shot.8 なくしたもの

「ん…うう……。」

 気怠い感覚と共にアンヌはぼんやりと意識を取り戻す。沈んでいるような錯覚に陥る程、体が重い。閉じそうになる瞼を抉じ開けて、何度も瞬きをした。
 全身に巣食う虚脱感を振り切り、体を起こす。しかし、目覚めたはずなのに辺りは真っ暗だ。まだ寝ぼけているのだろうかと目を擦ってみたが、やはり景色は変わらなかった。


「ここは…どこ?」

 黒一色の何も無い世界。虚空、虚無。強いていうならば、不気味な冷気が体に纏わりついている感覚があるということぐらいだろうか。

「グルート!ブレイヴ!…誰か、いるなら返事をして頂戴!」


 仲間の名前を呼んでみる。しかし、自分の声が虚しく闇に消えていくばかりで、返ってくる声は無かった。誰もいないことを改めて実感すると、胸の奥がざわつき、不安な気持ちが顔を出してくる。
 ここは何処なのか。何故、自分はこんなところにいるのだろうか。ーーーもしかすると、まだ夢の中にいるのかもしれないと思った。


「…ウッ…ウゥッ…。」

 そんな折に彼女の心細い想いを代弁するような悲しみに満ち溢れた泣き声が、耳に入った。
 アンヌは辺りを見渡し、その泣き声の在り処を探す。自分が今どこにいるのかもわからなかったが、彼女の感覚的には前方に足を進めていた。

「誰か…いるの?」

 程なくして、彼女は暗闇の世界で蠢く“何か”を見つけた。
 闇の中でそこだけ浮かんだような、在るようで、無いような不安定な靄。辛うじて人のシルエットに見える。目を凝らしその正体を探っていたが、ある時、彼女はふっと思い出したように目を見張った。


「そういえば…私…。」


 片言の声、首を締める圧迫感。息苦しくて堪らないのに、耳に響く声があまりにも憐れで、もどかしくて。自身が危機に瀕していることも忘れて、見知らぬ相手のことを案じてしまっていた。その体を両腕で包んであげたい。けれどこの手は届きそうで、届かず…それからのことは覚えていない。


「あなた…なの?私を悲しい声で呼んでいたのは…。」

 遠慮がちにアンヌは人型の靄に問いかける。曖昧にしか見えないながら、彼女にはその主が怯えているように感じた。『ボク……ヲ……ヒトリ…ニ……シ…ナイ……デ…。』気が遠くなる前に聞いた切実な声。それが彼のものなのだろうということは直感的にわかった。


「ウッ…アア…。」
「怖がらないで、私はあなたを攻撃したりしないわ。」

 アンヌは手を差し伸べて、彼に触れようとしたが、稲妻のような鋭い力で跳ね除けられる。攻撃が当たった瞬間、アンヌの頭の中に、朧げながらひとりの少年の姿が浮かんだ。

「きゃあっ!」

 アンヌの体は少し離れた場所まで突き飛ばされ、地に叩きつけられる。
 …だが、体に響く痛みよりも胸を締め付ける痛みの方が、彼女には堪えた。

 靄に触れた時、見えた少年は真っ暗な世界で、孤独に震えながら泣いていたのだ。
 それはまるで、昔の自分を見ているようで。


「ボク…ハ…ヒトリ……ヒトリ…。」


 アンヌは顔を上げて、靄の姿を見失わないようにじっと見つめた。彼女は悲痛そうに呟く彼の事を放ってはおけなかった。…先の件のことを鑑みると、この期に及んで彼を救おうとするなど、甘いのかもしれない。けれど見捨てて後悔するぐらいなら、可能性を信じて、闇に飛び込む方を選ぶ。彼女はそういう人間だった。


「そうね、はじめましてのご挨拶がまだでしたものね。」

 アンヌは意を決したように立ち上がり、ぱんぱんとスカートの皺を整える。
 初対面の挨拶は柔らかく、丁寧に。彼を怖がらせないようにアンヌは微笑みを浮かべた。穏やかな調子で紡がれる彼女の言葉は、冷たい世界に和やかな空気を生み出す。


「私はアンヌ・シャルロワ。シャルロワ家の長女よ。今は訳あってお家を出て、旅をしていてね。お陰で素敵なお友達が沢山出来たの。」
「トモ…ダチ……。」
 
 彼はアンヌを拒絶するような態度をとっていたが、彼女のその言葉に引っ掛かりを感じたようで、僅かに反応した。
 彼の意識が少しでも向いたことが嬉しくて、アンヌは大きく頷く。


「私ね、ご先祖さまから代々受け継がれているとても立派なお屋敷に住んでいたの。デザートも好きなだけ食べることができて、煌びやかなドレスもお部屋いっぱいにあったわ。」

 大きく手を広げたり、ダンスの仕草をしてみたりと、アンヌは楽しそうに身振り手振りを交える。
 しかし、屋敷での華やかな暮らしを思い出せば、同時に彼女の心には暗い影も落ちた。

 広げた両手を下ろす。胸に手を当てて、彼女は豊かさの裏側にある、悲しい記憶を思い出す。屋敷を囲っていたあの堅牢な壁。自由の無い、孤独な世界。外の世界へ行く事など、夢物語だった。


「でもね…私、お屋敷ではひとりぼっちだったの。お話を聞いてくれるひとはいたけれど……心は遠くて……助けを求めても誰も耳を傾けてはくれなかった。」

 兄のように慕っていたリヒトも遊び相手になってくれた家政婦も、結局はシャルロワ家に仕える“従”であって、望んで彼女の側にいた訳ではなかった。友達、という気取らない対等な関係だと思っていたのは彼女だけだったのだ。

 アンヌの心はいつもどこか空虚で、満たされず、寂しい想いをしていた。


「あなたもそうなのでしょう?……寂しくて、苦しくて…誰かに助けて欲しい。だから私をここに呼んだ。違うかしら?」
「………。」
「私はあなたを助けたい。だから、一緒にここを出ましょう?」


 再び、アンヌは靄に手を差し伸べた。また跳ね除けられてしまうかもしれない。けれど、彼女はそれでも構わないと覚悟していた。例え言葉が通じなくとも、気持ちを込めて接すればいつか必ず、想いが届くと確信していたからだ。
 ーーかつてグルートが屋敷から連れ出してくれたように、アンヌも目の前の彼を、この闇の中から連れ出そうとしていた。


 人型の靄は何も言わなかった。
 …けれど、泣き喚いていた彼の声が、大人しくなった事は確かだった。
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