shot.6 死の香り

 個室の病室で青年はぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。ヘッドホンから音漏れする激しいメタルサウンドも何度も耳にする内、変哲のない生活音の一部と化してしまった。
 物音に敏感な彼はヘッドホン越しでも病室に近づいてくる物音に気が付く。ノック音もなくいきなりドアを開けるその図々しさから、視線を向けずともおおよそ誰かは見当がついた。

「ブレイヴ!ひとの部屋に入るときはノックをしなきゃ…。」
「細けェことは気にすんなって!――よッ、元気か?」

 メタルサウンド以上に頭に響くブレイヴの声に青年は、はあと重々しい溜息を吐いた。傍でアンヌが申し訳なさそうに頭を下げる。

「そうだね。君の顔を見た瞬間、憂鬱な気持ちになったよ。」
「ンなわけねーだろッ!オレ様に会えば誰だってHAPPYになるに決まってるぜッ!」
「あはは……君って本当最高。」
「だろッ!」

 どこまでもポジティブなブレイヴは青年が忌々しそうに突き返した皮肉にも気が付かなかった。寧ろ、褒め言葉と受け取り上機嫌になっている。お調子者な彼にアンヌは頭を抱えつつ、青年に向き直った。


「ごめんなさい。もっと早くお見舞いに来れたらよかったのだけれど…その、色々あったものだから。」

 アンヌの顔には疲労の色が見えた。グルートとグラの喧嘩の件も然り、ブレイヴが食事制限を無視してジャンクフードを食べていたことも、きつくジョーイさんに注意を受けたのだ。当の本人達は説教に慣れているのか大して気に留めていない様子だったが。父以外のひとから大きな声で叱られた経験のないアンヌは真に受け、本人達以上に神経を擦り減らしていた。

「そーだぜ!おめェのいる部屋探すのが一番大変だったぜ。名前ぐらい名乗っとけっての!」
「……ブレイヴ…。」

 つい先ほどのことだというのに案の定、説教はブレイヴの頭を通り抜けてしまっていたようだった。その楽観的な彼の思考が今はとても羨ましく思った。確かに青年の名前を知らなかった為、病室を探すのは少し手間取ってしまったが、ジョーイさんの逆鱗に比べればなんてことはなかった。覚えている彼の容姿や雰囲気を近くにいたジョーイさんに伝え、病室を教えてもらうことができた。


「頼んでもいないのに君達が押し掛けて来ただけじゃァないか。――それに、僕には名前なんかないし。」
「え?」

 ふっとアンヌが一息吐きかけた時、不意に溢された青年の言葉が彼女の耳に引っ掛かった。


「名前が…ないの?」
「そもそも必要性を感じないね。トレーナーの下にいるわけじゃァないし。ポケモンセンターでも図鑑名と数字で事足りるからね。」

 今までアンヌが出会ってきた人型のポケモン達には皆、名前があった。故に名前があることが至極当然のことのように思っていたアンヌは目を丸くさせ、驚いた。だが彼の言う通り、ベッドサイドテーブルに乱雑に放り捨てられていた彼のものと思われる診断書には名前の欄が空で、その下の種族名のところに“ガマゲロゲ・301”と部屋の番号と併せて記載されているだけだった。

 どう声をかけていいかわからずアンヌが複雑な心地でいると青年は彼女が視線を向けていた診断書を手に取り、くしゃくしゃに丸め、ベッドの近くにあったゴミ箱に投げ捨ててしまった。


「なんだ、それならそうって早く言えよ!」


 気まずい空気を切り裂くようにブレイヴの明るい声が響いた。彼の陽気な声によって沈みかけた雰囲気がぱっと明るくなる。
 

「そうだなァ~。おめェなんかよォ、オレ様のダチのずーすけに似てンだよ。湿っぽい感じがな。だからよ、ずーすけっぽく“ひょろすけ”とか!“カリアゲクン”とかもお似合いだぜ!」
「……は?」

 青年はブレイヴが何を言っているのかわからない、いや、理解しているが受け入れたくないといったような苦い顔をした。彼の表情が強張っていく様はさすがに鈍感なブレイヴにも伝わったらしく、不可解そうに口を尖らせた。

「ンだよ、その顔。このSUPER HEROのオレ様が超イケてる名前を考えてやったンだから、もっと喜べよ。」
「死ね。」

 フリーダムなブレイヴの命名を、やはり青年は一蹴した。滅多に考えるという行為をしないブレイヴが珍しく頭を捻って出した案を即没にされ、彼は納得がいかない様子で青年に突っかかろうとする。
 やや強引ではあるが、彼のポジティブな発想にはアンヌも感心していた。無いのなら自分たちがニックネームをつければいい、そういうことなのだろう。ブレイヴが手を出さないように宥めつつ、彼女も青年を見つめながら、ブレイヴの前向きな意見に賛成するようにうんと頷いた。


「そうね。そのままじゃ、あなたのことを物扱いしているみたいでなんだか嫌だもの。」
「…あのさあ、名付けられるほど君達と親しくなった覚えはないんだけど。」
「じゃあ、親しくなる為に、素敵なあなたの名前を考えましょう?」
「……うわあ。」

 アンヌの提案に青年はあからさまに嫌そうな顔をした。そういう反応が返ってくるだろうということは今までの彼の反応から想像はついていたので、然程気にせず、その傍で彼女はじっと目を瞑り、思考を巡らせ、彼に似合う名前を考える。


 スカイアローブリッジで海を湧かせた水の力。水流。線の細い印象を抱かせるが、内に秘めたるエネルギーは力強く見えた。アンヌはいつか講義のビデオで見たジョウト地方の景色を思い出していた。優雅に流れる大きな河の映像。穏やかに流れながら岩場で跳ね上がり、強い勢いで水飛沫をあげるそれは彼の雰囲気を思わせた。


「タイガ……。タイガはどう?」
「僕が水タイプだから“大河”って?…安直だなァ。」
「気に入らなかった?いい名前だと思ったのだけれど…。…じゃあ……。」

 アンヌとしては彼に似合うと思ったのだが彼の反応はいまいちのように見えた。本人が納得できないのなら仕方ないと難しい顔をして、再びアンヌが案を捻りだそうとしていた。

「…まあ、これ以上変なあだ名をつけられるのも癪だからね。」

 却下の言葉が返ってくると思いきや、彼は渋々彼女の提案を受け入れるような態度を示した。途端、アンヌの表情が目に見えて明るくなり、彼女は興奮気味に彼に詰め寄った。


「いいの?あなたのこと“タイガ”って呼んでも!」
「止めろって言ってもどうせ呼ぶんでしょ。」
「決まりね!」

 自分の考えた名前を本人に認めてもらい、アンヌは嬉しそうに微笑んだ。頑なだった彼も会話を重ねるうちに少しは心を開いてくれたのかもしれないと思い、一歩大きく前に進んだような感じがした。タイガと名付けられた彼は相変わらず興味なさそうに冷めた目をしていたが。


「ちえッ、せっかくオレ様がSPECIALな名前考えてやったってのによー。」

 一方、採用されなかったブレイヴは少し不貞腐れたように頬を膨らませた。ブレイヴの出番を取ってしまったことに関しては悪いと思い、アンヌは小さく謝る。が、立ち直りの速さも並ではない彼はすぐに気を取り直し、ニッと歯を見せて笑った。


「ま、オレ様が考えたヤツほどじゃねェけど、タイガっていい響きだと思うぜ。おめェも意外とSENSEあンじゃねーか。」
「ブレイヴ…。」

 ブレイヴは親指を立ててグッドのポーズを取る。優しい言葉をかけてもらいアンヌは胸が熱くなった。
 

「へへっ、よろしくな。タイガ。」

 アンヌが付けた名前を大事に噛み締めるように、ブレイヴは彼に手を差し出した。

「私も改めてよろしくね、タイガ。」

 ブレイヴに続いてアンヌもタイガに手を差し出す。タイガは眩しいふたりの笑みと差し出された手のひらを見、暫くぼうっとする。彼の手が微かに動いた。が、その手の行き先はアンヌ達の方ではなく布団の中で、彼は隠すように両手をしまい込んでしまった。


「……用が済んだのなら、さっさと帰ってくれない?僕、疲れてるんだけど。」
「握手ぐらいいじゃねェか。減るモンじゃねェンだし。」
「僕が返す義理はないね。シッ、シッ。」
「て、てめェ…いちいちムカつく野郎だな…。」

 あくまでもドライな態度を取る彼にブレイヴはぴりぴりと苛立ちを迸らせたが、実際彼の顔色はあまりよさそうには見えず、ブレイヴも舌打ちをしながら引き下がった。拳を引いてくれたブレイヴにアンヌはほっと安堵しながら、怒りを抑えることができた彼に心の中で賛辞を送る。


「元気になったらゼッテーぶん殴ってやるからな、忘れンなよ~~ッ!」

 冗談なのか本気なのか。ヤグルマの森でタイガに言い放った台詞を改めて吐き捨て、ブレイヴは地を踏みつけるような大きな足音を立てながら病室を出る。ドンッドンッという振動は彼がその場からいなくなっても少しの間、感じられた。ブレイヴらしいといえばらしいが、少々乱暴だとアンヌは「もう。」と眉を顰めた。


「……じゃァ、僕を殴ることは一生できないだろうね。」


 ぽつりと溢された彼の声は、賑やかなブレイヴがいなくなった静かな病室によく響いた。挨拶を済ませてお暇しようと部屋を出かけていたアンヌは振り返る。だがタイガは頭から布団を被り、それ以上何も言わなかった。

 窓から差し込んでいた光も夕暮れの雲に遮られ、徐々に陰りを見せ始めていた。
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