shot.8 なくしたもの

 石の扉を潜り抜け先へ進むと、謁見の前のような開けた場所に出た。複数の石柱が門のように対称的に立ち並んでいて、その間には、辺りの床に比べて明るい色の石が敷き詰められている。まるでカーペットが敷かれた歩行路のようだ。歩行路の先には入り口にもあった壺と、古代文字のようなものが描かれた壁画、そして細長い金色の箱があった。


「!…あれは…。」

 その箱にグルートは見覚えがあった。シッポウ博物館で見た、ミイラの棺だ。紛失したといわれていたものが何故、ここにあるのだろうか。それも出土した場所である、古代の城に。…まるで棺が意志を持ち、自ら戻ってきたようではないか。

 不審に思いながらも、グルートは警戒しつつ、足早に歩行路を進み、棺へと近づいていく。
 ソフィアが言うには、アンヌの気配はこの近くの筈だ。ならば、近辺を調べれば彼女の手掛かりが見つかるかも知れない。

 棺の蓋に手を掛ける。レックスの力を以ってしても微動だにしなかった棺の蓋が、僅かな力で動くことに気づいた。拍子抜けしながら、そのままぐっと上に持ち上げる。


「…っ!」

 すると彼は驚愕のあまり、慎重になることも忘れ、突如、棺の蓋を乱雑に放り出した。
 蓋を開けた棺の中にいたのは、白骨化したミイラではなく、


「アンヌ!おい、しっかりしろッ!」

 鮮やかなマリンブルーの瞳は閉じていて。穏やかな表情を浮かべる彼女は、永い眠りについているようだった。
 慌てて彼女の体を抱き上げ、棺から出す。上体を起こし、目を覚まさせようと何度も肩を揺さぶる。
 しかしアンヌは目覚めない。…彼女の体は少しの抵抗もなく、グルートの方に凭れかかった。

 全身の血が逆流するような嫌な予感を感じて、彼は咄嗟にアンヌの胸に耳を当てる。

 彼女の心臓の音が、聞こえない。


 どく、どく、と自分の心臓が拍動する音だけがいやに大きく響く。
 棺桶に入れられ、停止した心臓。これではまるで、本当に彼女がーーー。


 彼女の心臓に耳を傾けてから何も言わなくなったグルートを見て、察したタイガは伏し目がちに、項垂れる彼から視線を逸らした。


「…生き物は遅かれ早かれ皆、死ぬ運命さ。仕様がないんだよ。少し早まっただけさ。」

 タイガの声は小さくも重く、辺りに木霊する。しかし、グルートの耳にはそれすら入ってこず、ただ茫然とすることしかできなかった。


 ーー残像が、彼の脳裏に過ぎる。閉じ込めていたあの日の記憶がアンヌと重なり、走馬灯のように頭の中に映し出された。
 両手を染めた、鮮やかな赤。横たわる彼女も同じ色に塗れていた。
 自分が彼女にしてやれることは何もなく、その灯火が消えて行くのを肌で感じて、無様に喚くことしか出来なかった。



「………俺は……また…。」


 繰り返される悲劇。見つめた両手は震えていた。行き場の無い昂りと、封じ込めた悲しみが彼の傷を疼かせる。



 ーーー絶望という病魔に侵された彼は気づいていなかった。アンヌの影に潜む、強大な闇からの使者に。彼女の影が歪み、黒い手が密かに姿を見せる。


「グルートさん!危ないッ!」
 
 邪悪な気配を感じ取ったソフィアの呼びかけで、グルートは、はっと我に返る。アンヌの影から伸びた大きな黒い手が、紫色のエネルギーの球体を作り、投げられた球体はグルートに向かってきていた。それはポケモンの技である[シャドーボール]に似ていた。

「ぐっ…!」

 何度か背中に攻撃を受けながら、アンヌを抱えてその場を離れる。致命傷には至らなかったが、痛みに思わず顔を顰めた。唯一、アンヌの体に傷が付かなかったのが幸いだった。
 黒い手は空の棺の中へ入り込み、地面に落ちていた蓋が吸い込まれるように飛来し、棺の蓋を閉じた。
 途端、棺桶が黒いオーラを纏いながらひとりでに浮遊し、辺りに重苦しい気配が満ちる。

「ウッ…ウゥッ…」

 何もないはずの棺桶の中からすすり泣くような声が聞こえる。さっきの黒い手の主だろうか。…人ならざるもの、ポケモンならざるもの。どちらでもない不安定な存在に見える。

「…ソフィア、アンヌを頼む。」
「グルートさん……。」

 だが、相手が何であれ、グルートに恐怖はなかった。恐怖以上の怒りと悲しみが彼の心に在ったからだ。
 アンヌをソフィアに託し、彼は立ち上がる。固く握りめた拳は圧迫され、ひどく赤くなっていた。

「てめぇか…てめぇがアンヌをやったのか…。」
「ウ…ウゥッ…。」

 振り返り、グルートは棺を睨み付ける。血湧き肉躍る、激情に支配された彼は憤怒の炎を身に纏った。
 棺桶の怪物を睨みつける彼の眼光はぎらぎらと、憎しみの色を放つ。
 

「てめぇだけは、必ず…地獄の底に叩き落してやる!」

◇◆◇◆◇


 ソフィアは地面に腰を下ろし、ぐったりと横たわるアンヌの体を支える。確かに彼女の耳にもアンヌの心臓の音は聞こえなかった。

「アンヌちゃん…。」

 どうしようもないもどかしさに駆られて、ソフィアは彼女の手を包み、ぎゅっと握り締める。…せめて彼女が凍えないよう、温もりを分かち合いたかったのだ。
 だが、彼女の手に触れたソフィアは悲しみから瞬間、何かに気がついた様子で、驚いた表情を浮かべた。

「えっ…、これって…。」

 僅かにソフィアの脳裏に映った感情の色。まさか、と半信半疑で彼女はもう一度強くアンヌの手を握り、神経を集中させる。繋いだふたりの手から柔らかな光が溢れた。



「ーーうおおらあああッ!!」

 一方、グルートは我を忘れたように悲しみと怒りに身を任せ、棺桶の怪物に向かって攻撃を繰り返す。当たらない[悪の波動]、攻撃が効いていないのは明白だというのに、彼は頭に血が上っており、溢れる破壊衝動を制御できない。

「どうせ奴には攻撃が当たらないんだ。無意味なことは止めなよ。…彼女が戻ってくる訳じゃァ無い。」

 憐みに満ちた眼差しでタイガはグルートを見る。無意味に力を奮い続け、狂乱する彼の姿はあまりにもタイガの目に愚かしく見えた。
 グルートは棺桶の怪物に向けていた鋭い眼差しをそのままタイガに向ける。そして乱暴に彼の胸倉に掴みかかり、顔を引き寄せた。

「…うるせぇ、邪魔するならてめぇもぶっ飛ばすぞ!」
「…!」

 タイガの忠告も今の彼には耳に入らないどころか、怒りを増幅させるだけのようで。飢えた獣のような目をしながら、彼は荒々しく言葉を吐き捨てた。他人の声など悠々と躱してしまうタイガでさえも、そのプレッシャーに恐れ慄き、言葉を失う。
 タイガの胸倉を突っぱねるように離し、グルートは再び無意味な攻撃を繰り出す。しかし攻撃を放つ度、傷が増えていくのは彼の体の方だった。

「クソ…ッ…!何で、当たらねぇんだよッ!」

 苛立ちと焦燥感だけがグルートの心に募る。乱れた感情は繰り出す技にも現れ、いつしか照準すら合わなくなり、彼の[悪の波動]は四方八方に離散する。壁や天井の一部が削ぎ落とされるだけだった。

 棺桶の蓋の隙間から黒い手が伸びて、再び[シャドーボール]に似たあの技が繰り出された。隙だらけで、相手の様子を観ることを怠っていたグルートには避ける事が出来ず、全弾が命中する。

「ぐあっ…!」

 体ごと吹き飛ばされ、地面に転がり回る。全身の骨に響くような痛みに彼は悶え苦しんだ。
 横たわり荒れた息を感じながら、彼は悔しげに、地面に拳を叩きつける。何も出来ない自分の無力さが身に染みて、苛立ちばかりが心を満たす。
 あの敵を倒さなければいけないという、漠然とした義務感と憎しみだけがグルートを突き動かしていた。
 朽ちた心と体で、彼は尚、立ち上がろうと地面を這い蹲る。彼の体を支える手は不安定で、震えていた。


「ーー待って…待って!グルートさん!」

 ソフィアの声が響く。またタイガのように自分の動きを止めようとする声なのだろうと、グルートは耳を貸そうとしなかった。

「アンヌちゃんは生きてる!強く、温かな気持ちが残っているの!」

 だが、ソフィアから溢れた言葉は、暴走する彼をも立ち止まらせた。真偽を疑う間も無く、彼は振り返り、ソフィアとアンヌがいる方に視線を移す。
 ソフィアとアンヌが繋いだ手からは溢れる光は、小さくも力強く輝いている。その優しい光はグルートに温かな懐かしさを思い出させた。


「君、そんな叶わない希望、…抱かせる方が残酷だよ。」

 一縷の光にタイガは唾を吐く。心臓が止まっているのに生きているなどあり得ない、常識的に考えれば彼の言っていることの方が正論だった。
 しかしそれでもソフィアは力強く首を横に振り、確信めいた様子で彼の言葉を跳ね除ける。

「ううん、叶う。それはグルートさんが一番わかってるはずだよ。」
「……俺が…。」
「アンヌちゃんの精神は今、苦しみの中で戦ってる。…でも、君の知ってるアンヌちゃんなら負けたりしない。そうでしょ?」

 強い語気で断言する彼女は、凛々しく、その固い意志は悲しみの中でより煌めきを増す。

 アンヌがまだ生きているかもしれない、だが、それは遽には信じ難いお伽話のような話だ。
 それでも心は、ひとつの可能性を信じたがる。願ってしまうのだ。自棄になったつもりでも、そう簡単に希望というものは棄て切れない。
 …失いたくない。失ってなるものかと、グルートは彼女のもう片方の手を、両手で衝動的に握り締めていた。

 記憶の中で、微笑みながら自分の名前を呼ぶ彼女の声が、何度もグルートの耳の奥で響いていた。
10/16ページ