shot.7 手招く影

 厳つい雰囲気はどこへやら。随分と低姿勢になった大男はアンヌ達をヒウン建設の事務所に案内してくれた。彼が「失礼します」と声をかけながら扉を開けると、煙草の渋い臭いが鼻腔についた。事務机の上にはくしゃくしゃになった書類の山、灰皿の上には吸い殻のピラミッドが出来ている。その手前にあるソファーに新聞を片手に持ち、煙草を口に銜えながら気だるく腰掛けているグラがいた。
 アンヌ達に気づいたグラは耳にしていたイヤホンを外し、軽く手で挨拶した。

「親父。グルートの兄貴とそのお連れさん方がお見えになりました。」
「おお、よう来よったな。」

 彼の正面にあるソファーに促され、アンヌ達は席に着く。それを見計らい、大男はグラに一礼し、足早に立ち去ろうとした。

「それじゃあ、俺はまだ仕事残ってるんで、これで失礼しやす。」
「ちょい待ち。」
「へい?なんでしょう。」

 しかしグラは彼を呼び止めた。その声に大男が振り返ると、グラは横目でグルートの方を見ながら、わざとらしく溜め息を吐く。手持ち無沙汰に新聞を筒状に丸め、自身の肩を叩いていた。

「アンヌちゃんらはええとして、…突然自分探しの旅に出る言うて勝手に出ていったヤツがどのツラ下げてここに顔出してんやろなぁ~?ジブンもそう思えへんか?」
「へ…?は、はあ……。」
「敷居跨いだからには気ぃ遣って、ジブンから『仕事手伝わせてください』とか言わなアカンやろ、普通!」

 大男はグラからの突然の振りに同意も否定もできず困惑している。ここでどちらの味方をしても地獄を見ることになるからだ。
 端的にねちっこい小言を飛ばされ、グルートは舌打ちを溢す。しかし苛立つのは図星で、言い返せないのは後ろめたい部分もあったからだろう。彼は不貞腐れたように舌打ちをし、この劣勢に、もどかしげに頭を掻いた。

「わかったよ、手伝えばいいんだろ?」
「手伝わせてくださいお願いします、やろ?」
「……るせぇな。」

 口をへの字にし、いかにも挑発しているグラの振る舞いにグルートは眉間にくっきりと溝を作り、鋭い眼差しで不快感を露にする。そんな彼を相手に、臆すことなく煽りの声を飛ばせるのはのはグラぐらいのものだろう。グルートの纏うピリピリとした険悪な空気をものともせず、あっけらかんとしている。むしろアンヌ達、第三者の方が落ち着かず、彼の剣幕に慄いた。
 暫しグラを睨んだ後、グルートは身を翻し、少し乱暴に事務所の扉を開ける。大袈裟に肩を揺らしながら、外へと出た。

「待ってくださいよ~!兄貴ィ!」

 グルートに圧倒されていた大男が、一足遅れて彼の後に続く。
 慌ただしい足音が遠ざかり、やがて消えると、部屋には嵐の後のような静寂が訪れた。


「大丈夫かしら……。」

 普段、アンヌの目には冷静に見えているグルートが感情を剥き出しにしているのは彼女にとっては物珍しく見え、その荒々しい感情の変化が心配になった。しかしグラといえば彼女の杞憂を吹き飛ばすように、能天気に口を大きく開き、笑っていた。

「あー、気にせんでええ。ワシと顔合わせるといっつもあんなんやからな。」
「は、はあ…。」
「アンヌちゃんの前やったらええカッコしよるんやろけどな、ホンマはまだまだ半人前のガキやで。いらちやし、考えなしの間抜けのアホやし。」

 相変わらずの酷評振りにアンヌは困ったような顔をした。だが、親しいグラだからこそアンヌの知らない彼の部分を知っており、好きなことが言えるのだろう。自分の知らないグルートを知っている、それは少し羨ましく思った。


「あの、グラさん。」
「ん、何や?」
「…昔のグルートってどんな風だったのですか?」
「今と同しやで。三角の目ェして、ガキのくせに世の中知ったようなツラしとる。可愛げのないやっちゃ。」

 グラは丸めた新聞紙を机に投げ捨て、銜えていた煙草を指に挟むと、白煙混じりにふう、と一息吐いた。宙を見つめるグラの瞳は悪態をつく口とは裏腹に柔らかく、優しかった。

「炎タイプのくせして、心の芯まで凍え切っとった。誰彼構わず暴力振るって…ワシも手を焼いたわ。」
「グルートが?とてもそんな風には……。彼、言い方は荒々しい時があるかもしれないけれど、でも、とても優しくて温かいひとなのに……。」

 アンヌはグラの言葉を信じられない様子で目を丸くさせた。屋敷という檻から連れ出してくれ、初めての外の世界で右も左もわからない自分を導いてくれた彼。アンヌはその温もりを懐古し、安らいでいく心の音に想いを委ねる。思い出されるのはやはり優しい彼の姿ばかりだった。

「こらぁ驚いた。この世にアイツ見て、そないに思うてくれる子がおるなんてなぁ。」
「え?」

 アンヌは至極真面目に、グルートのことを考えて言葉を伝えたはずだったのだが、グラは口元を弛ませ、ニヤニヤと怪しげに薄ら笑みを浮かべていた。何かおかしなことを言ってしまっただろうかとアンヌは自分の言動を振り返る。けれど思い当たる節はなく、彼女は首を傾げた。

「はっは~ん……わかったで。アンヌちゃんアイツに『惚れとる』なぁ~?」
「へ、へぇッ!?」

 が、真剣に彼のことを考えていたアンヌの思考が吹っ飛んでしまう程、グラの思い浮かべていたことは彼女にとって素っ頓狂なことだった。グラの表情の訳。それを知ったアンヌは声が裏返ってしまうほど間抜けな声を上げ、狼狽えた。両手で押さえても、顔に上っていく熱は抑えられそうにない。

「ち、違いますっ!私は…思ったことを言ったまでで……。」
「ふぅ~ん?」
「グラさんっ!」

 必死になればなるほど、アンヌの胸の鼓動はより早く、強く脈打つ。

(グルートはいいひとだとは思うけれど…でも……そんな。)

 まさか自分が彼のことを、などとは考えもしなかったし、そもそも色恋に疎く、経験のないアンヌはこの胸が張り裂けそうな熱の理由を知る由もなかった。


「ブレイヴもなんとか言って頂戴!」

 恥ずかしさから逃れるようにアンヌは傍にいたブレイヴに話を振る。とにかく話題の焦点を自分から逸らしたい一心だった。

「………。」


 しかし、ブレイヴからの返答はない。それどころかふたりの方を見てすらいなかった。彼らしい陽気な言葉を返してくれるとばかり思っていたアンヌは不思議に思ったが――突如、『ぎゅるるる』という獣の唸り声のような轟音が彼の腹の辺りから響き、疑問も気にならなくなるような驚きに包まれた。

「ぶ…ブレイヴ?」
「う……。」
「?」

 前屈みで腹部を押さえるような仕草をした後、ブレイヴは青ざめた顔でゆっくりと彼女の方を向く。アンヌを射抜く視線はこの上なく真剣で、唇は震えていた。

「…ウンコでそう……。」

 再び、獣の声を響かせる。お嬢様育ちのアンヌには理解を超えた尾籠な話に一瞬思考が止まり、固まる。だが、直前に彼がヒウンアイスを大量に食べていたことを思い出し、発した例の言葉とその腹の音を照らし合わせると、徐々に合点がいった。


「も、もう!だから言ったでしょう!?あんなにアイス食べたらお腹壊しちゃうって!」
「ははぁ、浮かれた田舎モンがヒウンでやりがちなことやな!」
「オレ様は田舎モンじゃ…ウッ!」

 反論も叶わず、ブレイヴは腹部を襲う激流のような痛みに悶絶することしか出来ない。


「と、トイレぇえええ~~~!」


 そしてブレイヴは立ち上がり、叫びながらトイレを目指し勢いよく部屋を飛び出した。それ程までに必死なブレイヴを見たのはアンヌも初めてだった。

「ハハハハッ!便所は、バーッといって、カッと右に曲がったとこにあるで~!」

 手をメガホンのようにしてグラはブレイヴに呼び掛ける。笑い声を堪えることもせず、ゲラゲラと笑っていた。扉の向こうからはブレイヴの絶叫が聞こえる。アンヌと言えばブレイヴのデリカシーのなさに別の意味で羞恥することになった。声を潜めながら、俯きグラに失礼を詫びることしか出来なかった。

「ええやないか。やりたい放題、自由奔放な感じでな!ガハハハッ!」
「そ、そうでしょうか……。」

 誤った認識をグラに植え付けてしまったように思われ、アンヌは複雑な気持ちになる。品位がガクッと下がってしまったような感じだ。

「どうせ旅するんやったらおもろいヤツらとの方がええ。――ええ仲間見つけたなぁ~。」

 真面目に言っているのか茶化しているのかわからない口調でグラはうんうんと大きな振りで頷く。どういう顔をしていいやらわからず、アンヌは曖昧に困惑を含んだ笑みを浮かべることしか出来なかった。


「――で、結局アンヌちゃんはグルートのこと好きなん?」

 ブレイヴの件でとっくに流れていたと思っていた話題を蒸し返され、脇腹を突かれたような不意打ちにアンヌは目をぎょっとさせた。
 忘れていた体の火照りが蘇り、益々居所が悪くなった。

「そ、そのお話はお終いですっ!」
「照れとる~照れとる~。青春やなひゅーひゅー!」
「止めてくださいっ、もうっ!」
3/11ページ