shot.6 死の香り
手のひらに伝わる温もり――。それはまるでアンヌの名を呼ぶように彼女の体に広がっていく。
「う……っ…。」
重い瞼を薄っすらと開くと、心細そうに彼女の手を握る、見知った姿があった。
「ソ…フィア?」
「――!、アンヌちゃんっ!」
アンヌの声を耳にした瞬間、ソフィアははっと我に返った様子で、彼女に呼びかけた。朧げに映ったソフィアの顔を見つめながら、ぼんやりした頭で、アンヌは自分がベッドの上にいることに気が付いた。上体を起こし、ソフィアが目の前にいることを疑問に思いながら、記憶を辿った。
「私…スカイアローブリッジから落ちて……――そうだわ、みんなはッ!?」
震える手でソフィアの手を握り返し、アンヌは深刻そうな顔をしながら彼女に詰め寄った。切迫した様子のアンヌに少し驚いた風な顔をしたソフィアだったが、直ぐにアンヌを安心させるように柔らかな笑みを浮かべた。
「大丈夫。みんな無事だよ。」
「そう、よかった……。」
ソフィアの言葉を聞き、張りつめていた緊張が解かれ、アンヌは全身から力が抜けていくようだった。乱れた心拍数を落ち着かせるようにふう、と小さく息を吐き出す。背中を摩ってくれるソフィアの優しい手つきが動揺を抑えるのを手伝ってくれた。
ソフィアによると、ここはヒウンシティのポケモンセンターらしい。沖に浮かんでいたアンヌ達を発見した船乗りの人たちがヒウンシティの港まで運んでくれ、港から彼女がお世話になっている、例の“グラ”というひとがポケモンセンターまで運んでくれたようだった。グラから知らせを聞いて、特徴がアンヌ達と合致したこともあり、心配したソフィアとレックスもお見舞いに来てくれたのだ。
「心配かけてごめんなさい、ソフィア。」
「ううん。みんなが助かって本当によかった。」
アンヌとソフィアは抱き合い、再会の喜びを噛み締めた。予想外の出来事は幾つかあったが、こうして無事に済んだのは不幸中の幸いだった。何より道中で出会ったソフィアとこうしてまた顔を合わせることができたのは、不謹慎だとは思いつつも嬉しい気持ちを感じずにはいられなかった。
海に落ちて気を失ってから、丸一日経っていたようで、部屋には昼下がりの穏やかな日の光が差し込んでいた。
他の仲間の様子はどうなのだろうかと、アンヌが思っていたところ、病室の外から何かがぶつかるような大きな音がした。アンヌとソフィアは顔を見合わせる。ソフィアの手を借りてベッドから抜け出し、病室から物音が聞こえた廊下へと身を乗り出した。
「い…いたたっ…。」
「レックス!どうかしたの?」
「ん?…ああッ!アンヌやないか!意識戻ったんやな!」
腰を摩りながら廊下に尻餅をついていたレックスが、アンヌ達に気づいた様子で陽気な声を響かせた。
「ええ、ありがとう。それより、大丈夫?物凄い音が聴こえたのだけれど……。」
「あー…堪忍な。チョーっとばかしめんどいことになってるっちゅーか。…まァ、通常営業ちゅうたらそうなんやけど……。」
アンヌの問いにレックスは苦い顔をしながら、ドアが全開になっている目の前の病室に視線を向けた。アンヌもソフィアも状況をよく理解できずにいると、今度は部屋からがしゃんとガラスが割れるような鋭い音がした。
「うるせぇな、誰も助けてくれなんて頼んでねぇだろ!」
続けて怒号が聞こえた。アンヌの聞き間違いでなければ、恐らくグルートの声だ。ただならぬ様子に彼女は心臓が掴まれるような心地で、体を委縮させた。普段そこまで声を荒げることはないグルートに何があったのだろうか。アンヌは恐る恐る、病室に足を踏み入れ、ベッドのカーテンの陰に隠れるように様子を窺った。
そこにはやはりグルートの姿と、もうひとり、見知らぬサングラスの男がいた。グルートよりも更にひと回り大きくがたいのいい大男だ。ふたりはなにやら険悪そうな雰囲気で。男の周辺の床には花瓶の破片らしきガラス片が飛び散っており、位置的にベッドの上で胡坐をかいているグルートが投げ付けたものだと思われた。
「はーっ、ホンマ可愛げのないやっちゃな!『アリガトウゴザイマス』の一言も言われへんのか!」
「素直に言えなくさせてんのはあんたのせいだろ。グチグチ余計なこと言いやがって!」
「アホにアホ言うて何が悪いねん。炎タイプが海にダイブやなんて間抜けにも程があるわ。ドアホ!」
「だから事故だっつってんだろ!巻き込まれちまったんだからしょうがねぇだろうが!」
「波乗りぐらいパーっと避けられんかったら、この先命がなんぼあっても足らんわ。」
「余計なお世話だッ!」
いつもブレイヴを諌めている立場のグルートが、今はブレイヴのように冷静さを失い、男に食ってかかっている。状況から鑑みるに、レックスはこの口論を止めようとしてとばっちりを受けてしまったようだ。
「あ、あの!」
「あァ!?」
このままではよくないとアンヌは勇気を出して、ふたりの前に飛び出す。するとグルートはいかにも不機嫌という険しい顔で、反射的に声が聞こえた方を睨んだ。――が、その声の主がアンヌだということに気が付くと目を丸くさせ、硬直した。しんと静まり返り、アンヌは気まずい雰囲気を誤魔化すように少し困った感じで微笑した。頭に血が昇り、取り乱していた様をアンヌに見られてしまい、グルートは罰が悪そうに彼女から視線を逸らした。
「……よう。気分はどうだ。」
「え、ええ。眠っていたお陰で、少し頭がすっきりしたわ。」
「そりゃ…よかった。」
「なんや、この子オマエの女やったんか?」
痴態をなかったことにしようとしていたが、彼の茶々によってグルートの狙いは台無しになった。自棄になったのか、グルートは男の鳩尾あたりを思いっ切り肘で突く。急所を突かれた痛みと相まって「なにさらしとんじゃボケェ!」と再び、大声を上げた。
アンヌはきょとんと目を丸くさせたが、彼の言葉の意味をじわじわと汲み取り、やがて理解し、気付いたときには頬を紅潮させた。
「い、いいえ!そ、その…強いて言うのなら私はトレーナーで…グルートは力を貸してくれているというか……!」
「トレーナー?」
動揺を隠しきれず慌てるアンヌを他所に、男は意表を突かれた様子でぎょっとグルートの方を見た。向けられた視線に一瞬、グルートの表情が曇ったように見えた。彼は舌打ちをして彼の視線を鬱陶しそうに払った。
「…成り行きだよ。妙な勘違いしてんじゃねぇっての。」
真っ先に否定したのは自分の方、だというのに何故かグルートの言葉にアンヌはちくりと胸が痛んだ。どこかで“違う答え”を期待していた自分がいた。その答えが具体的に何なのかは彼女自身にもわからなかったのだが。
「あの…失礼ですが、あなたは?」
アンヌは心に過った靄を払拭するように言葉を切り出した。話題を変えなければ、騒めく心の音を止められそうになかったからだ。運よく、サングラスの男はそれ以上前の話題に触れることなく、にかっと歯を見せて笑ってくれた。
「ワシはワルビアルのグラっちゅうもんや。皆からは“グラさん”言われとるで。サングラスだけにな!」
「な、なるほど……。」
「寒い親父ギャクだな。…アンヌ、相手にする必要ねぇぞ。」
「上手いシャレの間違いやろ。」
グルートが皮肉めいた口調でツッコミを入れると、彼は軽くあしらう様に踵を返した。グルートと親しげに話す様子から検討はついていたが、やはり彼は話に聞いていたグラだったようだ。あの余裕を崩さないグルートが押し負けているようで、アンヌの目にはそれが新鮮に映った。
アンヌは改めてグラに向き直り、恭しく頭を下げ、自己紹介をしてからお礼の言葉を述べた。すると彼は彼女の態度に感激した様子でうんうんと頷いた。
「ほれみぃ、アンヌちゃんはきちんと『アリガトウゴザイマス』出来とるで。オマエも見習ったらどないや?」
「フン、死んでも言わねぇ。」
「せやったら、はよ死んだらええわ。」
「あの、ふたりとも…穏便に、ね?」
物騒な言葉の応酬にアンヌは冷や冷やしながら、ふたりの間に立った。しかしグルートは歯をぎりぎりと軋ませながらグラを睨んでいるし、グラはグルートを小ばかにしたように舌を出していた。
(…後でジョーイさんに花瓶のことを謝らなきゃ。)
いい歳をした大人達がまるで子供のようで、アンヌは気が重くなった。――が、彼女の苦労はそれだけに留まらなかった。その場にいなかったブレイヴはというと、またもや勝手に病室を抜け出し、フードコートでピザをたらふく食べていたのだ。今はブレイヴのトレーナーの立場にある彼女が、説教の巻き添えを食らうのは目に見えていた。
「う……っ…。」
重い瞼を薄っすらと開くと、心細そうに彼女の手を握る、見知った姿があった。
「ソ…フィア?」
「――!、アンヌちゃんっ!」
アンヌの声を耳にした瞬間、ソフィアははっと我に返った様子で、彼女に呼びかけた。朧げに映ったソフィアの顔を見つめながら、ぼんやりした頭で、アンヌは自分がベッドの上にいることに気が付いた。上体を起こし、ソフィアが目の前にいることを疑問に思いながら、記憶を辿った。
「私…スカイアローブリッジから落ちて……――そうだわ、みんなはッ!?」
震える手でソフィアの手を握り返し、アンヌは深刻そうな顔をしながら彼女に詰め寄った。切迫した様子のアンヌに少し驚いた風な顔をしたソフィアだったが、直ぐにアンヌを安心させるように柔らかな笑みを浮かべた。
「大丈夫。みんな無事だよ。」
「そう、よかった……。」
ソフィアの言葉を聞き、張りつめていた緊張が解かれ、アンヌは全身から力が抜けていくようだった。乱れた心拍数を落ち着かせるようにふう、と小さく息を吐き出す。背中を摩ってくれるソフィアの優しい手つきが動揺を抑えるのを手伝ってくれた。
ソフィアによると、ここはヒウンシティのポケモンセンターらしい。沖に浮かんでいたアンヌ達を発見した船乗りの人たちがヒウンシティの港まで運んでくれ、港から彼女がお世話になっている、例の“グラ”というひとがポケモンセンターまで運んでくれたようだった。グラから知らせを聞いて、特徴がアンヌ達と合致したこともあり、心配したソフィアとレックスもお見舞いに来てくれたのだ。
「心配かけてごめんなさい、ソフィア。」
「ううん。みんなが助かって本当によかった。」
アンヌとソフィアは抱き合い、再会の喜びを噛み締めた。予想外の出来事は幾つかあったが、こうして無事に済んだのは不幸中の幸いだった。何より道中で出会ったソフィアとこうしてまた顔を合わせることができたのは、不謹慎だとは思いつつも嬉しい気持ちを感じずにはいられなかった。
海に落ちて気を失ってから、丸一日経っていたようで、部屋には昼下がりの穏やかな日の光が差し込んでいた。
他の仲間の様子はどうなのだろうかと、アンヌが思っていたところ、病室の外から何かがぶつかるような大きな音がした。アンヌとソフィアは顔を見合わせる。ソフィアの手を借りてベッドから抜け出し、病室から物音が聞こえた廊下へと身を乗り出した。
「い…いたたっ…。」
「レックス!どうかしたの?」
「ん?…ああッ!アンヌやないか!意識戻ったんやな!」
腰を摩りながら廊下に尻餅をついていたレックスが、アンヌ達に気づいた様子で陽気な声を響かせた。
「ええ、ありがとう。それより、大丈夫?物凄い音が聴こえたのだけれど……。」
「あー…堪忍な。チョーっとばかしめんどいことになってるっちゅーか。…まァ、通常営業ちゅうたらそうなんやけど……。」
アンヌの問いにレックスは苦い顔をしながら、ドアが全開になっている目の前の病室に視線を向けた。アンヌもソフィアも状況をよく理解できずにいると、今度は部屋からがしゃんとガラスが割れるような鋭い音がした。
「うるせぇな、誰も助けてくれなんて頼んでねぇだろ!」
続けて怒号が聞こえた。アンヌの聞き間違いでなければ、恐らくグルートの声だ。ただならぬ様子に彼女は心臓が掴まれるような心地で、体を委縮させた。普段そこまで声を荒げることはないグルートに何があったのだろうか。アンヌは恐る恐る、病室に足を踏み入れ、ベッドのカーテンの陰に隠れるように様子を窺った。
そこにはやはりグルートの姿と、もうひとり、見知らぬサングラスの男がいた。グルートよりも更にひと回り大きくがたいのいい大男だ。ふたりはなにやら険悪そうな雰囲気で。男の周辺の床には花瓶の破片らしきガラス片が飛び散っており、位置的にベッドの上で胡坐をかいているグルートが投げ付けたものだと思われた。
「はーっ、ホンマ可愛げのないやっちゃな!『アリガトウゴザイマス』の一言も言われへんのか!」
「素直に言えなくさせてんのはあんたのせいだろ。グチグチ余計なこと言いやがって!」
「アホにアホ言うて何が悪いねん。炎タイプが海にダイブやなんて間抜けにも程があるわ。ドアホ!」
「だから事故だっつってんだろ!巻き込まれちまったんだからしょうがねぇだろうが!」
「波乗りぐらいパーっと避けられんかったら、この先命がなんぼあっても足らんわ。」
「余計なお世話だッ!」
いつもブレイヴを諌めている立場のグルートが、今はブレイヴのように冷静さを失い、男に食ってかかっている。状況から鑑みるに、レックスはこの口論を止めようとしてとばっちりを受けてしまったようだ。
「あ、あの!」
「あァ!?」
このままではよくないとアンヌは勇気を出して、ふたりの前に飛び出す。するとグルートはいかにも不機嫌という険しい顔で、反射的に声が聞こえた方を睨んだ。――が、その声の主がアンヌだということに気が付くと目を丸くさせ、硬直した。しんと静まり返り、アンヌは気まずい雰囲気を誤魔化すように少し困った感じで微笑した。頭に血が昇り、取り乱していた様をアンヌに見られてしまい、グルートは罰が悪そうに彼女から視線を逸らした。
「……よう。気分はどうだ。」
「え、ええ。眠っていたお陰で、少し頭がすっきりしたわ。」
「そりゃ…よかった。」
「なんや、この子オマエの女やったんか?」
痴態をなかったことにしようとしていたが、彼の茶々によってグルートの狙いは台無しになった。自棄になったのか、グルートは男の鳩尾あたりを思いっ切り肘で突く。急所を突かれた痛みと相まって「なにさらしとんじゃボケェ!」と再び、大声を上げた。
アンヌはきょとんと目を丸くさせたが、彼の言葉の意味をじわじわと汲み取り、やがて理解し、気付いたときには頬を紅潮させた。
「い、いいえ!そ、その…強いて言うのなら私はトレーナーで…グルートは力を貸してくれているというか……!」
「トレーナー?」
動揺を隠しきれず慌てるアンヌを他所に、男は意表を突かれた様子でぎょっとグルートの方を見た。向けられた視線に一瞬、グルートの表情が曇ったように見えた。彼は舌打ちをして彼の視線を鬱陶しそうに払った。
「…成り行きだよ。妙な勘違いしてんじゃねぇっての。」
真っ先に否定したのは自分の方、だというのに何故かグルートの言葉にアンヌはちくりと胸が痛んだ。どこかで“違う答え”を期待していた自分がいた。その答えが具体的に何なのかは彼女自身にもわからなかったのだが。
「あの…失礼ですが、あなたは?」
アンヌは心に過った靄を払拭するように言葉を切り出した。話題を変えなければ、騒めく心の音を止められそうになかったからだ。運よく、サングラスの男はそれ以上前の話題に触れることなく、にかっと歯を見せて笑ってくれた。
「ワシはワルビアルのグラっちゅうもんや。皆からは“グラさん”言われとるで。サングラスだけにな!」
「な、なるほど……。」
「寒い親父ギャクだな。…アンヌ、相手にする必要ねぇぞ。」
「上手いシャレの間違いやろ。」
グルートが皮肉めいた口調でツッコミを入れると、彼は軽くあしらう様に踵を返した。グルートと親しげに話す様子から検討はついていたが、やはり彼は話に聞いていたグラだったようだ。あの余裕を崩さないグルートが押し負けているようで、アンヌの目にはそれが新鮮に映った。
アンヌは改めてグラに向き直り、恭しく頭を下げ、自己紹介をしてからお礼の言葉を述べた。すると彼は彼女の態度に感激した様子でうんうんと頷いた。
「ほれみぃ、アンヌちゃんはきちんと『アリガトウゴザイマス』出来とるで。オマエも見習ったらどないや?」
「フン、死んでも言わねぇ。」
「せやったら、はよ死んだらええわ。」
「あの、ふたりとも…穏便に、ね?」
物騒な言葉の応酬にアンヌは冷や冷やしながら、ふたりの間に立った。しかしグルートは歯をぎりぎりと軋ませながらグラを睨んでいるし、グラはグルートを小ばかにしたように舌を出していた。
(…後でジョーイさんに花瓶のことを謝らなきゃ。)
いい歳をした大人達がまるで子供のようで、アンヌは気が重くなった。――が、彼女の苦労はそれだけに留まらなかった。その場にいなかったブレイヴはというと、またもや勝手に病室を抜け出し、フードコートでピザをたらふく食べていたのだ。今はブレイヴのトレーナーの立場にある彼女が、説教の巻き添えを食らうのは目に見えていた。