こなし、いかにも生真面目といった雰囲気を纏っている。
「止めろ。嫌がっているじゃないか。その汚い手を離すんだ。」
そのまま男の腕を捻りあげる。男は悶えながらも青年を振り払おうとしたが、その目論みは叶わず、青年に殴られてしまった。無様に退散する男の様子を確認すると、彼は娘に近づいた。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
「え、ええ…助けてくださって、ありがとうございます。」
「良かった。」
爽やかな彼の笑顔に娘は胸を高鳴らせる。
アンヌはうっとりと青年を見つめる娘になりきる。運命的な出会いだと。そしてふたりの出会いを祝福する歌を、青年役の男と歌い出した。
青年の職業は海兵で、若くして役職についている絵に描いたようなエリート。代々国に仕え、父親も軍の上層部の人間。身分の高い裕福な家柄だった。
ーー私では彼に釣り合わない。
分不相応な願いであることは娘が一番よくわかっていた。しかし、彼女は彼を忘れることができなかった。許されないとわかっていても、心は彼を求めていて。荒くれ者から助けてくれたあの真っ直ぐな眼差しを思い出す度に、焦がれて溜息が溢れてしまう。
それは青年の方も同じだった。彼女と歌を歌い、他愛の無い話をしながら過ごした時間が忘れられず、気がつけば四六時中娘のことを考えるようになっていた。
それから何度も、ふたりはこっそりと逢瀬を重ねるようになる。初めて会った時から彼らはお互いを想い合い、運命に引き寄せられる様に、恋に落ちていたのだ。
(このまま、あなたとずっと一緒にいられたら、どんなに幸せでしょう。)
(君と共に人生を歩めたら、笑顔が絶えないだろな。)
初めて身を委ね、人を愛し愛される事を感じられた。その限りない尊さに、ふたりは幸せになれることを確信するぐらいに激しい熱情を感じていた。
暗転し、場面が変わる。
縁談の話を持ち出されたことをきっかけに、青年は意を決して自身が恋焦がれる娘のことを、両親に話した。正直に打ち明けて、真摯に話せば伝わるはずだと信じて。
ーーしかし、身分違いの恋。それは青年が思っているほど容易に周囲から祝福されるものではなかったのだ。
両親、特に血筋に誇りを持っている父は激昂し、青年に平手打ちをした。
そして、彼の所属する海軍に圧力をかけて、調査任務と称し、長期に渡る航海を命じた。青年と見窄らしい娘を引き裂く為に。
娘に別れを告げる時間すら与えられず、追い出されるような形で、青年は港を出た。
ぱたりと青年からの連絡が途絶え、娘は彼の身を案じていた。
不安に苛まれる彼女の元に、青年の両親からの使いが現れる。使いは娘に「彼は事故で死んだ。」と告げた。ふたりを引き裂くための残酷な嘘。それを知る由もない娘は絶望し、嘆き悲しんだ。
だが貧しい彼女に悲しんでいられる余裕はない。引きちぎれそうな感情に蓋をしながら、それを忘れるぐらいに、がむしゃらに働く。ただただ、人形のように淡々と日々をこなしていく。彼と会う前に戻っただけだと言い聞かせていたが、仕事が終われば涙が溢れて止まらなかった。
虹色だった彼女の世界は灰色に退色していく。舞台のセットも娘の心模様と重なる様に彩度を失い、暗い色に変わっていった。
笑顔を失ってしまった娘を見かねて、彼女の歌をよく聴いていた子供達が声をかけた。
いつか街で会った老婆から聞いた話でーー「海の妖精を歌で感動させることができれば、願いを叶えてくれる。」と。お伽話のような話だ。ロマンチックだと思う人はいても、その言い伝えを心から信じているものは殆どいなかった。
けれど、ーー娘の足は導かれる様に砂浜へと向かっていた。誰もいない夜の海。寄せては引く細波の音だけが、空虚に響いていた。
「作り話でも夢でも構わない。だから、もう一度だけあの人に会わせて!」
見えない光を必死に手繰り寄せ、祈る様に、彼女は来る日も来る日も海に向かって歌い続けた。日が照りつける灼熱の日も、凍える様な寒い日も。彼と過ごした大切な時間を心に思い描きながら。
酷い嵐の日だった。港の船も全て欠航し、娘の勤める酒場も臨時休業となった。ハリケーンの恐ろしさを知っている港町には、こんな日に外に出る命知らずはいなかった。…ただひとり、哀れなほど純粋にお伽話を信じる彼女を除いては。
白く波打つ海を見つめ、吹き荒ぶ雨風をその身に受けながら、娘は砂浜に立っていた。無論、彼女もハリケーンの脅威を知らないわけではない。けれど、彼に会いたい想いと、彼を失った空虚感が彼女をそこに向かわせてしまったのだ。
ーーどうか、私の願いを聞いて。
海の妖精に訴えかける様に、娘の切実な想いをアンヌは代弁する。
娘の体は風に吹き飛ばされ、海に引き摺り込まれる。不思議と彼女の心に恐怖はなかった。彼の元にいけるなら、これでもいいのかもしれないと抵抗せず海水に身を委ねた。
ーーしかし時間が経っても、不思議と彼女の意識が遠のくことはなかった。溺れて窒息するどころか、陸上と変わりなく、水の中で呼吸ができることに彼女は気が付いた。
海の住人に扮した水ポケモン達が、セットの岩場の影に隠れて、隙間から娘を興味深そうに見つめている。彼女の目の前には成人がまるまるひとり入れそうな大きな貝があった。固く閉じていたそれが艶やかな音色とともに開き、中から人の姿をした者が現れた。…サイルーンが演じる、海の妖精だった。
男性にも女性にも見える中性的な美しさが彼女をより神格化させ、誰もが思い描く妖精のイメージへと導く。ファンタジックな存在である妖精を遜色なく現実にする。青みがかった半透明のロングドレスを纏い、精緻な貝殻とスパンコールの装飾がその美貌を益々引き立てていた。
「愛するものを想うあなたの歌に心を打たれました。素晴らしい歌を聴かせてくれたお礼として、あなたの願いを叶えましょう。」
子守唄の様な優しい妖精の声が広がる。それは舞台に立つアンヌを見守っている風にも見えた。
物語はクライマックスへと向かう。
妖精の立つ華やかな海の舞台が暗転し、暗闇の中、娘役のアンヌにスポットライトが当てられる。青年を想う娘の感情を露わにする独白のシーン。ステージに立つのはアンヌただひとり。小細工も誤魔化すこともできない。一層、失敗できないというプレッシャーがアンヌに、のし掛かった。
(ーーーあれ?)
アンヌが異変を感じたのはその時だった。
台本は句読点の位置を覚えるぐらい何度も読み直した。早朝から夜遅くまでこのシーンを練習してきたのだ。サイルーンにも役者の皆にも、仲間達にも沢山協力してもらった。
練習を重ねた、忘れるはずのないシーンーーなのに、口からセリフが一言も出てこないのだ。
緊張がアンヌの思考を止めてしまったのか。幾ら探しても、思い出せない。何故、どうして、と慌てふためき彼女の背に気持ちの悪い汗が這った。頭が真っ白になり、焦燥感が彼女の首を締め付ける。
娘の顔を演じていた仮面が今にも剥がれ落ち、元のアンヌに戻ってしまいそうだった。