shot.7 手招く影
防音用のフェンスに囲まれた中から、カンカンと釘を打ち込む軽快な音が響く。資材が積まれた軽トラックが二台止まっており、中型のクレーン車がフェンスから頭を覗かせていた。
パイプや鋼製のネットを組み合わせて出来た足場が、建設中の建物を取り囲むように作られており、その上に立ちながら、作業員達は仕事に勤しんでいた。
「みんなー飲み物持ってきたよー。」
作業員達に呼びかけるソフィアの声に真っ先に気が付いたのは、アンヌもよく知ったレックスだった。はっと顔を上げソフィアを見るなり、彼は作業道具も投げ飛ばす勢いで、猛進してきた。
「ソフィア~~っ!現場に来たら危ない言うてるやろ~~。」
「でも、頑張るみんなに差し入れしたいんだもん。はい、お疲れ様。お兄ちゃん。」
「しゃあないなぁ……おおきにな。」
口では軽く注意しながらもレックスはとてもにこやかな顔をしながら、缶コーヒーを受け取った。やはりレックスはソフィアのことを大切に思い、深い愛を持っているようだ。
和やかな兄弟愛にアンヌが微笑ましい気持ちになっていると、後からぞろぞろと他の作業員達がこちらにやってきた。それぞれ、ソフィアから嬉しそうに缶コーヒーを受け取っていたが、その中にグルートの姿はなかった。
「グルートの兄貴やったら、まだあっちで作業してはるわ。」
落ち着きのないアンヌの様子を見かねたのか、レックスは自身が来たところより更に奥まった建物を指差す。アンヌは図星を突かれたような気持ちになり、動揺した。が、さり気無くソフィアが缶コーヒーをひとつ、差し出してくれたお陰で気が逸れ、顔には出さずに済んだ。
「はい、これ。グルートさんにも渡してきてあげて。」
「え、ええ…。ありがとう。」
ぎこちなく缶コーヒーを受け取り、そっと抱きしめる。ニコニコと微笑む兄妹に促されるまま、アンヌはグルートのいる方へと歩き出した。
◇◆◇◆◇
釘を打ち込む例の音を頼りに、アンヌは恐る恐る歩みを進めた。作業員達が一様に響かせていた音に比べて、かなり小さくなっているはずなのに心臓の音と相まってアンヌの耳には実際よりも大きく響いた。
(……あっ……。)
二階程の高さの足場で黙々と木材に釘を打ち込んでいるグルートの姿を見つけた。頭に白いタオルを巻き、動きやすいツナギを着た彼の姿は新鮮に映った。集中しているのか、まだアンヌの存在には気づいていないようだった。
彼の真剣な眼差しに、アンヌは声をかけることも忘れ、見惚れていた。
一点を見つめる凛々しい赤の瞳。その色は彼の燃えるような情熱と、消えることのない炎の意志が表れたものなのだろうか。
(いつかその熱い眼差しで私を見て欲しい――。)
頭がぼうっとして、体が熱を帯びる。閉じ込めていた熱がぶり返す。何故、どうして、という疑問は尽きることなく頭を駆け巡っているが、一方で全てを投げ出してその熱に身を委ねてしまいたいという思いもあった。彼の名を叫びながら、彼の元へと駆けて、そのまま胸に飛び込んでしまいたい――。
「おい、アンヌ。なにぼーっと突っ立ってんだ。」
「!…ひゃあっ!」
鋭い赤の瞳と視線が合った。遅れて気が付いたアンヌは、声をひっくり返しながら仰け反る。足場の上に取り付けられた手摺に手をかけ、頬杖をつきながら、グルートが気怠そうにアンヌを見ていた。危うく、手に持っていた缶コーヒーを落としそうになり、彼女はひとりで間抜けなステップを踏む羽目になってしまった。
ふっと薄く笑うグルートの息遣いが聞こえてくるようで、アンヌはせめて紅潮した顔を見られないように俯くしかなかった。
「でも丁度良かったぜ。そろそろ、喉も渇いてきたところだったからな。」
「今持っていくわ!待っていて!」
説明するまでもなく、アンヌが手に持っていた飲み物からグルートは察したのだろう。深く追及されず、軽く笑われる程度で済んでよかったとアンヌは心底ほっとした。
…まさか、グルートのことを考えて気を取られていたなど、口が裂けても言えなかった。流されるままに彼に会いに来たのは逆効果だったかもしれないと、アンヌは今更ながら後悔した。
気を取り直し、アンヌは彼のいるすぐ傍に組まれた、簡易的な階段を目指して歩き出した。ただし、顔は下を向いたままだ。
「おいおい、無理すんなって。俺が取りに――。」
彼女の複雑な胸中など知らず、おっちょこちょいなアンヌでは階段を踏み外しそうだ、とグルートは子供を見るような目線で心配していた。
矢先、ギィイイっと何かが軋むような不吉な音が彼の耳を掠めた。まさか本当に、とアンヌの方に注目したがまだ彼女は階段にはたどり着いていない。――だが。
「!」
彼女の体だけでなく、その周囲を覆うほどの黒い影。誰も動かしていないはずのクレーン車がまるで強い力に押されるように歪に傾き始めていた。
「危ねぇ!アンヌッ!」
「え?」
天上を過ぎ、クレーン車は重力に導かれるように一気に急降下する。グルートの声でアンヌが振り返った時には、もう既に彼女の足では逃げ切れない程の距離に迫っていた。悲鳴さえ上げられず、アンヌは自分の置かれている状況に茫然とし、その後、恐怖に支配されるしかなかった。
グルートはもどかしげに舌打ちを溢し、咄嗟に飛び上がり、悪の波動をクレーン車に向けて放つ。クレーンの先端部分が宙で爆発する。傾く車体を立て直すことまではできなかったが、爆風の影響で地に着くまでに、僅かだが時間が出来た。
彼女の体を掬い上げると、両腕で固く抱きしめ、勢いのまま地面に体を擦りながら横転する。
轟音を響かせながら、クレーンが建設中の建物の骨組みを薙ぎ倒す。弾くように地面が上下に揺れ動き、車体諸共その場に沈んだ。
衝撃は感じたが、アンヌの体に痛みはなかった。――それもそのはず、グルートが彼女の体を庇うように抱き締め、自身が怪我をすることも厭わず、クッション代わりになっていたからだった。グルートの背には硬い地面、その上に覆いかぶさるようにアンヌの体があった。
彼の逞しい胸に埋まりながら、アンヌは薄っすらと瞼を開く。うっ、と小さく呻く彼の声が聞こえて、彼女ははっと我に返った。
「グルートっ!」
「へへっ…その様子じゃ怪我は無えみてぇだな。」
「ええ、あなたのお陰で……。」
「……よかった。」
普段の素っ気ないグルートからは想像できない程、柔らかな言葉が零れた。大きな手がアンヌの頭を撫で、彼は安堵したような笑みを浮かべた。髪の間を通り抜ける彼の手つきがこの上なく優しくて、アンヌも段々と安らかな気持ちになっていく。
(出会ったときからそう。…グルートは危険を顧みないでいつも私を守ってくれている…。)
絶体絶命の恐怖の中にいたとは思えないぐらい、心は落ち着いていた。思い返してしまいそうになっても、彼の傍にいれば恐ろしいものなど何もないような気がしてくるのだ。
――惚れている。その言葉が再び彼女の脳裏に蘇る。
とくん、と胸に響いたひとつの音。わからない。けれど、こうしてグルートの温もりに包まれていると、震えが収まり、苦しいまでに拍動していた胸の疼きが鎮まっていくことだけは確かだった。
「兄貴ーー!どないしはりましたんーーッ!」
そこに異音を聞きつけた、レックスを始めとする作業員らがぞろぞろとやってくる。
グルートが起き上がろうとして、漸くアンヌは彼から身を離すことが出来た。切ないような名残惜しさを感じてしまった自分にアンヌは羞恥した。
「アンヌちゃん!」
「ソフィア…。」
「大丈夫?…凄く大きな音がしたけれど……。」
「グルートが力を貸してくれたから、平気よ。」
誰もが半壊した建物とクレーン車を見比べて絶句している中、ソフィアは真っ先にアンヌの傍に駆けつけ、彼女の身を案じた。
「…ねえ、アンヌちゃん。」
「なあに?」
「……ううん、なんでもない。――とにかく、無事でよかったよ。」
歯切れ悪く言葉を濁すソフィアだったが、それを見せたのはほんの一瞬で、アンヌも気に留めるほどではなかった。それよりも彼女の言葉通り、これだけの大事故の中、グルートの協力があったとはいえ、誰も大きな怪我をせずに済んだことの方が印象的だった。
危なかったな、基礎から作り直しだ、と作業員達が驚嘆と落胆の声をぽつぽつと呟き始める。
――瓦礫に埋まるクレーン車の影の中で不気味に蠢き、底なしの闇に手招く影のことなど、気づきもせずに。
パイプや鋼製のネットを組み合わせて出来た足場が、建設中の建物を取り囲むように作られており、その上に立ちながら、作業員達は仕事に勤しんでいた。
「みんなー飲み物持ってきたよー。」
作業員達に呼びかけるソフィアの声に真っ先に気が付いたのは、アンヌもよく知ったレックスだった。はっと顔を上げソフィアを見るなり、彼は作業道具も投げ飛ばす勢いで、猛進してきた。
「ソフィア~~っ!現場に来たら危ない言うてるやろ~~。」
「でも、頑張るみんなに差し入れしたいんだもん。はい、お疲れ様。お兄ちゃん。」
「しゃあないなぁ……おおきにな。」
口では軽く注意しながらもレックスはとてもにこやかな顔をしながら、缶コーヒーを受け取った。やはりレックスはソフィアのことを大切に思い、深い愛を持っているようだ。
和やかな兄弟愛にアンヌが微笑ましい気持ちになっていると、後からぞろぞろと他の作業員達がこちらにやってきた。それぞれ、ソフィアから嬉しそうに缶コーヒーを受け取っていたが、その中にグルートの姿はなかった。
「グルートの兄貴やったら、まだあっちで作業してはるわ。」
落ち着きのないアンヌの様子を見かねたのか、レックスは自身が来たところより更に奥まった建物を指差す。アンヌは図星を突かれたような気持ちになり、動揺した。が、さり気無くソフィアが缶コーヒーをひとつ、差し出してくれたお陰で気が逸れ、顔には出さずに済んだ。
「はい、これ。グルートさんにも渡してきてあげて。」
「え、ええ…。ありがとう。」
ぎこちなく缶コーヒーを受け取り、そっと抱きしめる。ニコニコと微笑む兄妹に促されるまま、アンヌはグルートのいる方へと歩き出した。
釘を打ち込む例の音を頼りに、アンヌは恐る恐る歩みを進めた。作業員達が一様に響かせていた音に比べて、かなり小さくなっているはずなのに心臓の音と相まってアンヌの耳には実際よりも大きく響いた。
(……あっ……。)
二階程の高さの足場で黙々と木材に釘を打ち込んでいるグルートの姿を見つけた。頭に白いタオルを巻き、動きやすいツナギを着た彼の姿は新鮮に映った。集中しているのか、まだアンヌの存在には気づいていないようだった。
彼の真剣な眼差しに、アンヌは声をかけることも忘れ、見惚れていた。
一点を見つめる凛々しい赤の瞳。その色は彼の燃えるような情熱と、消えることのない炎の意志が表れたものなのだろうか。
(いつかその熱い眼差しで私を見て欲しい――。)
頭がぼうっとして、体が熱を帯びる。閉じ込めていた熱がぶり返す。何故、どうして、という疑問は尽きることなく頭を駆け巡っているが、一方で全てを投げ出してその熱に身を委ねてしまいたいという思いもあった。彼の名を叫びながら、彼の元へと駆けて、そのまま胸に飛び込んでしまいたい――。
「おい、アンヌ。なにぼーっと突っ立ってんだ。」
「!…ひゃあっ!」
鋭い赤の瞳と視線が合った。遅れて気が付いたアンヌは、声をひっくり返しながら仰け反る。足場の上に取り付けられた手摺に手をかけ、頬杖をつきながら、グルートが気怠そうにアンヌを見ていた。危うく、手に持っていた缶コーヒーを落としそうになり、彼女はひとりで間抜けなステップを踏む羽目になってしまった。
ふっと薄く笑うグルートの息遣いが聞こえてくるようで、アンヌはせめて紅潮した顔を見られないように俯くしかなかった。
「でも丁度良かったぜ。そろそろ、喉も渇いてきたところだったからな。」
「今持っていくわ!待っていて!」
説明するまでもなく、アンヌが手に持っていた飲み物からグルートは察したのだろう。深く追及されず、軽く笑われる程度で済んでよかったとアンヌは心底ほっとした。
…まさか、グルートのことを考えて気を取られていたなど、口が裂けても言えなかった。流されるままに彼に会いに来たのは逆効果だったかもしれないと、アンヌは今更ながら後悔した。
気を取り直し、アンヌは彼のいるすぐ傍に組まれた、簡易的な階段を目指して歩き出した。ただし、顔は下を向いたままだ。
「おいおい、無理すんなって。俺が取りに――。」
彼女の複雑な胸中など知らず、おっちょこちょいなアンヌでは階段を踏み外しそうだ、とグルートは子供を見るような目線で心配していた。
矢先、ギィイイっと何かが軋むような不吉な音が彼の耳を掠めた。まさか本当に、とアンヌの方に注目したがまだ彼女は階段にはたどり着いていない。――だが。
「!」
彼女の体だけでなく、その周囲を覆うほどの黒い影。誰も動かしていないはずのクレーン車がまるで強い力に押されるように歪に傾き始めていた。
「危ねぇ!アンヌッ!」
「え?」
天上を過ぎ、クレーン車は重力に導かれるように一気に急降下する。グルートの声でアンヌが振り返った時には、もう既に彼女の足では逃げ切れない程の距離に迫っていた。悲鳴さえ上げられず、アンヌは自分の置かれている状況に茫然とし、その後、恐怖に支配されるしかなかった。
グルートはもどかしげに舌打ちを溢し、咄嗟に飛び上がり、悪の波動をクレーン車に向けて放つ。クレーンの先端部分が宙で爆発する。傾く車体を立て直すことまではできなかったが、爆風の影響で地に着くまでに、僅かだが時間が出来た。
彼女の体を掬い上げると、両腕で固く抱きしめ、勢いのまま地面に体を擦りながら横転する。
轟音を響かせながら、クレーンが建設中の建物の骨組みを薙ぎ倒す。弾くように地面が上下に揺れ動き、車体諸共その場に沈んだ。
衝撃は感じたが、アンヌの体に痛みはなかった。――それもそのはず、グルートが彼女の体を庇うように抱き締め、自身が怪我をすることも厭わず、クッション代わりになっていたからだった。グルートの背には硬い地面、その上に覆いかぶさるようにアンヌの体があった。
彼の逞しい胸に埋まりながら、アンヌは薄っすらと瞼を開く。うっ、と小さく呻く彼の声が聞こえて、彼女ははっと我に返った。
「グルートっ!」
「へへっ…その様子じゃ怪我は無えみてぇだな。」
「ええ、あなたのお陰で……。」
「……よかった。」
普段の素っ気ないグルートからは想像できない程、柔らかな言葉が零れた。大きな手がアンヌの頭を撫で、彼は安堵したような笑みを浮かべた。髪の間を通り抜ける彼の手つきがこの上なく優しくて、アンヌも段々と安らかな気持ちになっていく。
(出会ったときからそう。…グルートは危険を顧みないでいつも私を守ってくれている…。)
絶体絶命の恐怖の中にいたとは思えないぐらい、心は落ち着いていた。思い返してしまいそうになっても、彼の傍にいれば恐ろしいものなど何もないような気がしてくるのだ。
――惚れている。その言葉が再び彼女の脳裏に蘇る。
とくん、と胸に響いたひとつの音。わからない。けれど、こうしてグルートの温もりに包まれていると、震えが収まり、苦しいまでに拍動していた胸の疼きが鎮まっていくことだけは確かだった。
「兄貴ーー!どないしはりましたんーーッ!」
そこに異音を聞きつけた、レックスを始めとする作業員らがぞろぞろとやってくる。
グルートが起き上がろうとして、漸くアンヌは彼から身を離すことが出来た。切ないような名残惜しさを感じてしまった自分にアンヌは羞恥した。
「アンヌちゃん!」
「ソフィア…。」
「大丈夫?…凄く大きな音がしたけれど……。」
「グルートが力を貸してくれたから、平気よ。」
誰もが半壊した建物とクレーン車を見比べて絶句している中、ソフィアは真っ先にアンヌの傍に駆けつけ、彼女の身を案じた。
「…ねえ、アンヌちゃん。」
「なあに?」
「……ううん、なんでもない。――とにかく、無事でよかったよ。」
歯切れ悪く言葉を濁すソフィアだったが、それを見せたのはほんの一瞬で、アンヌも気に留めるほどではなかった。それよりも彼女の言葉通り、これだけの大事故の中、グルートの協力があったとはいえ、誰も大きな怪我をせずに済んだことの方が印象的だった。
危なかったな、基礎から作り直しだ、と作業員達が驚嘆と落胆の声をぽつぽつと呟き始める。
――瓦礫に埋まるクレーン車の影の中で不気味に蠢き、底なしの闇に手招く影のことなど、気づきもせずに。