shot.1 令嬢誘拐

 リヒトは冷めたミルクを持って、アンヌの部屋から再び厨房へと足を運んでいた。
 「わざわざ、リヒト様の手を煩わせずとも言って下されば私たちがやりますのに。」と家政婦たちには不思議がられたが、リヒトの意志は頑なで、自らアンヌのためにミルクを温め直していた。

 ――僕がお嬢様にして差し上げられることは、これぐらいしかない。
 幾らアンヌの頼みでも、屋敷から無断で連れ出すことなど出来ない。…いや、してはならないのだ。主に背くものは死あるのみ。そう表現されるほど、裏切りはラインハルトにおいて最も重い罪だった。
 それでも、何度も繰り返し、アンヌの助けを求める切実な声と心細そうな表情が思い出されてしまう。胸の奥が焼けるように軋む音は、幾ら言い訳をしても誤魔化せそうになかった。

(僕は、なんて弱いんだ。)

 アンヌを救うことも突き放すこともできない。泣き腫らした瞼を見て見ぬふりをする自分がひどく、情けなかった。

 鍋の中で泡立つミルクを眺めながら、リヒトは深いため息をついた。

◇◆◇◆◇


「――隊長!リヒト隊長はおられますか!」
「!」

 丁度、温めたミルクをマグカップに注ぎ終わった頃。リヒトを探す高い女の声が耳に入ってきた。短い間に何度もリヒトの名前を呼び掛けている声は焦りを感じさせ、落ち着きがなかった。

「僕はここです。どうかしましたか、シュトラールさん。」
「隊長!」

 厨房から顔を覗かせたリヒトを見るなり、シュトラールと呼ばれた彼女の仏頂面が、一瞬、安堵に和らぐ。しかしすぐさま我に返り、姿勢を整え、機敏な動きでリヒトに向かって敬礼をした。

「この屋敷内に、侵入者ありとの報告です。つい先程、屋敷周辺を巡回していた分隊長が急所を突かれ倒れているのを発見しました。」
「!……他に被害は。」
「正面玄関の警備隊もやられていました。隊員の所持していたカードキーも無くなっており、恐らく、侵入者が盗んだものと思われます。」
「つまり侵入者は正面から堂々と入ってきた、ということですか。」
「そのようです。」

 正面突破という、大胆不敵な侵入者にリヒトも驚きを隠せなかった。目立ちたがりな怪盗でももっとましな手を使うはずだ。

(……知能が低いだけなのか?)

 財産目当てにしてはあまりに単純すぎる手だ。――しかし、精鋭揃いの隊員たちを次々に倒していることから察するにかなりの手練には違いない。財閥に怨みを持っている連中の仕業で、敢えて被害をこちらに知らせて挑発しているのかもしれない。いずれにしても、決して油断はできない相手だ。

「……とにかく、旦那様方の身の安全を第一に考えて、早急に侵入者を捕らえましょう。――侵入者の現在地は?」
「はい、東庭園付近でマッセルとタオフェが交戦中とのことです。」
「すぐに向かいましょう。」
「了解致しました。」

 不意にアンヌのことを気掛かりに思う感情が沸き上がる。お嬢様は大丈夫だろうか、泣いてはいないだろうか、…私情に引っ張られてリヒトは思わず立ち止まりそうになる。
 しかし今はアンヌに気をとられている場合ではないということは、リヒトが一番わかっていた。
 シャルロワ家を守るという一族の誇り。それを汚すことは絶対にあってはならないのだ。

 リヒトは歯を食い縛り、屋敷を守る警備隊長として、シュトラールと共に現場に急いだ。
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