shot.10 嵐の前の
観覧車は数分後には動き出した。けれどアンヌはグルートの側から離れることができず、身を寄せたままで。何故なのか、それは彼女自身にもわからなかったが、離れたがらない彼女に合わせるように、彼は無言で優しい抱擁を続けた。
客車から降りても、まだ胸の辺りが忙しなく動いている。互いに何も言わないことが、かえって気恥ずかしさを増長させた。
間を持たせるために、アンヌは必死に話題を考える。
「ええと…その、びっくりしちゃった!まさか、突然観覧車が止まってしまうなんてね。」
「そうだな。」
「怪我をしなくて本当によかったわ。…少し、緊張したけれど。これも良い思い出になるわ、きっと。」
ぎこちなく言葉を紡ぐアンヌだったが、グルートは深く突っ込んでは来ず、彼女はほっと胸を撫で下ろす。
緊張の原因は観覧車が止まったことだけではなかったが。例の件には触れず、アンヌは大袈裟に明るく振る舞った。
「安心したら、なんだか喉渇いちゃったわ。」
「…飲み物買ってくる。お前はここで待ってろ。」
「いいの?ありがとう。」
「勝手にどっか行くんじゃねぇぞ。」
グルートはアンヌに念を押して、近くのベンチに座らせると、目の前のフレッシュジュース店のカウンターに向かった。
彼女はその後ろ姿を目で追う。ーーと、また知らず知らずのうちに彼に意識が向いていることに気付いて、慌てて視線を外した。
(もう、どうかしてしまったのかしら…私…。)
彼女は憂いを帯びた眼差しを浮かべながら、控え目に溜め息を吐いた。どくん、と心の音が自身の存在を主張してくる。胸を手で押さえて、鎮まれと念じるが、抑え込もうとする程にかえって心は騒ぎ出す。思い通りにならないこの心は天の邪鬼なのだろうか。再び彼女の口から吐息が溢れた。
◇◆◇◆◇
気を逸らそうと周囲の景色をぼんやり眺めていると、ふと通りの樹木の前で立ち尽くしている女の子が目についた。背丈はマリーと同じぐらいだろうか。自分より何倍も背の高い木をじっと見上げている。
その姿が気になってアンヌは立ち上がる。グルートは勝手に動くなと言っていたが、然程距離も離れていないので大丈夫だろうと、彼女は女の子に近づいた。
「どうしたの?」
「…ふうせん…わたしの…。」
柔らかく声をかけると女の子は目に涙を溜めながら、上を指差した。目を凝らすと木の上の方に赤い風船が引っかかっているのが見えた。
「パパとママもいなくなっちゃって…わたし…っう…うう…。」
「まあ…そうだったの。それは大変だったわね。もう大丈夫だから、安心して。」
女の子はどうやら迷子のようだった。両親とはぐれ、お気に入りの風船も手離してしまったらしい。ひとりでどうしていいかわからず、立ち尽くしていたのだ。
(さぞかし、不安だったでしょう。…何か私に出来ることはないかしら?)
グルートが戻ってきたら一緒に両親を探すのは良いとして、それまでの間、不安な彼女を元気付ける方法はないものかと、アンヌは考えた。
(…そうだわ!)
彼女は何かを思いついたように、はっと顔を上げ、再び枝に引っかかった風船を見つめた。
「…おねえちゃん。だいじょうぶ?」
アンヌを見上げる女の子はやや不安げに眉を寄せ、彼女に声をかけた。女の子がじっと見ているのは、木の枝に足を掛けるアンヌの姿。幹にしがみつきながら、器用に登っていく。
「大丈夫よ、こう見えて、私木登りは得意なの!」
お転婆なアンヌは幼少の頃、人目を盗んではよく屋敷の庭木に登って遊んでいた。屋敷のものよりは少し大きい木だったが同じ要領で登れるはずだと、昔の感覚を思い出しながら枝を掴んだ。
せめて風船だけでも取り戻して、彼女を元気付けてあげたかったのだ。
(もう少し…!)
枝先に糸が引っかかった風船までは、手を伸ばしても僅かに距離が足りない。掴んでいた手を幹に近い枝から、外側の枝へと移動させる。先端に近く度、枝が細くなり、足元もぐらついた。
◇◆◇◆◇
カップに入ったミックスオレを片手に、グルートはアンヌの待つベンチへと向かう。
…が、そこにいるはずの彼女の姿がなく、彼は目を見開き、辺りを見渡す。まさかこの短い間に追手が彼女をーーと、思いかけて、周囲が騒ついているのに気がつく。
「おい…あの子大丈夫なのか?」
観衆の注目の先に目をやると、遊園地を彩る緑の並木と、木を見上げる小さな女の子、そして、それによじ登るアンヌの姿があった。人を支えるには頼りない細い枝に足をかけている。しなる不安定な足場は今にも折れてしまいそうだ。
グルートはさあっと血の気が引くのを感じながら、手に持っていたカップを投げ捨てて、駆け出していた。地面に投げ出されたミックスオレが彼の足並みに合わせて、びしゃっと跳ねた。
「あの阿呆…!ひとの言うこと全然聞かねぇなっ!」
どうしていつも彼女は無茶をするのか。今すぐに止めさせなければと彼の心には歯痒さと焦りの感情が湧き上がる。
届きそうな目の前の風船のことで頭が一杯になっている彼女は、気がついていないのだ。自分がいかに危うい状況にいるのかを。
更に枝先へと足をかけ、限界まで手を伸ばしたアンヌは漸く、風船の紐をその手に掴むことができた。
「やったわ!ねぇ、見て!あなたの風船はここにーー」
下にいる女の子に見えるように振り返り、風船を差し出した時だった。…バキッと割れるような音がした後、足場がなくなり、彼女の体は宙に浮いた。えっ、と驚きの言葉を溢す間もなく、しがみついていた手もざらざらした木肌を滑り、アンヌの体は重力に従うまま落下した。
「おねえちゃんっ!」
「アンヌッ!」
一刻も早く、アンヌの元に行かなければならないのに野次馬が邪魔をして、彼女のところまでたどり着けない。押し除け、人々の間を掻き分けながら、グルートは苛立った様子で舌打ちをする。
(クソッ!間に合ねぇーーッ!)
アンヌはグルートが名前を呼ぶ声が聞こえて、彼の言いつけを破ってしまったことを申し訳なく思った。ごめんなさいと心の中で謝りながら、どうか風船だけは割らないで済むよう両腕で包み込む。迫る痛みを覚悟して、固く瞼を閉じた。
群衆の悲鳴も彼女の耳には遠く聞こえた。
息を切らせながらグルートがアンヌの元にたどり着いた頃には、彼女の姿は木の上から消えていた。彼は最悪の事態を想像し、茫然とする。
…だが、そこにはもうひとつ見知らぬひとの後ろ姿があり、グルートは我に返って、冷静に状況を見つめ直す。
その人物は腰まで伸びた淡いピンクの髪を風に靡かせながら、高級感の漂う、ベージュの毛皮のコートを身に纏っている。ブルーとピンク、ブラックの鮮やかなマーメードドレスが汚れることも厭わず、彼女は地面に膝をつき、しっかりとアンヌを抱き抱えていた。
「…あれ……?わたし……。」
いつまで経っても襲いかかってこない痛みに不思議に思ったアンヌはぼんやりと瞼を開いた。
アンヌが真っ先に見たのは、グルートでも女の子の顔でもなく、つばの広い帽子を被った、玉のような肌をした美しいひとだった。サングラス越しに見える凛とした赤い瞳。その美貌と艶やかさに彼女は言葉を失った。
「あな…たは?」
アンヌが尋ねると女性は鮮やかな紅を緩ませて、色香の漂う微笑みを浮かべた。視線が合うと、彼女の赤い瞳の奥が、きらりと光ったような気がした。
「…ついに見つけたわ、虹色の卵を!」
彼女のその言葉が何を意味するのか。この時、アンヌには知る由もなかった。
客車から降りても、まだ胸の辺りが忙しなく動いている。互いに何も言わないことが、かえって気恥ずかしさを増長させた。
間を持たせるために、アンヌは必死に話題を考える。
「ええと…その、びっくりしちゃった!まさか、突然観覧車が止まってしまうなんてね。」
「そうだな。」
「怪我をしなくて本当によかったわ。…少し、緊張したけれど。これも良い思い出になるわ、きっと。」
ぎこちなく言葉を紡ぐアンヌだったが、グルートは深く突っ込んでは来ず、彼女はほっと胸を撫で下ろす。
緊張の原因は観覧車が止まったことだけではなかったが。例の件には触れず、アンヌは大袈裟に明るく振る舞った。
「安心したら、なんだか喉渇いちゃったわ。」
「…飲み物買ってくる。お前はここで待ってろ。」
「いいの?ありがとう。」
「勝手にどっか行くんじゃねぇぞ。」
グルートはアンヌに念を押して、近くのベンチに座らせると、目の前のフレッシュジュース店のカウンターに向かった。
彼女はその後ろ姿を目で追う。ーーと、また知らず知らずのうちに彼に意識が向いていることに気付いて、慌てて視線を外した。
(もう、どうかしてしまったのかしら…私…。)
彼女は憂いを帯びた眼差しを浮かべながら、控え目に溜め息を吐いた。どくん、と心の音が自身の存在を主張してくる。胸を手で押さえて、鎮まれと念じるが、抑え込もうとする程にかえって心は騒ぎ出す。思い通りにならないこの心は天の邪鬼なのだろうか。再び彼女の口から吐息が溢れた。
気を逸らそうと周囲の景色をぼんやり眺めていると、ふと通りの樹木の前で立ち尽くしている女の子が目についた。背丈はマリーと同じぐらいだろうか。自分より何倍も背の高い木をじっと見上げている。
その姿が気になってアンヌは立ち上がる。グルートは勝手に動くなと言っていたが、然程距離も離れていないので大丈夫だろうと、彼女は女の子に近づいた。
「どうしたの?」
「…ふうせん…わたしの…。」
柔らかく声をかけると女の子は目に涙を溜めながら、上を指差した。目を凝らすと木の上の方に赤い風船が引っかかっているのが見えた。
「パパとママもいなくなっちゃって…わたし…っう…うう…。」
「まあ…そうだったの。それは大変だったわね。もう大丈夫だから、安心して。」
女の子はどうやら迷子のようだった。両親とはぐれ、お気に入りの風船も手離してしまったらしい。ひとりでどうしていいかわからず、立ち尽くしていたのだ。
(さぞかし、不安だったでしょう。…何か私に出来ることはないかしら?)
グルートが戻ってきたら一緒に両親を探すのは良いとして、それまでの間、不安な彼女を元気付ける方法はないものかと、アンヌは考えた。
(…そうだわ!)
彼女は何かを思いついたように、はっと顔を上げ、再び枝に引っかかった風船を見つめた。
「…おねえちゃん。だいじょうぶ?」
アンヌを見上げる女の子はやや不安げに眉を寄せ、彼女に声をかけた。女の子がじっと見ているのは、木の枝に足を掛けるアンヌの姿。幹にしがみつきながら、器用に登っていく。
「大丈夫よ、こう見えて、私木登りは得意なの!」
お転婆なアンヌは幼少の頃、人目を盗んではよく屋敷の庭木に登って遊んでいた。屋敷のものよりは少し大きい木だったが同じ要領で登れるはずだと、昔の感覚を思い出しながら枝を掴んだ。
せめて風船だけでも取り戻して、彼女を元気付けてあげたかったのだ。
(もう少し…!)
枝先に糸が引っかかった風船までは、手を伸ばしても僅かに距離が足りない。掴んでいた手を幹に近い枝から、外側の枝へと移動させる。先端に近く度、枝が細くなり、足元もぐらついた。
カップに入ったミックスオレを片手に、グルートはアンヌの待つベンチへと向かう。
…が、そこにいるはずの彼女の姿がなく、彼は目を見開き、辺りを見渡す。まさかこの短い間に追手が彼女をーーと、思いかけて、周囲が騒ついているのに気がつく。
「おい…あの子大丈夫なのか?」
観衆の注目の先に目をやると、遊園地を彩る緑の並木と、木を見上げる小さな女の子、そして、それによじ登るアンヌの姿があった。人を支えるには頼りない細い枝に足をかけている。しなる不安定な足場は今にも折れてしまいそうだ。
グルートはさあっと血の気が引くのを感じながら、手に持っていたカップを投げ捨てて、駆け出していた。地面に投げ出されたミックスオレが彼の足並みに合わせて、びしゃっと跳ねた。
「あの阿呆…!ひとの言うこと全然聞かねぇなっ!」
どうしていつも彼女は無茶をするのか。今すぐに止めさせなければと彼の心には歯痒さと焦りの感情が湧き上がる。
届きそうな目の前の風船のことで頭が一杯になっている彼女は、気がついていないのだ。自分がいかに危うい状況にいるのかを。
更に枝先へと足をかけ、限界まで手を伸ばしたアンヌは漸く、風船の紐をその手に掴むことができた。
「やったわ!ねぇ、見て!あなたの風船はここにーー」
下にいる女の子に見えるように振り返り、風船を差し出した時だった。…バキッと割れるような音がした後、足場がなくなり、彼女の体は宙に浮いた。えっ、と驚きの言葉を溢す間もなく、しがみついていた手もざらざらした木肌を滑り、アンヌの体は重力に従うまま落下した。
「おねえちゃんっ!」
「アンヌッ!」
一刻も早く、アンヌの元に行かなければならないのに野次馬が邪魔をして、彼女のところまでたどり着けない。押し除け、人々の間を掻き分けながら、グルートは苛立った様子で舌打ちをする。
(クソッ!間に合ねぇーーッ!)
アンヌはグルートが名前を呼ぶ声が聞こえて、彼の言いつけを破ってしまったことを申し訳なく思った。ごめんなさいと心の中で謝りながら、どうか風船だけは割らないで済むよう両腕で包み込む。迫る痛みを覚悟して、固く瞼を閉じた。
群衆の悲鳴も彼女の耳には遠く聞こえた。
息を切らせながらグルートがアンヌの元にたどり着いた頃には、彼女の姿は木の上から消えていた。彼は最悪の事態を想像し、茫然とする。
…だが、そこにはもうひとつ見知らぬひとの後ろ姿があり、グルートは我に返って、冷静に状況を見つめ直す。
その人物は腰まで伸びた淡いピンクの髪を風に靡かせながら、高級感の漂う、ベージュの毛皮のコートを身に纏っている。ブルーとピンク、ブラックの鮮やかなマーメードドレスが汚れることも厭わず、彼女は地面に膝をつき、しっかりとアンヌを抱き抱えていた。
「…あれ……?わたし……。」
いつまで経っても襲いかかってこない痛みに不思議に思ったアンヌはぼんやりと瞼を開いた。
アンヌが真っ先に見たのは、グルートでも女の子の顔でもなく、つばの広い帽子を被った、玉のような肌をした美しいひとだった。サングラス越しに見える凛とした赤い瞳。その美貌と艶やかさに彼女は言葉を失った。
「あな…たは?」
アンヌが尋ねると女性は鮮やかな紅を緩ませて、色香の漂う微笑みを浮かべた。視線が合うと、彼女の赤い瞳の奥が、きらりと光ったような気がした。
「…ついに見つけたわ、虹色の卵を!」
彼女のその言葉が何を意味するのか。この時、アンヌには知る由もなかった。