shot.1 令嬢誘拐
夜の闇よりも深い黒。その黒は軽やかに木々の間をすり抜けて、暗い獣道を進んでいた。四足で駆け、残像しか見えない程の素早い身のこなしから、彼が人間ではない生き物であるということがわかる。彼は僅かに感じるある力の流れを察知し、その源を目指して走っていた。
(……17番水道か。)
暫くして、1番道路に出る。目的の場所へ行くにはその脇道にある海面を伝っていかなければならないのだが、波乗りを使えない彼がそこへいくには、自力だけでは難しかった。
(仕方ねぇ。――おい、誰か手を貸してくれ。)
同類にだけ聞こえる遠吠えをあげると、海面が揺れて、次の瞬間、水飛沫をあげながら大きなポケモンが飛び出してきた。…17番水道に生息している野生のブルンゲルだ。海水で膨らんだ水色の巨体を振動させながら、ブルンゲルは自分を呼び出した彼を見た。
(頼んだぜ、ブルンゲル。)
にやりと笑みを浮かべた彼は、ブルンゲルに飛び乗り、17番水道を渡り始めた。
◇◆◇◆◇
自室のテラスから、アンヌは星を眺めていた。
どんな生き物にも、あの夜空の星々と同じ数だけ多様な生き方がある。――どこかの本で見た言葉だ。初めてその言葉に触れた時、素敵な言葉だと感動したのをアンヌは覚えていた。
「どうしたら、私もお星様になれるのかしら。」
散々涙を流したというのに、アンヌの心は未だ、空想の世界にいたままだった。父からどんなにひどい仕打ちを受けて、体に痣が残っても、これほどまでに逃げ出したいと思ったことは、たった一度もなかった。
「お嬢様。…少々、宜しいでしょうか。」
扉の向こうから、遠慮がちな声が聞こえて、はっとした。この優しい声色はアンヌもよく知る者だったからだ。
涙を悟られぬように、目元を拭う。振り返り、アンヌは扉の方を見て、頷いた。
「……どうぞ。」
「失礼いたします。」
僅かに音を立てながら、ゆっくりと扉が開く。すらりとしたスマートな体型、結われた綺麗な蒼の髪は、中性的な顔立ちと相まって女性のようにも見えた。
「突然、申し訳ございません。……ご夕食も召し上がっていないと、他の者から聞いたものですから。」
シャルロワ財閥・警備隊「ラインハルト」隊長、リヒト。代々、シャルロワ家に仕えてきたルカリオの一族のひとりだ。誠実で心優しい彼はアンヌにとって、屋敷内で談笑できる数少ない相手。
アンヌの結婚に関することは当然、警備隊長である彼の耳にも入っていたので、心配して様子を見に来たようだった。
――お寒かったでしょう。とアンヌの薄着を指摘し、テラスにいた彼女の手をとる。リヒトに促されるまま、アンヌはベッドに腰を掛けた。
「ホットミルクでもいかがですか。温まりますよ。」
「……ありがとう。」
トレイに添えられたマグカップをリヒトから受け取り、アンヌはそれをぎゅっと両手で握りしめた。……しかし、アンヌは口をつけようとはしなかった。カップの中のミルクをじっと見つめて、ぼんやりしているばかりだ。
「お嬢様。」
リヒトは跪いて、俯くアンヌを見つめた。その眼差しはとても優しいもので、それだけでアンヌは再び、熱いものが込み上げてくる。
「……ねぇ、リヒト。」
マグカップを持つ手が震えた。すると、アンヌの小さな手を包むようにして、リヒトの手が重なる。優しい、リヒトの温もり。リヒトなら、もしかすると自分の願いを叶えてくれるかもしれない。
アンヌは微かな期待を胸にゆっくり、口を開いた。
「私を、ここから連れ出してくれないかしら。」
消えてしまいそうなか細い声でアンヌは言葉を発した。目を丸くさせるリヒトに詰めより、言葉を続ける。
「あなただけしかいないの。お願い、力を貸して。」
「おじょう…さま。」
「私嫌よ。まだ、恋も知らないのに、見ず知らずの方と結婚なんて出来ないわ。」
「……。」
「リヒトならわかってくれるでしょう?ねぇっ、だから、」
「――いけません。」
必死のアンヌを一喝するように、リヒトの声は冷たく響いた。一生懸命に伝えようとしていた気持ちを切り捨てるような非情な言葉。その中には、いつもの優しい彼の姿はなかった。
「……お嬢様は歴史ある、シャルロワ家のご令嬢です。ですから、高名なお方と結婚し、お家を存続させることはお嬢様の義務なのです。」
「…!」
かっと、頭に血がのぼって、目頭が熱くなる。…ショックだった。リヒトなら自分の気持ちをわかってくれると信じていたアンヌは、裏切られたような気持ちになる。茫然とするアンヌとは対照的に、リヒトの表情は機械のように無表情だった。その顔を見て、アンヌは漸く、リヒトに心情を訴えても無意味なのだと悟る。
「リヒトも…皆と同じことを言うのね。」
ぽつり、と零れたアンヌの言葉はリヒトを責めるような刺々しいもので。眉を寄せるリヒトの表情も苦しげなものになる。
「…僕は、シャルロワ家の未来をお守りするのが任務ですから。」
「そう…ね。」
「申し訳、ありません。」
深く頭を下げるリヒトに、アンヌもこれ以上、言葉を向けることはできなかった。いくら親しくともリヒトとシャルロワ家は主従関係なのだ。主にあたるレンブラントの意向にはリヒトも逆らえない。それはアンヌも知っていた。けれど、無謀だとわかっていても言わずにはいられなかったのだ。
「……いいえ、私の方こそ困らせてしまってごめんなさい。リヒト。さっきのことは忘れてください。」
「…はい。」
「私ったら駄目ね。せっかくリヒトが持ってきてくれたミルクも冷めてしまったわ。」
「お気になさらないでください。ミルクぐらい、すぐに僕が淹れ直してきますから。」
緊迫した雰囲気は消え、目の前にはいつもの優しいリヒトがいた。それに安堵しながらも、心の深奥に虚しい思いが募っていくのをアンヌは感じていた。
(……17番水道か。)
暫くして、1番道路に出る。目的の場所へ行くにはその脇道にある海面を伝っていかなければならないのだが、波乗りを使えない彼がそこへいくには、自力だけでは難しかった。
(仕方ねぇ。――おい、誰か手を貸してくれ。)
同類にだけ聞こえる遠吠えをあげると、海面が揺れて、次の瞬間、水飛沫をあげながら大きなポケモンが飛び出してきた。…17番水道に生息している野生のブルンゲルだ。海水で膨らんだ水色の巨体を振動させながら、ブルンゲルは自分を呼び出した彼を見た。
(頼んだぜ、ブルンゲル。)
にやりと笑みを浮かべた彼は、ブルンゲルに飛び乗り、17番水道を渡り始めた。
自室のテラスから、アンヌは星を眺めていた。
どんな生き物にも、あの夜空の星々と同じ数だけ多様な生き方がある。――どこかの本で見た言葉だ。初めてその言葉に触れた時、素敵な言葉だと感動したのをアンヌは覚えていた。
「どうしたら、私もお星様になれるのかしら。」
散々涙を流したというのに、アンヌの心は未だ、空想の世界にいたままだった。父からどんなにひどい仕打ちを受けて、体に痣が残っても、これほどまでに逃げ出したいと思ったことは、たった一度もなかった。
「お嬢様。…少々、宜しいでしょうか。」
扉の向こうから、遠慮がちな声が聞こえて、はっとした。この優しい声色はアンヌもよく知る者だったからだ。
涙を悟られぬように、目元を拭う。振り返り、アンヌは扉の方を見て、頷いた。
「……どうぞ。」
「失礼いたします。」
僅かに音を立てながら、ゆっくりと扉が開く。すらりとしたスマートな体型、結われた綺麗な蒼の髪は、中性的な顔立ちと相まって女性のようにも見えた。
「突然、申し訳ございません。……ご夕食も召し上がっていないと、他の者から聞いたものですから。」
シャルロワ財閥・警備隊「ラインハルト」隊長、リヒト。代々、シャルロワ家に仕えてきたルカリオの一族のひとりだ。誠実で心優しい彼はアンヌにとって、屋敷内で談笑できる数少ない相手。
アンヌの結婚に関することは当然、警備隊長である彼の耳にも入っていたので、心配して様子を見に来たようだった。
――お寒かったでしょう。とアンヌの薄着を指摘し、テラスにいた彼女の手をとる。リヒトに促されるまま、アンヌはベッドに腰を掛けた。
「ホットミルクでもいかがですか。温まりますよ。」
「……ありがとう。」
トレイに添えられたマグカップをリヒトから受け取り、アンヌはそれをぎゅっと両手で握りしめた。……しかし、アンヌは口をつけようとはしなかった。カップの中のミルクをじっと見つめて、ぼんやりしているばかりだ。
「お嬢様。」
リヒトは跪いて、俯くアンヌを見つめた。その眼差しはとても優しいもので、それだけでアンヌは再び、熱いものが込み上げてくる。
「……ねぇ、リヒト。」
マグカップを持つ手が震えた。すると、アンヌの小さな手を包むようにして、リヒトの手が重なる。優しい、リヒトの温もり。リヒトなら、もしかすると自分の願いを叶えてくれるかもしれない。
アンヌは微かな期待を胸にゆっくり、口を開いた。
「私を、ここから連れ出してくれないかしら。」
消えてしまいそうなか細い声でアンヌは言葉を発した。目を丸くさせるリヒトに詰めより、言葉を続ける。
「あなただけしかいないの。お願い、力を貸して。」
「おじょう…さま。」
「私嫌よ。まだ、恋も知らないのに、見ず知らずの方と結婚なんて出来ないわ。」
「……。」
「リヒトならわかってくれるでしょう?ねぇっ、だから、」
「――いけません。」
必死のアンヌを一喝するように、リヒトの声は冷たく響いた。一生懸命に伝えようとしていた気持ちを切り捨てるような非情な言葉。その中には、いつもの優しい彼の姿はなかった。
「……お嬢様は歴史ある、シャルロワ家のご令嬢です。ですから、高名なお方と結婚し、お家を存続させることはお嬢様の義務なのです。」
「…!」
かっと、頭に血がのぼって、目頭が熱くなる。…ショックだった。リヒトなら自分の気持ちをわかってくれると信じていたアンヌは、裏切られたような気持ちになる。茫然とするアンヌとは対照的に、リヒトの表情は機械のように無表情だった。その顔を見て、アンヌは漸く、リヒトに心情を訴えても無意味なのだと悟る。
「リヒトも…皆と同じことを言うのね。」
ぽつり、と零れたアンヌの言葉はリヒトを責めるような刺々しいもので。眉を寄せるリヒトの表情も苦しげなものになる。
「…僕は、シャルロワ家の未来をお守りするのが任務ですから。」
「そう…ね。」
「申し訳、ありません。」
深く頭を下げるリヒトに、アンヌもこれ以上、言葉を向けることはできなかった。いくら親しくともリヒトとシャルロワ家は主従関係なのだ。主にあたるレンブラントの意向にはリヒトも逆らえない。それはアンヌも知っていた。けれど、無謀だとわかっていても言わずにはいられなかったのだ。
「……いいえ、私の方こそ困らせてしまってごめんなさい。リヒト。さっきのことは忘れてください。」
「…はい。」
「私ったら駄目ね。せっかくリヒトが持ってきてくれたミルクも冷めてしまったわ。」
「お気になさらないでください。ミルクぐらい、すぐに僕が淹れ直してきますから。」
緊迫した雰囲気は消え、目の前にはいつもの優しいリヒトがいた。それに安堵しながらも、心の深奥に虚しい思いが募っていくのをアンヌは感じていた。