shot.10 嵐の前の

「わあっ…!すごいわ、建物があんなに小さく見える…!」

 観覧車に乗るなり、アンヌはたちまち饒舌になり、いつもの調子を取り戻していた。客車の窓から食い入るように地上を見下ろし、はしゃいでいる。
 「ブレイヴとジェトも見つけられるかしら!」と嬉々としている彼女の様子を見守りながら、グルートもふっと小さく笑む。


「ライモンシティってとても大きな街なのね。…あれ、何かしら、随分と華美な建物だけれど…。」
「ああ、ミュージカルホールだな。その名の通りミュージカルの公演をやってるところだ。」
「そうなのね。是非拝見してみたいわ。」

 グルートは芸術関係にはさっぱりだったが、幼少期からバイオリンやピアノ、声楽などを嗜んできたアンヌはミュージカルホールに興味津々だった。

 暫く、景色を見ながらあれは何だ、それは何だとアンヌの質問攻めが続く。お陰でグルートも一緒になって、外の景色を凝視する羽目になった。



「ねぇ、グルート。」
「あ?今度は何見つけたんだ?」
「…ううん。…こうしてふたりでお話しするのって、久しぶりね。」


 景色を眺めている最中に、不意にアンヌが言葉を溢す。グルートはアンヌの横顔を盗み見た。彼女の視線は窓の外を向いたままだ。


「最初はふたりだけだったのにね。沢山のひとに出会って、一緒に旅をして…。こんなことになるなんてお屋敷にいるときは思いもしなかった。」
「…そうだな。」
「ありがとう、グルート。今の私があるのはあなたのおかげよ。」
「…なんだよ急に。菓子でも買って欲しいのか?」
「そういう意地悪なことは言わないの!」

 にやりと、勝ち誇ったようなグルートの悪い笑みを見るのも久しぶりだ。「照れ隠しね。」とアンヌは詰め寄るが、グルートはすました顔で「さあな。」とそっぽを向いた。

(どうして、こんなひとにどきどきしてしまったのかしら!)

 こういう時はどういたしましてと素直に返せばいいのに、とアンヌはむっと頬を膨らませた。
 その頬の膨らみ具合に、グルートは合点がいったように、ああ!と声を上げた。

「ビッパの物真似か?」
「してません!もう、どうしてあなたはいつもそうーー。」

 アンヌはバッと衝動的に立ち上がる。すぐに悪態をついて他人を揶揄う彼に一言物申そうと口を開きかけた。
 だが、その途端ーー客車が大きく揺れ、彼女の言葉は途切れた。

「きゃ…!」

 突然の揺れにバランスを崩し、立っていた彼女はよろめき、転けそうになる。それをグルートが身を乗り出し、素早く体を受け止めた。

「大丈夫か?」
「う…うん…ありがとう。」
「…どうやら機械トラブルみてぇだな。」

 彼の言う通り、先程まで動いていた観覧車の動きは停止していた。しかもよりによってアンヌ達が乗っている客車は、頂点の辺りで宙吊りの状態になっている。
 アンヌは動かなくなった景色を見て、不安げに眉を寄せる。高さが際立ち、今にも落ちてしまいそうで彼女は反射的にグルートの背を掴んでいた。

「心配すんな。待ってりゃそのうち直るさ。気長に待とうぜ。」
「……うん。」

 なるべく外の景色は意識しないように、アンヌは彼の胸に埋まったままでいた。彼が纏う煙草の匂いと共にどくどくと脈打つ、彼の心臓の音が聞こえてくる。やや性急に拍動するそれを耳にしていると、忘れかけていた彼女の胸の高鳴りも戻ってくる。


(…まただわ。グルートと一緒にいると…胸の辺りが苦しくなるの。)


 背中に回された彼の手が熱い。緊張と彼に包まれている安堵感が交互にやってくる。耳のいい彼にはこの鼓動も聞こえてしまっているのだろうか。
 ーーそう思うと再び、脈が騒ぎだし、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚になった。



「…おい。」

 今まさに心に描いていた彼に声をかけられ、アンヌは驚き、びくっと体を跳ねさせた。
 彼女が顔を上げたのと同時に、その額に彼の大きな手のひらが触れる。何事かわからず、彼女は息を止めて硬直した。

「顔が赤いが…熱はねぇみてえだな。」
「え、…っ…。」
「いや、また無理してんじゃねぇかと思ってよ。」
「だ、大丈夫…!大丈夫だからっ!」
「…そうか?」

 グルートの熱い眼差しがじっと見つめてくるのが、アンヌには堪らなかった。
 言われてみれば確かに顔が火照っているように感じる。指摘された羞恥から、彼女は目を伏せて、せめて顔を見られぬよう、再び彼の胸に埋まった。


(…グルート…。)

 髪を撫ぜる彼の手つきが優しくて、彼女は無性に切なくなる。アンヌの強張る感情を落ち着かせようとしてくれているのだろう。

 
(このまま、時が止まってしまえば良いのに…。)

 離れたくないというアンヌの想いが彼女に我が儘な感情を芽生えさせる。偶然でも、奇跡でも構わない。いつまでも彼の逞しい腕に包まれていたい、と。
 …そう願ってしまうのは、同時にそれが永遠には続かないということを知っているからなのだろう。
 
 ーーいつまでこうしていられるの?

 彼に包まれている安らぎの背後に迫る、冷酷な眼差しを感じて、彼女は震えた。
 今だけは何も見ない、知らないままで。彼の温もりの側にいたいと、アンヌは希った。
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