shot.7 手招く影

 ブレイヴはヒウンシティのポケモンセンターに戻りたそうだったが、整備されているとはいえ、日が沈んだ砂漠の中を歩くのは安全とは言い難い。今晩はヒウン建設の宿舎に泊まることになるのは自然な流れだった。
 事務所の裏口から繋がっている通路を歩くと宿舎はすぐそこにあった。

 共同のリビングルームで従業員の皆が腕を振るって作ってくれた夕食をとる。育て屋の時以上の大人数で食卓を囲み、誕生日パーティーさながらの賑やかさだった。熾烈な肉の取り合いに、お酒も入り、陽気に歌い出すもの、泣き出すもの――。数人で群れを作り、各々グループの中で自由奔放に振舞っている。
 勢いに驚き、呆れることはあっても、いつもの調子であればアンヌも一緒になって笑っていたかもしれない。喧騒の中で取り残されたように空いた隣の席を見つめる。豪勢に盛り付けられた皿は運ばれてきた時のまま手付かずだ。こんなにも愉快な笑い声が飛び交っているのに、それを他人事のように捉え、寂しく思うのは、やはり彼がこの場にいないからだろう。

(ブレイヴ……。)

 彼らしくもなく、夕食もいらないと部屋に籠ってしまったのだ。ブレイヴの言っていたことが、徐々にアンヌの中で信憑性を帯びていく。布団を頭から被り、ガタガタと身を震わせている姿に普段の覇気はない。本当に、彼はこの世のものではない恐ろしいものを見てしまったのではないかと真に受けずにはいられないほど、彼はアンヌの想像以上に怯え切っていた。

(それなのに私…ブレイヴの気持ちを突き放すようなこと……。)

 クレーン車の一件で、アンヌも気持ちが昂っていたのだろう。トレーナーだからこそ、惑わされてはいけないと思い、彼の気持ちに寄り添うことを怠っていたのは間違いない。


「…ブレイヴくんにも食べて貰いたかったんだけどな。このシチューね、私とお兄ちゃんで作ったんだよ。」

 ぽつりと切なげな言葉を溢したソフィアの前には、木の実いっぱいのホワイトシチューがあった。アンヌも口にしたが、心がほっと一息吐けるような、優しい味わいだった。他にも肉汁たっぷりのデミグラスソースのハンバーグ、おかわり自由な焼きたてのバケットが沢山ある。ソフィアと同じく、アンヌも残念だと思わずにはいられなかった。


「…そうだわ!」

 その気持ちは、同時に彼女に新たな発想を浮かび上がらせた。アンヌは何かを思い立ったように、意気揚々と席から立ち上がる。キッチンからトレイを貰ってくると、ブレイヴが食べるはずだったそれらの皿を手早くトレイに並べた。

「どうしたの?」
「私、ブレイヴに持っていくわ。こんなに美味しいご飯、食べ逃しちゃうなんて損だもの。」

 ソフィアも納得した様子で頷く。すると彼女も、美味しそうに色づいたモモンの実のおまけをつけてくれた。アンヌはお礼を言うと、溢さないように慎重にトレイを持ち上げた。


(……あいつ。)

 賑わいの中心で黙々と缶ビールを飲んでいたグルートが、ふと目をやると、二階の階段を駆け上がっていくアンヌの後姿が見えた。彼は目を丸くさせたが、やがて目を細める。頬を弛ませふっと鼻で笑うと一気に缶を傾け、中のビールを飲み干した。

◇◆◇◆◇


 ギシッ、ギシッと軋む木造の階段を一歩一歩踏みしめて、アンヌは突き当りにある部屋の前に立った。胸に張り詰める緊張を解きほぐすように深く息を吐く。


「ブレイヴ。私よ。アンヌよ。」

 見知った人の声でさえも今の彼を震えあがらせるには充分だった。出来るだけ明るい調子を意識してアンヌは扉の向こうにいるブレイヴに声を投げかける。彼を怖がらせないよう、優しく、穏やかに。

「…なンだよ…。」
「お腹、空いたでしょう?ご飯を持ってきたの。ソフィアとレックスが作ってくれたシチューがとっても美味しいのよ。」
「そンな気分じゃねェ…ほっといてくれよ…ッ!」
「放っておけないわ。友達だもの。」

 アンヌはトレイを脇に置いて、その傍に座り、扉に凭れ掛かる。扉越しにアンヌとブレイヴの背が寄り添う。このたった一枚の扉が冷たく、堅牢に感じられるのは彼の心が怯え、離れてしまっているからなのだろうか。


「誰にでも怖いものってあるわよね。私にもある。…いつかお屋敷に連れ戻されてしまうかもしれないって…そう思ったら、不意に恐ろしくてたまらなくなる。」
「……。」
「けれど今はブレイヴやグルート、力を貸してくれる仲間がいる。だから、立ち向かっていけるの。」

 アンヌはぎゅっと手を握り締めた。自分の中にある恐怖を思い起こすと、彼と同じように体が竦む。それを消し去ることが容易でないことはアンヌにも痛いほどわかっていた。

 ブレイヴは黙ったまま。例え、反応がなくても構わなかった。彼ならこの声に耳を傾けてくれているとアンヌは信じていたからだ。

「だから、ブレイヴ。私もあなたの力になりたい。あなたにとって恐ろしい相手が現れたとしても、私があなたを守ってみせるわ。」
「Huh?…オレ様が見たのはミイラなンだぜッ!人間のてめェがどうするってンだよ…。」
「そうね…取り敢えず、お塩でも撒いてみようかしら?」

 咄嗟に思いついた考えにしてはなかなか上出来だとアンヌは自負していたのだが。扉の向こうからは弱々しく鼻で笑う声が聞こえた。彼には彼女が下手なジョークを言っているようにしか思えなかった。

「そンなのゼッテー意味ねェよ。効くわけねェじゃン…。」
「あら、意味がないかどうかはやってみなくちゃわからないわ。あなたからそう教わったのよ、ブレイヴ?」
「……!」

 けれど、アンヌは本気だった。凛とした強い語気で言葉を紡ぎだす。ブレイヴは虚を突かれ、目を見張った。
 どんなに傷つき、逆境にあろうとも決して諦めず、立ち向かっていくブレイヴの勇姿にアンヌは幾度となく励まされてきた。彼の言う通り、人間にポケモンのような超能力はない。けれど仲間を大切に思い、守ろうとする気持ちを持つことは出来る。その強い想いがあればどんな状況でも乗り越えることが出来ると彼女は確信していた。

 ブレイヴは震える己の両手を見つめた。その両手で顔を覆う。思い返せば恐怖が首根っこを掴んでくる。得体の知れない不気味なミイラがどこまでも自分を追いかけてくるのだ。しかし、それに向かって塩を投げ付け奮戦するアンヌの姿が不意に浮かんできて、恐怖の中にいるのに笑いが込み上げてきた。


「くくッ……HAHAHAッ!!!」
「?…どうしたの。」

 怖いのに、可笑しい。その奇妙さが、恐怖に埋まっていたブレイヴの愉快な感情を引きずり起こした。

 暗がりの中から突然快活な高笑いが響いて、アンヌは状況が読めず、少し困惑した。そんなに可笑しなことを言っただろうかと自身の言動を振り返ってみるが、別段、アンヌに思い当たる節はなかった。その間抜けな様が益々ブレイヴの笑いのツボを突いた。


「はー…おめェ、マジで面白いヤツだよな。」
「どういうこと?説明して頂戴。」
「そーいうとこ。」
「え?」

 アンヌはきょとんと目を見開き、深まってしまった謎に頭を抱えた。――彼女は無自覚なのだろうが、時々、お嬢様とは思えないぐらい大胆で、突拍子のないことをしでかしてくれる。

(そうだったぜ。コイツは前にも…バッドからマリーを守ったンだっけ。戦う力も無ェのによ。)

 それは挫けそうな心に一筋の力を齎してくれる光。慈愛の心。確かに、アンヌの無鉄砲さには、ミイラだろうと獣だろうとも狼狽えてしまうかもしれない。アンヌがブレイヴに励まされていたように、ブレイヴもまた知らず知らずの内に彼女の見えない力に支えられていたのだ。


 弛んだ口許に手を当てた時、ブレイヴは自身の身に起こった変化に気が付いた。
 ――震えが止まっている。

 それだけではない。全身に吹雪のように吹き荒んでいた悪寒が無くなっていた。彼自身も驚き、忙しなく視線を動かした。
 これが人間の、アンヌの力なのか。ブレイヴがひとりではどうすることも出来なかった震えを彼女は糸も簡単に解してしまった。人間のことを甘く見すぎていたのかもしれない――。奥底に持っているものはポケモンと変わらない。否、そんなポケモン達を纏め上げているのだから、ある意味ポケモンよりも強く、挫けない強靭な意志を持っているのかも知れなかった。


 代わりにブレイヴに襲いかかってきたのは胃袋を焼くような空腹感だった。グウウウッと地響きに似た、腹の音が辺りに広がった。

 少し扉を開けて隙間から頭だけを出し、外を覗くと、美味しそうな料理を抱えたアンヌが立っていた。ブレイヴはごくりと唾を呑みながら、物欲しそうな眼差しを彼女に向ける。


「腹減った…ンだけどよ……。」
「はい、あなたの分よ。」
「よっしゃ!いただきッ!」

 待てが解けたヨーテリーのように、ブレイヴはアンヌから奪いとるように皿を手にし、その場でがっつき始める。

「ブレイヴ、せめてお部屋で食べたら?」
「そンなの待ってらンねェーよッ!…おッ、このシチューいけるな。ハンバーグも最高だぜッ!」
「もう、ブレイヴったら。」

 廊下で尻餅をつき、頬一杯にパンやシチューを流し込む彼の姿は、お世辞にも行儀がいいとは言えなかったが。「うめーッ」と幸せそうな笑顔を見せる彼に免じて、今回は見逃してあげることにしたのだった。
8/11ページ