shot.13 初恋の雨

 なだらかな緑の丘を見渡すと、澄んだ海が広がっていた。寄せては返す、心地の良い細波の音と潮の匂い。
 見慣れたその景色に、彼が感じたのは懐かしさよりも先に虚しさだった。
 美しい景色を背に、風に靡く長い銀色の髪を目にした瞬間、これが夢であることを彼はすぐに自覚した。
 何故なら彼女はもう既にーーー。


「グルート?……怖い顔してどうしたの?」

 振り返った彼女はこちらを見て、不思議そうな顔をする。これが自らが作り出した偽物であることはわかっているのに、グルートは目の前にいる彼女に向かって、一歩、また、一歩と近づいていた。
 泣きたいような、縋りたいような。子犬のような不安定な足取りで距離を縮めると、力の限り彼女を抱きしめる。

「ーー頼む、もうどこにもいかないでくれ。」

 一言口にしようとするだけで喉が焼けるように、苦しい。嗚咽が混じったような、掠れた声しか出すことができない。
 指に絡みつく彼女の長い髪が愛おしく、やり切れなさに胸が締め付けられた。

「悪い夢を見たのね。」

 小さな彼女の手が後ろ髪を撫でる。変わらぬ優しい手つきと、動いている彼女の鼓動に思わず視界が滲む。

「大丈夫、私はいつでもあなたの傍にいるから。だから、笑って。」

 耳元で響く彼女の柔らかな声に、グルートは何度も頷いた。心地の良い場所。大切なひと。この温もりを離したくない、もう失いたくないと切に願う。


 ーーだが、永遠を願えば願うほどに、それは遠ざかり、叶わぬ夢だと気付かされることになる。


 もう一度強く、彼女を引き寄せようとした瞬間、彼女の体はグルートの腕をすり抜けた。

 鮮やかだった周囲の景色は一転し、鬱蒼とした灰色に変わる。天上からぽつぽつと雫が降り注ぎ、それは次第に大粒の雨となって、彼の体に打ちつける。

 グルートはさっと血の気が引いていくのを感じた。

 どく、どく、どく。
 “既視感”に、胸の傷が疼きだす。
 
 自身の手についた生々しい赤。鼻腔につく錆のような、血生臭さ。目の前には血に塗れた彼女が横たわっていた。
 地を引き裂くような激しい雷鳴の中にあっても、グルートはその場から一歩も動けず、茫然と立ち尽くす。

(やめろ、やめてくれ!)

 息が荒くなり、体の震えが止まらない。雨とはこんなにも冷たいものだっただろうか。
 嫌というほど脳裏に焼きついたこの残酷な光景を、再び目にしたグルートは、堪らず絶叫する。しかし、どれだけ泣いても、叫んでも、この言葉はもう二度と彼女には届かない。
 嘘だ。これは夢だ。ただの悪夢。目が覚めれば全てはまやかしだったのだとーーそうでなければ、この世界に価値はなく、自分が存在する意味もない。

 崩れ落ちるグルートの姿を激しい雨音が掻き消す。それは次第に大きくなっていき、彼の意識までも覆い隠した。

◇◆◇◆◇


「ーーっ!」

 猛烈な息苦しさと共にグルートは目を覚ました。首周りや背中はびっしょりと汗をかき、敷いていたシーツは濡れていた。
 気怠さと不快感の中、彼は現実に戻って来られたことに安堵していた。

「……ゆめ、か。」

 赤色に染まっていた両手も元に戻っている。荒い息を整え、自身を落ち着かせるように、その手で顔を覆った。

(何で今更……あの時のことを……。)

 ぎりっ、と奥歯を噛み締めた。時々、夢に見ては魘される、“あの日”の記憶。
 何故、夢は嫌な景色ばかり鮮明に映すのだろうか。あの夢を見た直後は、罪悪感と後悔に押しつぶされそうになる。蓋をしていた感情が溢れて、情緒を掻き乱されてしまう。

 窓に雨が打ちつける音がする。嫌な夢を見たのはこのせいか。
 ーーあの日以来、彼は雨が嫌いになった。


「マリア……。」

 彼女を思い、目頭が熱くなるのを堪える。
 昔のことだ、終わったことだと、感情を無理矢理封じ込めて、へばり付く記憶を引き剥がすように、グルートは重い体を起こした。


「ぐ……っ。」

 少し体を動かしただけで、全身に鈍い痛みが走り、反射的に顔を顰める。肩から胴体にかけて巻かれた包帯が痛々しく、負傷したことを主張していた。
 何本か折れている歯もあり、脈打つような痛みが口内に響く。まだ完全には止血されていないようで、苦い血の味がする。

 消灯した無機質な部屋と薬品の匂い、処置を施されていることから推察すると、ここがポケモンセンターであることは見当がついた。


 ギルバートとの戦いの最中、ーー無我夢中で彼を止めようと足に噛みついたところまでは覚えているが、その後のことについては朧げだった。どうやら、命は助かったらしかったが。
 ブレイヴとジェトの匂いも近くにある。衝立代わりになっているカーテンを隔てた、隣のベッドにいる気配がした。


(ーーそうだ、アンヌは……!)

 抜け落ちた記憶のピースが嵌り、グルートは、はっとする。必死にギルバートに噛み付いたのは、彼がアンヌに手を出そうとしていたからだ。
 ……しかし彼女の残り香はあるものの、周囲を見渡してもその姿は見当たらない。

(まさか……もう、ギルバートの奴に…!)

 ポケモンセンター内にいればいいのだが、あの後、ギルバートに連れ去られてしまったという可能性も拭いきれない。
 ーーーあの男のことだ、アンヌにどんな仕打ちをするつもりなのか、……考えただけで吐き気がして、腑が煮え繰り返る。

(とにかく、アンヌを探さねぇと……。)

 物に掴まって立ち上がろうと、ベットサイドテーブルに手を伸ばす。…すると、擦れるような音がして、グルートの手に何かが触れた。
 乱雑に掴んで、それを引き寄せると、それは巾着のような布の袋だった。

「!」

 中身を見たグルートは、驚愕した。ーー見覚えのある、赤いペンダント。
 どうしてアンヌが所持している筈のペンダントが、袋の中に入っているのだろうか。
 
 袋の中には小さな封筒も入っていて、裏を見ると、“Anne”と書かれていた。やはりこれは彼女が置いたものらしかった。
 即座に封を開けて、中に入っていた便箋を取り出す。忙しなく視線を左右に動かし、流し見る。……そして、その内容に彼は絶句した。手紙を持つ手が震えて、思わず、握り潰してしまった。

「あの……馬鹿野郎…!」


 悲痛なグルートの声が、静かな病室に虚しく木霊した。いてもたってもいられず、側に畳んであったいつもの黒ジャケットを羽織ると、息を呑み、勢いをつけてベッドから立ち上がる。よろめき、撃ち抜かれた右足にずきりと激痛が走った。滲んだ汗が頬を伝う。彼は痛みを噛み殺して、壁を伝いながら歩き出す。


 ーーー雨の勢いは激しさを増していた。それはアンヌの匂いも徐々に薄めて、彼女の存在を遠ざけていく。
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