shot.10 嵐の前の

 アンヌは美しいそのひとに深くお辞儀をして、感謝の気持ちを述べた。幸い彼女が支えてくれたお陰で怪我もなく、風船も割らずに済んだ。飛んでいかないようにしっかりと糸を握り締め、アンヌは女の子に風船を返す。風船を手にした彼女の顔には笑顔が浮かんでいた。

「ごめんなさいね、アタシがせっかくの見せ場を奪ってしまって。」
「いや、助かったぜ。全く、ウチのは落ち着きがなくってな。」
「うっ…ごめんなさい…。」
「あらっ、アツアツって感じ?妬けちゃうわねぇ~。」
「ち、違いますっ!私とグルートは…その…。」

 彼女の冗談を真に受け、アンヌは否定しようとしたが、言葉を詰まらせ、顔を赤面させながら俯くことしかできなかった。グルートはさらりと流し、気にも留めていないようだったが。



「なあ、あのひとって…。」

 誰かがぼそりと呟いた。その騒めきは瞬く間に周囲に広がっていく。皆の視線は美しい彼女へと注がれる。
 群衆の中から食い気味に身を乗り出す男女が彼女の前に並んだ。彼女の持つ元来の輝きと、すらりとした細身の長身故に囲まれても人に埋もれることはなかった。


「あ、あの…サイルーンさんですよね…?」

 遠慮がちではあるが、既に彼女がそうであると確信しているような尋ね方だ。
 彼女はふっと口元を緩ませて、その目を隠していたサングラスを外した。はっきりした目元のメイクが彼女の輝く眼力を益々際立たせていた。

「あら、ばれちゃった?いかにも。私がサイルーンよ。」
「やっぱり!…ファンなんです!サインください!」

 彼女がサイルーンと名乗ると歓喜の声が沸き起こり、人々が一斉にその周囲に集まった。大人数に囲まれながらも、彼女は慣れた手つきで服にサインを書いたり、握手をしたりして、対応をしていた。

「凄まじい人気ね。…有名な方なのかしら。」

 アンヌはサイルーンに群がる人の量に圧倒されながら、彼女の名前をどこかで聞いたような気がしていた。

◇◆◇◆◇


 程なくして、女の子の両親が彼女を探しているのに出くわし、女の子は両親の元へ無事に帰ることができた。両親には何度も頭を下げられ、かえってアンヌの方が申し訳ない気持ちになる。それだけ彼女のことを心配していたのだろう。震える手で我が子を抱きしめる母と父の姿はアンヌの目にもこみ上げるものがあった。

 女の子は風船を固く握りしめ、もう一方の手で母の手を握りながら、すっかり安心して絶えず笑みを溢していた。

「ばいばい!おねえちゃん!」

 すっかり元気を取り戻した女の子の快活な声を聞き、温もりで心が満ちていく充足感を感じながら、アンヌも笑顔で彼女に手を振り返した。



「…ところで、アンヌちゃん。少し相談があるんだケド…。」


 駆けつけた警備員のガードもあって、漸くサイン会も落ち着いたサイルーンが、おずおずと彼女に言葉を投げかける。

「何ですか?」
「…そうねぇ、ここじゃあ話しづらいから…場所を変えてもいいかしら?」

 両手を顔の前に合わせ、首を傾げながら懇願するポーズをするサイルーンにアンヌは快く頷く。返事を聞くなり、ぱっと安堵したような顔をして、彼女は急くようにアンヌの手を引いた。


(…嫌な臭いがするぜ。)

 これはまた面倒事に巻き込まれそうだとグルートは直感的に感じ取った。
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