shot.1 令嬢誘拐
右へ、左へ、交互に寝返りをうってみるが、一向に眠気はやってこない。
(眠れない……。)
諦めて上体を起こし、ベッドサイドテーブルに付属しているデジタル時計を見ると、もう23時を過ぎていた。早寝早起きを心掛け、いつも21時には寝ているアンヌからしてみれば遅い時間だ。
やはり突然突きつけられた結婚のことが応えているようで。そのことを意識して消そうとしても、そうすればするほど、気持ちは重くなる。
一族にとって、結婚はこの上無い幸福。とても有難いことのはずなのに、アンヌはちっとも楽しい気分になれなかった。
枕元に置いてあるチラーミィのぬいぐるみを抱き締める。もし結婚をしたら、小さい頃から一緒にいるこの子とも一緒に眠れなくなるのだと思ったら、とても寂しく感じた。隣にいるのはぬいぐるみではなく、知らない男のひとになるのだろう。愛していない、男のひとが。
ぬいぐるみを抱き締める力が強くなる。
……だが、幾ら嫌でも、差し迫る運命に逆らう術などアンヌにはなかった。
◇◆◇◆◇
何度目かのため息を吐き出した時、突然、窓を叩くようなドンドン、という震動音が聞こえた。アンヌは驚きながら音のする方へと視線を向ける。空耳かと思ったが――、しかし途端に音はしなくなり、部屋はしんとなる。それが不気味でかえって気になってしまう。普段ならなんてことはない風の音だと流すところだが、いつもより過敏になっているアンヌは、無視をすることができなかった。
(少しだけなら……いいわよね?)
リヒトは部屋から出てはいけないとしか言っていない。カーテンから窓の外を覗くぐらいは許されるだろうと、ベッドを出て音の方へと歩みを進める。音がしたのはテラスの方からだ。桃色のカーテンに手をかけ、恐る恐る外を見る。――すると、掃き出し窓の向こうに、何か、黒い影が見えた。凝視をしていると目が慣れてきたのか、部屋の薄明かりの中でも段々とシルエットがはっきりしてくる。
「!」
影が動き、確かに視線が合った。アンヌの身に付けている赤いペンダントと同じ色をした鋭い目。荒々しい眼差しに、どきどきと心臓が激しく拍動する。アンヌは恐怖を感じて、カーテンを閉じようとしたが、その時、視線が途切れ、窓の向こうの影は目を閉じて窓に体を打ち付けるようにして倒れてしまった。そこで初めてアンヌは、その影が実態のある生き物だということに気がつく。やはり、気のせいなどではなかったのだ。
しかし正体の片鱗が見えてもまだ、安心は出来なかった。そのポケモンのような生き物は怪我をしているようだったからだ。だが、こちらを敵意のある眼で睨み付けてきた相手。窓を開けた瞬間、攻撃されてしまうかもしれない。そう思うと体が竦み、躊躇われる。いっそ何も見なかったことにしてやり過ごしてしまった方がいいのではないか、という気さえ起こる。
(……でも。)
怖いからといって、傷ついた彼をこのまま放って置いて良いのだろうか。もし、ここでこの子を見捨てて、命を落とすようなことになったら――、それこそ人として恥ずべき行いではないかとアンヌは、はっとした。
リヒトには申し訳ないと心の奥で謝り、説教を覚悟でアンヌは掃き出し窓を慎重に開けた。
ぶわっと、冷たい夜風が部屋に入ってくる。それと共に窓にもたれ掛かる形になっていた生き物がずるり、と力なく部屋の中に倒れ込んだ。近くで見ると、思っていた以上に酷い怪我をしていて、アンヌは辟易した。深い切傷が身体中にあり、黒い皮膚の表面は抉れているところもあった。
「待っていてね。今、傷薬を持ってくるから!」
しかし驚いている場合ではなかった。今はとにかく、一刻も早く彼を手当てしなければいけない。アンヌは記憶を頼りに棚の上にある、救急箱を見つけ出した。そして、窓際に倒れている重い体を引っ張り、部屋の奥まで連れてくる。
「ごめんなさい。……少し痛いかもしれないけれど。」
怪我の処置は講師に習ったことがある。しかし、実践するのは初めてだったのでアンヌは緊張していた。震える手でガーゼを持ち傷口を押さえながら、スプレー型の傷薬を彼の傷に噴射する。アンヌの言った通り、傷に染みるのか彼はグウッと低い呻き声を上げた。
「大丈夫よ、大丈夫だから。」
やり方は間違っていないはずだが、苦しそうな声を聞くと不安になってしまう。彼を宥めながら、自分に言い聞かせるようにアンヌは同じ言葉を繰り返した。
(眠れない……。)
諦めて上体を起こし、ベッドサイドテーブルに付属しているデジタル時計を見ると、もう23時を過ぎていた。早寝早起きを心掛け、いつも21時には寝ているアンヌからしてみれば遅い時間だ。
やはり突然突きつけられた結婚のことが応えているようで。そのことを意識して消そうとしても、そうすればするほど、気持ちは重くなる。
一族にとって、結婚はこの上無い幸福。とても有難いことのはずなのに、アンヌはちっとも楽しい気分になれなかった。
枕元に置いてあるチラーミィのぬいぐるみを抱き締める。もし結婚をしたら、小さい頃から一緒にいるこの子とも一緒に眠れなくなるのだと思ったら、とても寂しく感じた。隣にいるのはぬいぐるみではなく、知らない男のひとになるのだろう。愛していない、男のひとが。
ぬいぐるみを抱き締める力が強くなる。
……だが、幾ら嫌でも、差し迫る運命に逆らう術などアンヌにはなかった。
何度目かのため息を吐き出した時、突然、窓を叩くようなドンドン、という震動音が聞こえた。アンヌは驚きながら音のする方へと視線を向ける。空耳かと思ったが――、しかし途端に音はしなくなり、部屋はしんとなる。それが不気味でかえって気になってしまう。普段ならなんてことはない風の音だと流すところだが、いつもより過敏になっているアンヌは、無視をすることができなかった。
(少しだけなら……いいわよね?)
リヒトは部屋から出てはいけないとしか言っていない。カーテンから窓の外を覗くぐらいは許されるだろうと、ベッドを出て音の方へと歩みを進める。音がしたのはテラスの方からだ。桃色のカーテンに手をかけ、恐る恐る外を見る。――すると、掃き出し窓の向こうに、何か、黒い影が見えた。凝視をしていると目が慣れてきたのか、部屋の薄明かりの中でも段々とシルエットがはっきりしてくる。
「!」
影が動き、確かに視線が合った。アンヌの身に付けている赤いペンダントと同じ色をした鋭い目。荒々しい眼差しに、どきどきと心臓が激しく拍動する。アンヌは恐怖を感じて、カーテンを閉じようとしたが、その時、視線が途切れ、窓の向こうの影は目を閉じて窓に体を打ち付けるようにして倒れてしまった。そこで初めてアンヌは、その影が実態のある生き物だということに気がつく。やはり、気のせいなどではなかったのだ。
しかし正体の片鱗が見えてもまだ、安心は出来なかった。そのポケモンのような生き物は怪我をしているようだったからだ。だが、こちらを敵意のある眼で睨み付けてきた相手。窓を開けた瞬間、攻撃されてしまうかもしれない。そう思うと体が竦み、躊躇われる。いっそ何も見なかったことにしてやり過ごしてしまった方がいいのではないか、という気さえ起こる。
(……でも。)
怖いからといって、傷ついた彼をこのまま放って置いて良いのだろうか。もし、ここでこの子を見捨てて、命を落とすようなことになったら――、それこそ人として恥ずべき行いではないかとアンヌは、はっとした。
リヒトには申し訳ないと心の奥で謝り、説教を覚悟でアンヌは掃き出し窓を慎重に開けた。
ぶわっと、冷たい夜風が部屋に入ってくる。それと共に窓にもたれ掛かる形になっていた生き物がずるり、と力なく部屋の中に倒れ込んだ。近くで見ると、思っていた以上に酷い怪我をしていて、アンヌは辟易した。深い切傷が身体中にあり、黒い皮膚の表面は抉れているところもあった。
「待っていてね。今、傷薬を持ってくるから!」
しかし驚いている場合ではなかった。今はとにかく、一刻も早く彼を手当てしなければいけない。アンヌは記憶を頼りに棚の上にある、救急箱を見つけ出した。そして、窓際に倒れている重い体を引っ張り、部屋の奥まで連れてくる。
「ごめんなさい。……少し痛いかもしれないけれど。」
怪我の処置は講師に習ったことがある。しかし、実践するのは初めてだったのでアンヌは緊張していた。震える手でガーゼを持ち傷口を押さえながら、スプレー型の傷薬を彼の傷に噴射する。アンヌの言った通り、傷に染みるのか彼はグウッと低い呻き声を上げた。
「大丈夫よ、大丈夫だから。」
やり方は間違っていないはずだが、苦しそうな声を聞くと不安になってしまう。彼を宥めながら、自分に言い聞かせるようにアンヌは同じ言葉を繰り返した。