shot.7 手招く影

 翌朝、ジョーイさんに見送られ、アンヌ達は退院した。タイガは体調が思わしくなくもう少し入院が必要なようだ。様子は気になるがあまり休息の時間を邪魔してはいけないと、挨拶を添えた手紙をジョーイさんに預けておくことにした。


 レックスの提案もあり、アンヌ達は彼の働くヒウン建設を見学させてもらうことになった。ヒウン建設はヒウンシティの北口を抜けた先、4番道路にあるようだ。

 アンヌとしてはヒウンの町の様子も見ておきたかったので、レックス達とは一度別れ、現地で集合することになった。


「すごい…高い建物が沢山あるわ。」

 見渡す限りに聳え立つ摩天楼の迫力にアンヌは感嘆する。ここヒウンシティは港を中心に物流の基盤となっており、イッシュ一の大都市だ。イッシュに住む人々だけではなく、世界中から人やポケモンが集まってくる。どの通りも賑やかで、引っ切り無しに人が行き交っていた。

「またこの町に来ることになるとはな。」

 興味津々で辺りの景色に見入るアンヌとは対照的に、グルートは深い因縁を感じさせるように重々しく言葉を噛み締めた。

「グルート?」
「――いや。さ、行くか。迷子になんじゃねーぞ。」

 が、その気配はすぐに消え、アンヌの頭をぽんぽんと軽快に叩くと人通りの中へと足を進めた。

(気のせいかしら…?)

 彼の横顔はいつものような覇気がなく、愁いを帯びているように見えた。しかしこれといって根拠もなく、グルートの後姿を眺めながらアンヌは首を傾げた。


「おっ、あれ、ヒウンアイスじゃねーかッ!?」
「え?」

 グルートの後に続こうとしたとき、隣にいたブレイヴが、ホワイトとピンクのストライプ模様のテントが特徴的な店を指差した。行列ができており、繁盛しているように見える。

「ヒウンで有名なアイスクリームを売ってンだ!前から食ってみたかったンだよなァ~。」
「まあ、そうだったの。」
「よっしゃ、せっかくヒウンに来たンだ。オレ様も食ってやるぜ~~ッ!」
「ちょ、ちょっと、ブレイヴ!?」

 彼の我儘は今に始まったことではない。一度決めたことはやり遂げないと気が済まないブレイヴは、猪突猛進の勢いで店の方へと走っていく。仕方ない、彼を待つしか――と思いかけて、グルートの姿が遠くなっていることに気が付く。

(いけないわ。このままじゃ、グルートとはぐれちゃう。)

 何とか声を届けようとグルートを追い、人混みの中へと飛び込んだが、大都会の往来の中を容易には通り抜けられない。


「待って!グルート!」

 声を張り上げても喧騒によってかき消されてしまう。脇目も振らず彼の元へと駆け寄りたいような心細さに襲われる。だが思うように進まず彼との距離は開くばかり。それが益々彼女の心を焦らせた。


「きゃっ。」

 グルートの姿を見失わないようにと、一点ばかりに気を取られていたアンヌは圧迫する人の波に強く背を押され、よろめく。

「おっと。」

 転倒しそうになり、反射的に目を瞑ったが、痛みはやってこなかった。代わりに甘美なシトラス調の香りがふわりとアンヌを包んだ。彼女は薄く目を開き、自分がひとの胸元に埋まっていることに気が付いた。

「ご、ごめんなさ―――。」


 はっと顔を上げると、煌びやかな金の髪をオールバックにした端正な顔立ちの男性と目が合った。額に輝くルビーのような装飾品も、彼の纏う気品には敵わない。中性的な美しさを備えていながら、アンヌが触れた彼の腕はがっしりとしており、ひ弱さは少しも感じさせない。

「お怪我はありませんか、お嬢さん。」
「――えっ、は、はいっ……。」
「それは良かった。」

 爽やかな甘い微笑みにアンヌは胸の高鳴りを感じながら、彼から目を離せないでいた。

(王子様みたい…。)

 金の髪をした甘いマスクの紳士。おとぎ話で白馬にでも乗っていそうな雰囲気だ。真っ先に他人の心配をする心優しさも持っている。本当にこんなひとがいるのだとアンヌは別世界の景色を見ているような感動に浸り、うっとりする。

「可憐なお嬢さんの熱い眼差しは魅力的なのですが、残念ながらあまりゆっくりとはしていられない身でしてね。」
「!…あっ、し、失礼致しましたっ…。」

 ――と、男性から声を掛けられ、彼の体にいつまでもしがみ付いていたことに漸くアンヌは気が付いた。慌てて体を離し、目一杯に頭を下げた。羞恥で頬が赤く染まり、彼女は両手で顔を覆う。男性は柔和な表情でアンヌを見守っていた。


 アンヌと男性を避けるように人が通り抜けていく。


「この辺り一帯はビジネス街になっていて、ご覧の通り人も多いのですよ。お急ぎのようですがどうかお怪我だけはされぬよう、お気を付けください。」
「はい…、ありがとうございます。」
「それでは。」 

 男性はアンヌの右手を掬い取ると、流れるような仕草で手の甲にくちづけをした。挨拶代わりのものだということはアンヌにもわかっていたが、屋敷のひと達以外からされる機会は殆どなく、赤い顔をさらに上気させることになった。
 アンヌがぼんやりしている内に彼は身を翻し、ベージュのコートと赤いストールを靡かせながら颯爽と立ち去る。その立ち振舞いはスマートで一切の隙がなかった。手に持つ大きな銀のアタッシュケースから察するに、彼もビジネスマンでこれから仕事先に行くのだろう。

 鎮まらない胸の鼓動を聞き、アンヌは彼の唇が触れた右手の甲を左手で包んだ。彼の匂いが未だ鼻腔についているようで、くらくらと眩暈がした。

(紳士的で素敵なひとだわ。)

 歳はアンヌよりも一回りは離れていそうな感じだったが、子供扱いせず、一人のレディとして見てくれたことが気恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。

 少しはグルートとブレイヴにも見習ってほしいと思っていると、人の流れに逆らって強引に道を通り抜けようとする人影が近づいてきた。


「おい、早速迷子になってんじゃねーっての。」

 アンヌ達の姿が見えないことに気づいて引き返してきたのだろう。彼に居場所を伝えようとアンヌが一生懸命彼に向かって手を振ると、視線が合った彼は呆れたように溜息を吐いた。

「お子ちゃまは手がかかるぜ、全く。」

 ぼそりと愚痴っぽく零れたグルートの言葉にアンヌは少しむっとした。先ほどの紳士と接してからだとその扱いの差がより際立った。

「…どうせ私は子供ですもの、ふんっ。」
「あん?何拗ねてんだ。まあ、その通りだけどよ。」

 ダメ押しにアンヌはカチンときた。グルートはいつも余計な一言が多い。女心がわかっていない、というより女として見られていないということをアンヌは感じ取り、無性に腹立たしい気持ちになった。

「知らないっ!」
「ったく、……あのなあ。言いてぇことがあるならハッキリ言わねぇと――。」


 そっぽを向く彼女の肩を掴んだ時、グルートはこの場にあるはずのない“妙な臭い”を感知し、言葉を詰まらせた。原型の癖で反射的に鼻をひくつかせ、辺りの臭いを嗅ぐような仕草をする。するとその臭いがより強くなっているところを特定し、じっとアンヌを見る。

「アンヌ、ちょっと…こっち向け。」
「嫌ー!」
「わかったわかった、後でヒウンアイス買ってやるから!」
「本当!?……あっ。」

 まんまとアイスクリームに釣られてしまい、アンヌは彼の言う通り振り向いてしまった。グルートが子ども扱いをやめるまで口を利かないという算段は一瞬で崩れ去ってしまった。
 両手で肩をがっしりと掴まれる。何が何だかアンヌにはわからなかったが、こちらを見据えるグルートの眼差しがいつになく真剣で、ふざけているのではないということだけはわかった。ふてくされている場合ではないと察し、不安げに彼を見つめ返す。

「どうしたの?」
「…悪い、ちょっと。」
「っ!?」

 首筋にグルートの鼻息が掛かる。アンヌはざわっと体中が粟立つような感覚に襲われ、小さく震えた。心臓が忙しなく脈打ち、彼の息が通り抜ける度に強く締め付けられた。

「ぐ…ぐるぅと…いったい…なに…。」

 このままではよくないということはアンヌも本能的に察知した。しかもこんな人目に付くところでやるべきことではない。しかし、グルートはそんなこともお構いなしに探る様に彼女の体を嗅ぎ回っていた。

「お前、誰かに会わなかったか。この間みてぇな怪しい連中とか。」
「えっ…い、いいえ。私が転びそうになったのを受け止めてくださった男性はいたけれど…紳士的で優しいひとだったわ。」
「……そうか。」

 グルートは漸くアンヌから体を離した。彼女はほっとした様子で息を吐く。火照った体は暫く冷めそうにない。次から次へと今日は心臓に悪い日だとアンヌは思った。

 だがアンヌが安堵する一方で、グルートの眉間の皺は益々強くなり、険しくなるばかりだった。その鋭い嗅覚によって疑いが確信に変わったからだ。


(臭ぇ香水で誤魔化したつもりなんだろうが……。間違いねぇ、“血の臭い”だ。)

 アンヌを受け止めたというその男。まだ近くにいるかもしれないと、嗅覚を研ぎ澄ませるが、この人の数では既に臭いはかき消されてしまっていた。もどかしげに舌打ちをし、彼は道に唾を吐く。

(一体、何モンだ。)

 ――紳士の皮を被った獣が大都会の陰に隠れているのか。
 流動する人々をグルートは忌々しそうに睨みつけた。
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