shot.16 貴方の世界に届かない

 鼻につく香水と血の臭い。それに胸が騒めくのを感じながらグルートは振り返る。
 華奢なアンヌの体を抱いて、恍惚の表情を浮かべるギルバートの姿。まるでグルートに見せつけるかのように彼は執拗に彼女の肌に触れていた。

「てめぇ…アンヌから離れろ!」

 耐えるように口を固く閉ざし、びく、と体を震わせるアンヌを見た瞬間、グルートの中に激しい怒りが湧き起こる。
 地面を蹴り、勢いのまま彼に殴り掛かろうとしたが、その拳は彼には届かず、ギルバートを庇う盾として現れたツェペシュに受け止められる。

「っ……ぐ!どけッ!!」
「申し訳御座いませんが、出来かねます。」

 病み上がりの体では思うように動かない。力を込めても、ツェペシュのガードを突破するには至らず、グルートの攻撃は容易く受け流されてしまう。反動で体が吹き飛び、背をボラードに強く打ち付ける。

「相変わらず躾の悪い犬だ。トレーナーの顔が見てみたいものだな。」

 ギルバートは痛みに呻くグルートに冷ややかな眼差しを向けると、アンヌの体に回していた腕を離す。くるりと彼女の体をターンさせ、向き合う形にさせる。

「ああ、一応言っておきますが……アンヌさんのことではありませんよ。あなたには犬畜生のトレーナーなどではなく、俺の妻という素晴らしい肩書きがありますからね。」
「……二度と私の婚約者を名乗らないでと言ったはずよ。」
「ふっ、強気だな。だが、それでこそ張り合いがあるというもの。俺の大好きなアンヌさんです。」

 せめてもの抵抗と言わんばかりに、アンヌは敵意に満ちた眼差しをギルバートに向ける。だが、彼女の感情とは対照的に彼は目を細めて、不気味なほど穏やかな微笑みを浮かべる。

「俺は狙った獲物は手に入れなければ、気が済まない性分でしてね。……あなたもそのひとつだ。」

 ギルバートはアンヌの顎に指を添えて、自身の顔の近くに引き寄せる。あの時の接吻を思い出して、彼女は必死に顔を背ける。

「は、離してっ!」
「恥ずかしがるなよ。俺とアンヌさんの仲じゃあないか。」

 怯えるアンヌを愉快そうに見つめながら、じりじりと距離を詰めるギルバート。
 ーーその時、咆哮が聞こえる。獣が相手を威嚇するような激しい音。それに不意を突かれて、ツェペシュが一度退く。すかさずグルートは彼の守備を突破する。

「離れろってーー言ってんだろうがッ!」
「ぐっ、しまった…!ギルバート様!」

 怒りの炎を纏いながら、ギルバートを目掛けて再び拳を振り上げる。けれどグルートが標的にしている彼は、間近に攻撃が迫っているにも関わらず平静で。
 素早くコートの内ポケットから拳銃を取り出すと、グルートの足元を目掛けて彼は射撃する。その影響で彼は攻勢の構えを解き、一歩後退した。威嚇射撃によって、グルートの動きが止まったのを確認して、ギルバートは拳銃を下ろした。

「まあ、そう気を荒立てないでくださいよ。今日は事を構えるつもりはないのでね。……ただ、愛しのアンヌさんがお困りだと耳にしたものですから、助けに馳せ参じたまで。」
「何だと…?」
「ツェペシュ、例のものを。」
「畏まりました。」

 ギルバートに命じられ、ツェペシュが金の硬質ケースをアンヌに差し出す。彼女は戸惑い、躊躇したが、ツェペシュが丁寧に彼女の手を掬い、それを握らせた。彼に指し示されるがままに中身を開くと、一枚のカードが入っていた。

「これは……。」

 カードにはアンヌの顔写真が入っていて、出身地、誕生日などの個人情報も載っていた。
 まさか、とアンヌがギルバートを凝視すると、その眼差しを待っていたといわんばかりに彼は頷く。
 
「アンヌさんのトレーナーカードです。これがあればPWTにも出場できるでしょう。」
「どうしてそのことを……。」

 ギルバートに問いかけながらも、アンヌは薄々勘付いていた。アンヌがトレーナーカードを所持しておらず、PWTにエントリーできなかったことを知っているのは、恐らく彼が何らかの手を使って動向を監視しているからなのだろう。父とも協力関係にあり、権力者である彼が彼女のトレーナーカードを作るなど朝飯前なのだろうが、気味の悪さは拭えない。その上、写真の衣服から推察するに、それは近影のもので。いつの間にこの写真を撮ったのか……ギルバートへの疑心は強まるばかりだった。

「なに、俺にとっては容易いことです。敢えて言うならば……そうだな、愛の力というやつですかね。」
「……。」

 彼は無駄に誇らしげだった。ジョークなのか、本気なのか意図は読めなかったが、アンヌが彼から距離を置きたい気持ちが一層強くなったのは間違いない。
 絶句し、固まるアンヌの耳にギルバートはそっと手を添える。

「俺はなんだって知ってる。……あなたのことも、あの野良犬のこともね。知りたければいつでも教えて差し上げますよ。」
「えっ……。」
「今度は二人っきりで会えるのを楽しみにしているよ。マイ・ガール。」

 耳元で囁いた彼は、流れる様な仕草でアンヌの頬に唇を寄せ、リップ音を立てる。再び、背中を這う寒気に襲われながら、アンヌは悲鳴を上げた。

「ひやっ……!」
「ッ、てめぇ!」
「それでは。PWTの会場で、あなたの活躍を見守っていますよ。」

 もう一度アンヌに微笑みかけて、手を振ると、ギルバートはツェペシュに目配せする。彼が頷き、風を起こすと、瞬きの間に二人の姿はその場から消えていた。

「クソ…ッ!逃げやがったか……。」

 忌々しそうにグルートが舌打ちを溢し、標的がいた場所に拳を突き立てる。行き場を失った怒りが燻っていた。

◇◆◇◆◇


 アンヌは口付けられた頬を押さえたまま、茫然とその場に立ち尽くす。接吻よりも彼女はギルバートが放った一言に困惑し、心を揺さぶられていた。

『あの野良犬のこともね。知りたければいつでも教えて差し上げますよ。』

(グルートのことも……あのひとなら……。)

 アンヌの知らないグルート。その情報もギルバートは握っているのだとしたら。グルートの“大切なひと”というトレーナーのことも知っているのだろうかーー?
 アンヌの心臓はどくどくと脈打ち、きつく締め付けられる。罠だと疑う思いと、知りたい欲求、後ろめたさが彼女の中で混在していた。

「……ごめんな。」

 消え入りそうなグルートの声が聞こえた後、頬を押さえていたアンヌの手が退けられる。骨張った大きな手が触れて、その親指で彼は彼女が口付けられた箇所を拭う。

 瞳に映るグルートの姿が歪んで見える。彼の謝罪はギルバートの接吻を指しているのか、それとも例の彼女のことなのかーー。
 アンヌの心の奥に芽生えた邪推する思考が、ぱっと衝動的にグルートの手を跳ね除けていた。彼は虚をつかれたように目を丸くさせる。

「だ、大丈夫よ。ありがとう。」
「……そうか。」

 視線を逸らして平静を装うが、彼女自身も自分の取った行動に驚いていた。内心は黒く渦を巻き、激しく動揺している。グルートの優しさを素直に受け止められないことなど、今までになかったのに。気まずく、無理にでも笑顔を作らなければ、居心地の悪さに耐えられなかった。

「戻りましょう、みんなもきっと心配しているわ。」

 意識して明るい声で話題を変えると、グルートはそれ以上追及して来ず、アンヌの言葉に静かに頷く。
 未だ頬に残る彼の手の温もりが罪悪感を強め、彼女を一層惨めな気持ちにさせた。
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