shot.11 君に決めた!?

 ミュージカルホールの入り口まではグルート達が見送ってくれた。アンヌは扉の前に立ち、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

 まだ心の奥では出演するべきか、辞退するべきかの決心がつかず、迷っている。しかし幾らひとりで缶詰になったところで答えは見つからず、悶々とするだけだった。何故、素人である私を選んだのか。私である必要性は?ーー尽きないその疑問と、サイルーンの気持ちをアンヌはもう少し深く知りたかった。それを知るためには改めて彼女と話す必要がある。その上で答えを決めようと思ったのだ。

 ドアノブに手をかけた時、部屋の中から話し声が聞こえた。どうやら先客がいたようだ。慌ただしく、時折り荒げるような声が聞こえる。もしかすると演技の打ち合わせをしているのかもしれない。ここは出直した方がいいだろうとアンヌは思い、緊張の糸が緩み、少しほっとしながらその場を離れようとした。


「このままだとミュージカルホールは、なくなってしまうんだぞ!」


 だが、部屋の中から聞こえた怒号に彼女は引き返す足を止めた。
 演技とは思えない物々しい雰囲気に、いけないとは思いつつ、アンヌは僅かに開いた扉の隙間から中の様子を覗き見た。

 洒落たコートを身に纏っている白髪の老紳士が、血相を変えて、サイルーンに詰め寄っている。彼女は長い睫毛を悲しげに伏せながら、苦い顔をしていた。


「…ええ、承知していますわ。」
「一体どうするつもりなんだ!今回の公演は何としても成功させなければいけないというのに、娘役無しで芝居をやるつもりなのか!?」
「いい子を見つけたんです!彼女なら必ず……。」
「素人にできるわけがない!第一、出演する気がないのなら、打診しても無駄だろう。…それより早く、適当な女優を見繕うべきだ。」
「オーナーもご存知でしょう。実力を持った役者は全て押さえられてしまっているんです。…彼の手によって。」

 娘役、素人。そのふたつの言葉から察するに、サイルーンとミュージカルホールのオーナーが自分のことを話しているのだろうとアンヌは察した。
 やはりこれは演技などではない。では、サイルーンが言っていたことは本当なのか。


「クソッ、あの男さえいなければ…忌々しい。奴には心がない。金のことしか考えていないんだ。」


 オーナーは歯を食いしばりながら、固く拳を握り締める。やりきれない想いが溢れ、それがひどく辛そうで、悔しそうで。
 会話の流れから、自分の出演にも何か関係があるように思われて、アンヌは強くドアノブを握り、思わず部屋に足を踏み入れていた。


「あの…ミュージカルホールがなくなってしまうって、どういうことなのですか。」

 突然の来訪者に部屋にいたふたりは一斉に振り返り、驚きながらアンヌを見た。

「何だね、君は…。」
「お話した、娘役の候補の子ですわ。」
「ごめんなさい。盗み聞きをするつもりは…。聞こえてしまったものですから、つい。」
「そう…。」

 サイルーンは眉間に皺を寄せながら暫く口を噤んでいた。どう説明すべきか、言葉を迷っているような感じだ。だが、真っ直ぐなアンヌの眼差しに負けて、彼女は一呼吸置いてから、絞り出すように言葉を紡ぎはじめた。


「…実は、最近できたポケウッドの影響もあって、今度の公演の評判次第で、スポンサーがミュージカルホールへの出資を打ち切るって話があってね。もしこの公演が失敗すればミュージカルホールはなくなってしまうの。」
「え…。」
「でも今のままじゃ、失敗以前に公演をすることすらできない。元々、娘役をするはずだった子はいたのだけれど、彼女も直前になってポケウッド側に引き抜かれてしまったから…。」
「そんな…。」

 ミュージカルホールの危機と共に、サイルーンがアンヌに対して、ミュージカルへの出演を強く望んでいた訳も知ることになった。

 オーディションをしても、目ぼしい役者はミュージカルホールの公演を邪魔するかのように次々と他の会社に奪われてしまう。
 ならば無名で、業界がノーマークな、言わば素人を見つけ出すしかなかったが、そう簡単には見つからない。
 だが、諦めかけたその時に、アンヌがサイルーンの目の前に現れたのだ。アンヌが子供に優しく寄り添う姿を見て、彼女は次の公演の娘役の雰囲気にぴったりだと思ったらしい。

「アタシ達の邪魔をしているひとは…おそらく、アタシ達が目をつけている役者を片っ端から引き抜いて、公演自体を中止にしてしまうことが目的なのよ。仮に敢行したとしても、出てくるのは無名の新人か素人だけ。赤っ恥をかいて出資を止められる、自滅するのを狙っているんでしょうね。」
「そんな…。」

 公演中止、素人の起用。どちらを選んでもミュージカルホールの行く末は暗いというわけだ。

 アンヌは拳を握り締め、憤りを表すようにその拳を震わせた。

(沢山努力して…生き生きと輝いている人達の場所を奪うひとがいるなんて。)

 練習スタジオで見た役者達の一生懸命な役者達の姿を思い浮かべて、アンヌは胸が張り裂けそうだった。勝負の機会すら与えない。必死に練習を積み重ねてきたであろう役者達の努力を踏みにじるようなやり方だ。競争の多いこの業界ではよくあることだとサイルーンは付け足したが、“世間知らずでよそ者”のアンヌには納得ができなかった。

「どうしてもっと早く言ってくださらなかったの。」
「ごめんなさい、アンヌちゃん。…言わなくてはいけないと思っていたのだけれど、あなたに変なプレッシャーをかけたくなくて。…ミュージカルって本当はもっと楽しいものだから。」

 サイルーンは申し訳なさそうに頭を下げ、複雑な心中を抑え込むように、胸元に手を当てた。

「…でも、あなたならいけるって思ったのは本当なの。例え素人でも、その水のように透き通った清らかな心は、アタシの思い描く娘役そのものだったから。」

 勝気で凛としていた彼女の言葉が、弱気になり過去形になってしまっているのは、聞くまでもなくアンヌの返事が“ノー”であると見越してのことなのだろう。そして、ミュージカルホールの行く末を慮っているように思われた。
 諦めのような暗い空気がサイルーンとオーナーの間に漂い、深い溜息が充満する。

 だが、悲しげなひとびとの表情を見て、アンヌは黙っていられるような大人しい乙女ではなかった。

『どうするかはお前の自由だ。』
 グルートの言葉が彼女の脳裏に過ぎる。自分が今やりたいこと、やれること。できること。例えその先がどうなろうとも、今、後悔しない道を選びたいと彼女は思った。


「ーー私、やります。」

 アンヌの声が広い部屋に響く。俯きがちだったサイルーンとオーナーは顔を見合わせて、聞き間違いかと思い目を丸くさせた。

「ううん、やらせてください。」
「アンヌちゃん…。」
「何もしなくてもこのまま終わってしまうのなら、挑戦して盛大に失敗してしまった方が素敵ではないかしら?」

 アンヌは悪戯っ子のような笑顔を浮かべる。絶体絶命だからこそ、かえってアンヌの気持ちは振り切れた。マイナスからのスタートならば、いっそやれるだけやってみようという余裕ができたのだ。

 オーナーは何か言いたげだったが、サイルーンがそれを遮り、アンヌの両手を勢いよく掴んだ。込み上げる感情を抑えきれない様子で、彼女は瞳を潤ませていた。ミュージカルホールを背負って立つ彼女は、その責任の重さと沢山の不安を抱えていたのだろう。


「ありがとう。…さすがアタシの見込んだ子だわ!」

 彼女の声はいつもの凛としたそれに戻っていて。目元の涙を指ですくい取り、笑顔を浮かべた。
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