shot.11 君に決めた!?

 レッスンを始めて数日後。アンヌは猛特訓の甲斐もあって、言うべき台詞はほぼ暗記し、ロボットのようにぎこちなかった踊りも見違える程、軽やかな動きになった。

「すごいよ、かなりよくなった!」
「ありがとうございます。皆さんが熱心に教えてくださったお陰です。」

 サポートしてくれる役者達もアンヌの成長ぶりには感心していた。役を演じると覚悟を決めてからの彼女は迷いを捨て、周囲も目を見張るほど練習に力を入れていた。指摘された部分を一言一句忘れないように、台本にはびっしりと書き込みがあったし、練習が終わってホテルに帰ってからも演じる娘の所作や台詞を復習していた。練習を繰り返していくうちに、独唱部分の歌詞と台詞、振り付けはなんとか暗記することができた。…しかし、そこまでしてもアンヌにはまだ気掛かりがあった。

「後は、キャラクターの感情をもう少し深く掘り下げて…もっと彼女になりきるってことかな。」
「はい…。」

 恋する娘の感情。頭では考えて、彼女の気持ちを理解したつもりでいるが、いざ演じると嘘っぽく、作り物という印象が強く出ていた。誰かに恋をするという経験がない彼女は、想像することでしか娘の感情に寄り添えなかったのだ。
 恋愛に纏わる本やラブストーリーを題材とした映画やドラマを沢山鑑賞しても、やはり同じ事で。素敵だと、ときめきはするのだが、娘の気持ちを作るまでには至らず、結局疲れもあっていつの間にか眠ってしまっている時もあった。


(あと一週間しかないのに…。)

 つい弱気になってしまう自分の心。その度に我に返って首を横に振り、ネガティブな思考を払拭しようとする。大丈夫、まだ一週間もある!とポジティブな方向に切り替えようとするのだが、不安は拭いきれなかった。


「随分苦戦してるみたいね。」

 スタジオの隅で台本を開きながら頭を抱えていたアンヌに、彼女は変わらぬ優雅さを纏いながら声をかけた。

「サイルーンお姉さん!」

 いつしかアンヌは彼女のことを親しみを込めてそう呼ぶようになっていた。
 眉を不安そうに下げ、俯きがちの悩めるアンヌの傍にそっとサイルーンは座った。


「どうしても彼女の気持ちに入り込めないの。彼女の想う恋って何?という疑問が過ってしまって…。」
「成る程ね。」
「私、お屋敷にずっといたから恋をしたことがないんです。だから、様々な創作物を通して彼女の気持ちを想像することができても、その実感が湧かないの。」

 心の奥の蟠りが溜息となって溢れ出す。困ったわ、と彼女に助言を求めるような視線を送る。
 するとサイルーンは口を開き、目を丸くさせて、驚いたような顔をしていた。可笑しなことを言ってしまっただろうかとアンヌはどきりとした。

「…まさか、アンヌちゃん…自覚ないの?」
「え?」

 自覚、と言われても…アンヌにはそれがなにを指しているのか見当もつかず、首を傾げる。役者としての心構えや技術といったような自分の未熟さを指摘されているのだろうかというぐらいにしか考えが及ばなかった。
 ぼんやりするアンヌの様子から明らかに無自覚だと感じ取ったサイルーンは頭を抱える。

(これは重症ね…。)

 アンヌの鈍感さに困惑しながらも、サイルーンは思考を巡らせ、妙案を思いついた。彼女は女優でもあり、“恋のスペシャリスト”でもあった。

「オーケー、確かに気持ちが入ってないって感じは私もしてたの。」
「やっぱり…そうですよね。」
「でも大丈夫。アナタがすぐ役に入り込める秘密兵器、用意するから!」
「本当ですか!ありがとうございます!」

 演技の経験が豊富なサイルーンのいう秘密兵器、ならば余程役立つものなのだろうとアンヌは胸を躍らせ、心底安堵した様子で彼女の手を握った。
 …僅かに企むような笑みを浮かべたサイルーンの表情には気づきもせずに。

◇◆◇◆◇


 アンヌは何度も瞬きをして、目を擦る。だが、確かに見間違いではない。目の前にいるその姿。秘密兵器、否、もしかしてこれはサイルーンのジョーク?…緊張を和らげようとしてくれているのだろうか。

「ええっと…。もしかして、秘密兵器というのは…。」

 恐る恐る、アンヌは彼女に問いかける。むしろジョークであって欲しいと思う気持ちもあった。
 だが、サイルーンは「ええ」と快活な答えを返した。しかも不気味なぐらいに満面の笑みで。

「…よくわかんねぇが、手伝えってこの姐さんに言われたもんでな。」
「やーん、近くで見れば見るほどいい男ね、グルートちゃん!んふふ、いい体…!」

 サイルーンが秘密兵器と称して、そこに連れてきたのはなんとグルートだったのだ。てっきり練習に役立つ道具や、ベテランの指導者が現れるとばかり思っていたアンヌは、思いもよらぬ相手に困惑と動揺を隠せない。呼ばれたグルート自身も状況がよくわかっていないようで、サイルーンに言われるがまま、この場にいるという感じだった。

「そりゃ、どうも。だが、念のため言っておくが、俺は頼まれてもミュージカルなんざ、でねぇからな。」
「んもぉ、わかってるわよ。アナタはアンヌちゃんの練習台よ。そこに立ってるだけでいいわ。」
「あ?そんなの、俺じゃなくてもいいだろ。わざわざ呼び出してまで…。」
「あらヤダ!アナタまでニブチンなの?……これは苦労するわねぇ。」

 口元に手を当て、「でも、それはそれで…可愛い!」となにやら興奮していたサイルーンだったが、暫くして、気を取り直した様子でパンっと両手を叩いた。

「それで、アンヌちゃんに試して欲しいことがあるんだけど…。」
「はい?」
「彼をエリート海兵役だと思って演技してみて頂戴!」
「……えっ?」

 茶目っ気たっぷりなサイルーンの嬉々とした雰囲気と対照的に、アンヌの思考は一瞬のうちに凍りつき、固まった。

「えっ、ええ!?」

 そして、アンヌは再び驚き、困惑することになった。
 グルートの言う通り、相手が彼になったからといって、他の人と練習する時との違いがあるとは思えない。その何処が“秘密兵器”なのだろうか。
 …なにより、暗記した台本の中には娘が海兵の青年に対して、情熱的な想いを吐露するシーンもある。役を演じているとはいえ、グルートに向かって愛を伝えるのは羞恥と抵抗感があった。胸の辺りも熱く、響動めく。

「言っておくけど、告白するのはあなたじゃなくて娘よ。で、彼はグルートちゃんじゃなくて海兵さん!いいわね?」

 プロのサイルーンにはアンヌの動揺も見透かされてしまっているようで、彼と自分を同一視せず、あくまでも演じてるだけ、と念を押される。
 疑問はありつつも、しのごの言っていられる余裕がないことはアンヌが一番わかっていたので、経験豊富な彼女の提案に何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。
5/9ページ