shot.1 令嬢誘拐

 他の箇所も同じように処置をしていくと、段々と彼は大人しくなって。気づけば唸るような声も上げなくなり、乱れていた呼吸も徐々に落ち着いてきた。アンヌは様子を見ながら、ゆっくりとガーゼを離した。

「どう?少しでも楽になったら、いいのだけれど……。」
「ヘル……。」

 アンヌの呼び掛けに彼は濁声で気だるそうに応答する。……あれだけの傷を負っていたのだ、きっと疲れているのだろう。
 傷口に触れないように、そっと彼の体を撫でた。すると、気持ち良さそうに目を細め、細い矢印のような尻尾を揺らしてくれた。それがアンヌを愛しい気持ちにさせ、心に温かいもの生み出す。ほっとして思わず微笑みが溢れる。


(この子……お屋敷で初めてみるけれど、ポケモンよね?)

 彼の頭を撫でてから、アンヌは立ちあがり、本棚へ向かう。きょろきょろと忙しなく視線を動かしたあと、一冊の分厚い本を取りだす。背には「ポケモン図鑑」と書かれていた。
 休んでいる彼と本を見比べながら、ページを捲っていくと、ある時、彼によく似た姿を見つける。頭の白い双角、橙色の腹と黒い体、髑髏に似た骨の首輪のような特徴も合致していた。……種族名は「ヘルガー」と記載されている。

「ダーク……ポケモン?」

 説明を見ていると「地獄から死神が呼ぶ声」など、物騒な文字が目立ち、アンヌはぞっとした。あくまでも一説だから…と思いつつも、怖そうな見た目と相まって妙な説得力があり、徐々に青ざめていく。


「不安になったか?助けたポケモンが悪いやつじゃねーかってよ。」
「――ひゃあっ!」

 心の内を見透かすような声にアンヌは震え上がり、思わず本を地面に落としてしまった。アンヌが振り返ると、さっきまでヘルガーのいた場所に見知らぬ男がいた。男は胡座をかきながら床に座り、にやりと悪い笑みを浮かべていた。

「安心しろ、取って食うような真似はしねぇから。」
「え……ええ。」

 身近にリヒトがいるのもあってポケモンに人型になれる能力があるというのはアンヌも知っていたが、人型のリヒトと父以外の男とこうして二人きりで話したことはなく、アンヌは心臓が張り裂けそうなほど緊張していた。しかも疚しい心のうちを見透かされているのだから、アンヌには彼に会わせる顔がなかった。

「しかし、傷薬ってのはすげーな。みるみるうちに傷が塞がりやがった。」

 最も、当の本人は微塵も気にしていないようで、それよりも怪我の回復に関心があるようだったが。怒られなくて良かったとアンヌはほっと胸を撫で下ろした。

「ええと……ヘルガー、さん?」
「そいつは種族名だな。」
「あ……それじゃあ…。」
「グルートだ。お前は?」
「は、はい!アンヌ・シャルロワと申します。」

 アンヌは深くお辞儀をして、グルートと名乗った男を見つめた。真ん中で分けられた長めの白い前髪は先程の双角の部分だろうか。黒い後ろ髪は無造作に跳ねている。黒のジャケットとパンクファッションのように複数のベルトがあしらわれたズボン。インナーの橙色のタンクトップの隙間からはトライバル模様のタトゥーが見える。そして、獲物を狩る猛獣のような鋭い目付き。元の姿のときに見ても圧倒されてしまったが、人型になるとより一層その迫力を増していた。

(……同じ男性だけれど、リヒトともお父様とも、全く雰囲気が違う方だわ。)

 接したことのないタイプの相手にアンヌはどうすればいいのか困惑していた。恐いという印象はどうしても拭えない。
 どうにもできずにアンヌが戸惑っていると、ずかずかとグルートの方から距離を縮め、近づいてきた。アンヌは戸惑いから仰け反ってしまいそうになったが、それよりも速く、彼はアンヌの身につけていたペンダントを掴む。彼の興味があったのはどうやらアンヌではなく、ペンダントの方だったらしい。


「……間違いねぇ。」

 食い入るようにペンダントを見つめたあと、グルートは確信めいたように呟いた。それがどういう意味なのか、アンヌにはわからず、控えめに首をかしげる。

「……あの?」
「こいつをどこで手にいれたんだ?」
「父に頂いたんです。その日はとても父の機嫌がよくて……。普段は私にプレゼントをしてくださるような方ではないのですけれど。」

 間髪を入れないグルートの問いにアンヌは不思議に思いながらも、父にペンダントを貰った時のことを思い出して、場違いとは自覚しつつも顔が綻ぶのがわかった。厳しい父が唯一くれた贈り物。それは父の愛情を感じることのできる貴重なもので、アンヌがとても大切にしているものだった。
 ……しかし、アンヌの笑みとは対照的にグルートは眉間にシワを寄せ、ばつが悪そうな苦い顔になった。

「……それが、どうかしましたか?」

 おそるおそる、アンヌは問い返す。その曇りのない純粋な青い瞳に益々、グルートは悩み、頭を抱える羽目になるのだが。

(よりによって、こんなガキが俺のヘルガナイトを持ってるたぁ……全く、俺は時々、神様ってやつを恨みたくなるぜ。)

 所謂、成金と呼ばれ、娯楽として宝石を侍らせているような輩がヘルガナイトを持っていたのなら、彼も躊躇することなく奪い返しただろう。しかし、予想に反し、持っていたのは、見知らぬ自分の怪我を手当てしてくれた心優しい少女で。そして、少女は健気にもそれを大切にしているという……グルートからすればなんともやりにくい状況だった。

「ちっ、」

 このやりきれない思いをどこにぶつければいいのかわからず、思わず舌打ちが溢れる。……だからといって、何の非もないこの少女から無理矢理奪い取るようなことはグルートもしたくなかった。


「――帰る。」
「えっ?」
「傷も癒えたし、俺がここにいる理由はもうねぇんだよ。」

 悩んだあげく、グルートは半ば自棄で手を引くことを選んだ。骨折り損のくたびれ儲けというのはこういうことをいうのだろう。痛い思いをしてまで一体自分はここに何をしにきたのか。
 ……しかし不思議と、アンヌと出会えたことについては、そう悪いことだとは思わなかった。

「そんな、……もう帰ってしまうの?」
「お前もその方がいいだろ。さっきからびびってんの、バレバレだからな?」
「っ!」

 意地悪く笑って見せると、アンヌはかあっと赤面した。とてもわかりやすい図星を示す反応が逆に新鮮で、グルートには面白くみえた。

「こ、怖がってなんかいないわ!」
「上擦ってんぞ、声。」
「これはその……!」

 威勢よく反論するも、その勢いはみるみるうちに萎んでしまい……。間もなくアンヌは観念したようにがっくりと項垂れ、上目遣いで恥ずかしそうにグルートを見つめた。

「……ごめんなさい。本当は少し、あなたのことが恐いと思っていました。」
「正直でよろしい。」

 勝利したような優越感がグルートに満ちて、代わりにアンヌには敗北感のような哀愁が漂う。本気で申し訳なさそうな顔をする彼女に、からかいすぎてしまったかもしれないとグルートは少しだけ反省した。

「ま、俺のナリみてびひらねぇやつの方が少ねぇからな。今更、気にしちゃいねぇよ。」

 落ち込む少女をそのままにするのはさすがに酷だと思ったのか、グルートはなんてことはない風で、アンヌの頭をくしゃくしゃに撫でた。アンヌはそれに少し驚き目を丸くさせながらも、最後には安堵したように目を伏せ頷いた。
 その気遣いに、見た目ほど彼は悪いひとではないのだとアンヌは思った。ぶっきらぼうだが、冷たさを感じないのはきっと彼が優しい心の持ち主だからだろう。

 名残惜しい気持ちを膨らませながらも、かける言葉を見つけることができず、アンヌはただただ去り行くグルートの背をみつめていた。


「じゃあな。……手当てしてくれてありがとよ。アンヌ。」

 グルートが窓に手をかけ、がらっと勢いよく開けると再び冷たい夜風が入ってくる。それが火照った体のアンヌには心地がよくて。そのまま彼の背中を追いかけてしまいたいような気持ちになる。しかし、それはアンヌには許されないことだった。
 テラスに出たグルートの大きな背中が、夜の闇に溶け込んで、消えてしまう。
 彼に出会えたことは奇跡のような偶然だったのだ。彼は元居た場所に帰るだけ。それはアンヌも同じことだった。

(もう、二度と彼には会えないのかしら。)

 残酷な現実がよぎって、アンヌは夢から覚めるようにはっとした。彼のようにシャルロワ家の娘というレッテルを貼らず「アンヌ」と呼んでくれるようなひとにこの先、出会えるのだろうか。
 グルートと別れた後、自分は予定通り結婚をするのだ。きっと他人行儀で、息が詰まるような時間が待っているに違いない。……そして、ずっと、この場所に閉じ込められ続けるのだろう。


「――ま、待って!」
「あ?」
「あっ。」
 
 今まさにテラスの柵を飛び越えようとしていたグルートの服の裾を、アンヌは力強く、掴んでいた。咄嗟の行動にアンヌ自身も困惑していて、彼と交わる視線をあからさまに逸らしてしまった。

(私……今、何を言おうとしたの?)

「ご、ごめんなさい。なんでも……ないから。」
「……。」
「それでは、……お元気で。」

 アンヌは張り付けたような笑顔を作り、グルートから逃げるように手を離す。しかしその手はより近く、ぐっと彼の方に引き寄せられてしまった。

「待てよ。」
「!」

 骨ばった大きな手に掴まれ、アンヌはそのまま逞しいグルートの胸元に包まれる。何が起こっているのか理解する間もなく、アンヌの顔にはぐっと熱が上る。

「なんでもねぇやつが、引き留めたりするかっての。」
「ほっ、本当になんでもないの。……ただ、少しだけ、寂しいって思っただけで……。」

 それ以上、言葉が続かなかった。言いたいことは喉元まできているのに、ぎりぎりのところでアンヌの理性がそれを止めているのだ。

「……てめーは何かを誤魔化そうとしてるみてぇだが、俺には通用しないぜ。」
「……。」
「言いてぇことがあるなら、ハッキリ言いやがれ。中途半端は嫌いなんだよ。」
「っ!」

 突然、ぐいっと顎を持ち上げられ、再び彼の赤い目と視線が合う。鋭いその瞳は少し怒っているようにも見えて、逸らそうとしても逸らせない、そんな覇気があった。アンヌは息を飲んで、震える手で彼の胸元を掴む。
 睨む彼が恐いのではない。喉元まで出かかっているその言葉を発してしまえば、叶わない絶望感に苛まれて、涙が溢れてしまいそうだったからだ。

「いけないことだって、わかっているのに、わたし……。」

 視界が滲んで、揺れる。言ってはいけない。彼を困らせることになってしまうかもしれない。……それなのに、アンヌをじっと見つめる赤い目はとても真っ直ぐで、心強くて。彼の優しさに甘えて、いっそ全てを委ねてしまいたくなる。
 

「……あなたについていきたいと、思ってしまいました。」

 抑えきれない願望と大粒の雫が、アンヌの瞳から溢れ出す。月光に反射するそれはまるで、ダイヤモンドダストのようにきらきらと哀しく、輝いていた。
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