shot.7 手招く影
あれよあれよという間にブレイヴは皿を空にした。空腹を満たし、気持ちも落ち着いたらしい彼は部屋でアンヌと他愛ない話をしていた。ハンバーガーなら幾らでも食べられるとか、ファイアーブレイズのリーダーの心構えとか。中でも宇宙一可愛い彼女を作るという夢を彼は熱く語っていた。
「ぐー…ごぉー……。」
強い願望を宣言すると一通り満足したのかブレイヴは会話の途中で眠りに落ちてしまった。通りで問いかけへの反応も薄くなっていたわけだ。悠々と息を吸い、鼻の奥を突き上げるような豪快な鼾を吐き出している。ミイラに怯えて、縮こまっていたのが嘘のようだ。
嵐のような彼の気まぐれに翻弄されながらも、陽気な彼の姿にアンヌはほっと胸を撫でおろし、心の奥のつっかえが取れたような安堵を感じていた。やはり我が道を行く、この奔放さがなければ張り合いがない。
大の字でベッドに寝そべるブレイヴの体に布団をかける。無防備に寝息を立てる彼は少年のようだった。
ふわあ、とアンヌも大きな欠伸をひとつ溢した。気持ちよさそうに眠るブレイヴに倣って、そろそろ自分も部屋に戻って眠ろうと思った。
「おやすみなさい、ブレイヴ。」
「ん……ああ……ぐぅ……。」
彼を起こさないよう小さな声で。もしかすると夢の中で相槌を打ってくれたのだろうか。アンヌはくすっと微笑して、彼の部屋を後にした。
◇◆◇◆◇
足元を照らすだけの廊下の薄明かりを頼りに、アンヌは用意してもらった部屋に向かっていた。思っていた以上にブレイヴと話し込んでいたのだろう。一階のリビングから聞こえていた賑やかな声はもう聞こえない。照明も消え、パーティーは終わったようだ。
しんと寝静まった世界はアンヌがひとりであることを闇の中で際立たせた。
一歩進むと、彼女を追いかけるように、乾いた足音が返ってくる。パン…パン…。少しスリッパのサイズが大きく、大袈裟に音が響いているように感じられた。他の人の部屋の前を通る時は用心して、つま先を立てながら足を潜めた。
通り抜け、アンヌは立ち止まって一息吐く。
――ギシッ…ギシッ……。
背に張り付くように足音が聞こえた。まだ起きていた人がいたんだと、彼女は振り返る。ひょっとすると部屋が近いグルートかもしれない。
しかし、振り返った先でアンヌが目を凝らしてもそこに人の姿はなく。感じた人の気配は気のせいだったのだろうか。
階段近くの窓が揺れているのが見えて、アンヌは拍子抜けした。
(なんだぁ、風の音だったのね。)
心拍数が少し、速くなった。けれど、原因を知れば大したことはない。彼女は悪戯な風を心の中で咎めながら、部屋の扉を開けた。
ふかふかの羽毛に顔を埋めると、思わず顔が綻んでしまう。無意味に左右に転がり、肌触りの良い柔らかな布地を堪能する。心も体も張りつめていたのだろう。心地良さに浸りながら瞳を閉じれば、ずぐに微睡みへと吸い込まれていく。
幸せいっぱいの夢の国へ、口元に弧を描きながらアンヌは飛び立とうとしていた。
――だがその羽根をもぐように、アンヌに突如息苦しさが襲い掛かる。強い力がアンヌの動きを捕らえている。悪い夢に誘われようとしているのか。額に汗が滲み、弛んでいた表情が苦悶に歪んだ。
「……!」
重い瞼を僅かに開くと、ベッドサイドの小さな明りが、紫の色を纏っている影が揺らめいているのを映し出していた。既に悪夢の中なのか。天井に滞留する影の中から伸びた人間の手のようなものが、アンヌの首元を押さえている。声を上げようとするが、容赦なくギリギリと首を絞めつける力に、息継ぎすらまともに出来ず、口を開いたまま硬直することしか出来ない。この苦しみは夢ではない、現実だ――。
凹凸に波打ち歪むアンヌの視界。まるで彼女を闇に道連れにしようとしている影の使者。このまま死の世界へと連れて行かれてしまうのだろうかと、妙に落ち着いた頭でぼんやり考えていた。
『ボク……ヲ……ヒトリ…ニ……シ…ナイ……デ…。』
誰かの声。アンヌは薄れゆく意識の中でまたその声を聞き取った。――今、この場にいるのはアンヌとその影の使者だけだ。自分の声でないとすると、つまりそれは。
アンヌの頬にぽつぽつと雨粒が降り注いだ。底なし沼のような深い悲しみと、孤独の色を滲ませた声の主は、闇の中で苦痛に喘ぎ、悶えているように見えた。
(泣いて…いるの…?)
命の危機に曝されているというのに、それよりもアンヌは彼のことが気がかりだった。彼は救いを求めている。誰かが手を差し伸べてくれるのをずっと待っているのだと直感的に思った。
アンヌは最早力の入らない手を天に伸ばそうとする。この意識が途絶えてしまう前に、彼の心を包んであげたかった。
しかし、手は届かず、宙で止まったまま。無数の手が彼女の命を求めるように伸びてきて、アンヌの世界は漆黒に染まる。音もなく、彼女の体は影の中へと溶けていく。
乾いた音を立てて、彼女のペンダントが床に転がり落ちた。
「ぐー…ごぉー……。」
強い願望を宣言すると一通り満足したのかブレイヴは会話の途中で眠りに落ちてしまった。通りで問いかけへの反応も薄くなっていたわけだ。悠々と息を吸い、鼻の奥を突き上げるような豪快な鼾を吐き出している。ミイラに怯えて、縮こまっていたのが嘘のようだ。
嵐のような彼の気まぐれに翻弄されながらも、陽気な彼の姿にアンヌはほっと胸を撫でおろし、心の奥のつっかえが取れたような安堵を感じていた。やはり我が道を行く、この奔放さがなければ張り合いがない。
大の字でベッドに寝そべるブレイヴの体に布団をかける。無防備に寝息を立てる彼は少年のようだった。
ふわあ、とアンヌも大きな欠伸をひとつ溢した。気持ちよさそうに眠るブレイヴに倣って、そろそろ自分も部屋に戻って眠ろうと思った。
「おやすみなさい、ブレイヴ。」
「ん……ああ……ぐぅ……。」
彼を起こさないよう小さな声で。もしかすると夢の中で相槌を打ってくれたのだろうか。アンヌはくすっと微笑して、彼の部屋を後にした。
足元を照らすだけの廊下の薄明かりを頼りに、アンヌは用意してもらった部屋に向かっていた。思っていた以上にブレイヴと話し込んでいたのだろう。一階のリビングから聞こえていた賑やかな声はもう聞こえない。照明も消え、パーティーは終わったようだ。
しんと寝静まった世界はアンヌがひとりであることを闇の中で際立たせた。
一歩進むと、彼女を追いかけるように、乾いた足音が返ってくる。パン…パン…。少しスリッパのサイズが大きく、大袈裟に音が響いているように感じられた。他の人の部屋の前を通る時は用心して、つま先を立てながら足を潜めた。
通り抜け、アンヌは立ち止まって一息吐く。
――ギシッ…ギシッ……。
背に張り付くように足音が聞こえた。まだ起きていた人がいたんだと、彼女は振り返る。ひょっとすると部屋が近いグルートかもしれない。
しかし、振り返った先でアンヌが目を凝らしてもそこに人の姿はなく。感じた人の気配は気のせいだったのだろうか。
階段近くの窓が揺れているのが見えて、アンヌは拍子抜けした。
(なんだぁ、風の音だったのね。)
心拍数が少し、速くなった。けれど、原因を知れば大したことはない。彼女は悪戯な風を心の中で咎めながら、部屋の扉を開けた。
ふかふかの羽毛に顔を埋めると、思わず顔が綻んでしまう。無意味に左右に転がり、肌触りの良い柔らかな布地を堪能する。心も体も張りつめていたのだろう。心地良さに浸りながら瞳を閉じれば、ずぐに微睡みへと吸い込まれていく。
幸せいっぱいの夢の国へ、口元に弧を描きながらアンヌは飛び立とうとしていた。
――だがその羽根をもぐように、アンヌに突如息苦しさが襲い掛かる。強い力がアンヌの動きを捕らえている。悪い夢に誘われようとしているのか。額に汗が滲み、弛んでいた表情が苦悶に歪んだ。
「……!」
重い瞼を僅かに開くと、ベッドサイドの小さな明りが、紫の色を纏っている影が揺らめいているのを映し出していた。既に悪夢の中なのか。天井に滞留する影の中から伸びた人間の手のようなものが、アンヌの首元を押さえている。声を上げようとするが、容赦なくギリギリと首を絞めつける力に、息継ぎすらまともに出来ず、口を開いたまま硬直することしか出来ない。この苦しみは夢ではない、現実だ――。
凹凸に波打ち歪むアンヌの視界。まるで彼女を闇に道連れにしようとしている影の使者。このまま死の世界へと連れて行かれてしまうのだろうかと、妙に落ち着いた頭でぼんやり考えていた。
『ボク……ヲ……ヒトリ…ニ……シ…ナイ……デ…。』
誰かの声。アンヌは薄れゆく意識の中でまたその声を聞き取った。――今、この場にいるのはアンヌとその影の使者だけだ。自分の声でないとすると、つまりそれは。
アンヌの頬にぽつぽつと雨粒が降り注いだ。底なし沼のような深い悲しみと、孤独の色を滲ませた声の主は、闇の中で苦痛に喘ぎ、悶えているように見えた。
(泣いて…いるの…?)
命の危機に曝されているというのに、それよりもアンヌは彼のことが気がかりだった。彼は救いを求めている。誰かが手を差し伸べてくれるのをずっと待っているのだと直感的に思った。
アンヌは最早力の入らない手を天に伸ばそうとする。この意識が途絶えてしまう前に、彼の心を包んであげたかった。
しかし、手は届かず、宙で止まったまま。無数の手が彼女の命を求めるように伸びてきて、アンヌの世界は漆黒に染まる。音もなく、彼女の体は影の中へと溶けていく。
乾いた音を立てて、彼女のペンダントが床に転がり落ちた。