shot.1 令嬢誘拐

 寒い夜の中、冷たいコンクリートの壁を背に、青い制服がふたりを取り囲む。足を攻撃されたグルートは膝をつき、苦しげに荒い息を零している。集団はいつでも彼を仕留めることができるように攻撃の体勢をとっていた。

「――ま、待ってください!」

 アンヌは見ていられなくなり、グルートを庇うようにして観衆の前に立つ。令嬢の登場に周囲にはざわめきが起こる。それを制し、一歩前に出てきたのは、隊長であるリヒトだった。彼は、アンヌが外に連れ出して欲しいと頼んだ時のような冷たい眼をしている。それに思わず体が竦んでしまう。けれど自分の事情にこれ以上、関係のないグルートを巻き込むわけにはいかない。その思いが、彼女の口を開かせた。

「このひとは悪くないの。私が言い付けを破って、お屋敷の外にいきたいなんて思ったから……。どうしても…お外に行ってみたいって気持ちが抑えきれなくて。一度だけなら許してもらえるんじゃないかって思ってしまったの……!」
「お嬢様……。」
「……ごめんなさい、リヒト。同じことでまたあなたを困らせてしまって。」

 自分の発した軽率な発言がこんな結果を生んでしまった。何も考えず一時の思いだけで逃げ出そうとしてしまった。それはリヒトに心の内を零してしまった時に反省したはずだったのに。アンヌの胸は罪悪感でいっぱいになる。リヒトに心配をかけてしまったこと、皆に迷惑をかけてしまったこと。グルートに怪我を負わせてしまったこと――それは全部、自分の弱さが招いたことだったからだ。

「もう二度とお屋敷から出ようだなんて思わないから。お父様の言う通り、結婚もします。だから、このひとだけはどうか…!」

 悲痛な声に冷徹を装っていたリヒトの瞳が揺らぐ。彼は何も言えず、黙って彼女の話を聞いていた。……アンヌの気持ちは痛いほどわかった。立場という葛藤。それがどんなに苦しいことか。酷なことか。だがアンヌは、あれだけ困惑を露わにし、嫌がっていた結婚をするとまで皆の前で宣言している。自らを盾にしてまでこの男を守りたがっているのだ。この「侵入者」という男と何かあったのだろうということは想像に難くなかった。できることならリヒトもアンヌの願いを聞き入れ、彼を見逃してやりたかった。

「……侵入者を捕えてください。」
「リヒトっ…!?」
「彼は不法侵入、器物損壊、傷害、ならびに誘拐未遂という多くの罪を犯しています。……ラインハルト隊長として、見逃すわけにはいきません。」
「そんな……。」

 今にも泣き出しそうな顔で声を失ったアンヌの姿を見るのは、彼が受ける罰にしてはあまりにも重く、残酷に映った。リヒトの思いを阻んだのはまたしてもラインハルト隊長という重い立場。部下の手前、道標となる自分が私情を挟むわけにはいかなかった。ラインハルトの行う全ては正義であり、そこに「間違いはない」のだから。


「アンヌ、こういう頭の固い連中には何言っても無駄だぜ。」

 ――静まり返った重い空気を切り裂くように響いた低い声。いつの間にか彼はその二本の足で立ち上がっていた。不安定な足取り。傷だらけの体。それを見て、みすぼらしく滑稽な様だと嗤う者もいた。だが、その赤い目に宿る光は、弱まるどころかラインハルトを前により強く輝きを増す。

「たかが外に連れ出すぐらいで大袈裟だと思ってたんだ。……なるほど、こりゃ監獄ってのもあながち間違いじゃなかったな。」

 グルートはアンヌの肩をぐっと掴み、自分の後ろに退かせた。入れ替わるようにしてラインハルトと対面する形になる。アンヌは嫌な予感がして、グルートを止めようとしたが、彼の横顔に、静かに燃える憤怒と憎悪を感じて何も言えなくなってしまった。

「これだけガキを追い詰めておいて、なに正義面してんだよ。……要するにお前らはてめぇの立場を守りたいだけじゃねぇか。」
「……!」
「ろくでもねぇ権力に屈して、信念を失った生き物ほど哀れなモンはねぇな。」

 この絶体絶命の中でもグルートは挑発的で、自分の考えを変えることはなかった。ぎろり、と鋭く睨みつける彼の視線にさっきまで嘲笑していた者も顔を強張らせ、竦む。
 リヒトは自分が誤魔化してきた核心を突かれ言い返す言葉がなく、唾を飲み込み目を伏せた。


「僕は……。」

 固く拳を握り締め、リヒトもまたグルートを睨みつけた。矛盾、葛藤、苦悩を押し殺し、ラインハルト隊長としての顔を作る。自分は一族の忠義の歴史と誇り、部下の運命を背負っているのだ。例え、それが自分やアンヌを苦しめることになっても、彼はその責任から逃れることは出来なかった。


「―――それでも、あなたを許すことはできない。」

 握り締めていた拳を開き、そこに波動のエネルギーを集める。リヒトは走り出し、勢いをつけながら、波動弾をグルートに向けて、放つ。その一撃は弧を描きながら、グルートの右腕に直撃する。防いだつもりだったが、波動弾を受けた腕は火傷のように熱を持ちながら、じりじりと皮膚を焼き、爛れていた。浸食するようなしつこい痛みにグルートは舌打ちをした。
 その後もリヒトは波動弾を繰り返し放った。悪の波動で応戦するグルートだったが、負傷した体の動きはいつもより鈍っており、避けきれなかったものが何発か体に当たってしまう。

「お願い、リヒト!もうやめて!」

 激しい乱打はアンヌの声をかき消してしまう程で。ポケモンのように特別な力を持っていないアンヌはどうすることも出来ず、非情を装い苦悩の中戦うリヒトと自分を守って傷ついていくグルートの姿をただ見ていることしか出来なかった。

「お前のせいじゃねぇ。」
「!…え」
「アンヌ。……立場もルールもあの眼鏡も関係ねぇ、お前はてめぇがどうしたいかだけ考えろ。」

 葛藤する少女の心の内を察したのか、グルートが意味深に呟く。その声に引っ張られるようにアンヌは顔を上げた。背を向けている為、彼の表情は分からない。……だがアンヌの目には、そのぶっきらぼうで大きな背中がとても心強く映った。

「皆!隊長に続けッ!」

 リヒトの傍らにいた部下のシュトラールが声を上げた。互いを見渡し、迷いを見せていた群衆は、彼女の声に扇動されるように次々にグルートを目掛けて、突進する。
 沸き上がる興奮と怒号の中、アンヌは目を瞑り、ひとり静かに考えた。
 ……何故、自分はグルートについていきたいと懇願したのか。婚約者の存在を言い渡された時の衝撃と絶望。それをきっかけに今まで封じ込めてきた思いが溢れ出して止まらなくなった。見知らぬ世界への興味。夢。そして恋。その時の気持ちを探り、彼女は気がつく。

「わたしは……。」

 いいや、駄目だとまた飲み込んでしまいそうになる。言えば今度こそ逆らえなくなる気がして。――だが、グルートは言った。自分の置かれた立場を除き、自分がしたいことを考えろと。16年間、抑えてきたその想いと向き合い、それを口にするのは勇気が必要だった。震える体と潤む視界。言葉はすぐそこまで出かかっているというのに、喉が焼けるように熱く、アンヌを阻んだ。
 もどかしさと自分への情けなさから、彼女の手は実際よりも更に小さく弱々しく見え、凍りついてしまうのではないかというぐらい冷たくなっていた。
 ……その手が不意に温かくなる。アンヌのそれとは違う、力強く骨ばった大きな手。はっとする。火が燈るような、穏やかな安らぎを与えてくれたその温もりの主はやはり、彼だった。

 ラインハルトが迫るこの絶体絶命の状況においてもグルートは逃げ出す素振りすら見せず、不安で押し潰されそうな自分を支えてくれている。一体何故。どうして初対面の相手にそこまでしてくれるのだろうか。彼の優しさの理由はどこにあるのか。普通なら何か思惑があって自分を利用する為に近づいている「悪党」だと疑うべき場面なのかもしれない。けれど、不安を包み込んでくれるその彼の行動は、彼を疑う気持ち以上に信じたいという想いを再びアンヌに沸き上がらせた。


「…たす、けて。」


 ぽつりと零れた声は、少女の涙と共に零れ落ちた。グルートの手の温もりを感じながら、その手を思いっきり握り締める。

「わたしをここから出してっ!――グルートっ!」

 愚かで幼稚な答えだとはわかっていた。いかに自分か浅はかでシャルロワ家にとってよくない選択をしているのかということも。……しかし、心の内から響くこの叫びは、これ以上誤魔化すことが出来なかった。

「――待ってたぜ、その言葉。」

 グルートは、悪巧みをする子供のようにどこか嬉々とした様子で笑む。そして、そのままアンヌを抱き寄せた。
 追い詰められている危機的状況が変わったわけではない。だが不思議と彼の瞳に絶望と敗北の色はなかった。
 ――しっかり俺に掴まってろよ。耳元で囁かれた吐息交じりの声にアンヌは僅かに胸が高鳴るのを感じながら、彼の胸元で頷いた。
 群れを成す敵はもうすぐそこまで迫っている。右腕でアンヌを抱きしめながら、グルートは持てる力を左手に注いだ。ごおっと音を立てながら、火が点く。それは炎となり彼の左腕を軸にしながら天へと延びる。夜を煌々と照らす真っ赤な炎の柱。まずいと思った時にはもう遅く、挑発によって勢いづいた集団を止めることは誰にもできなかった。

「――煉獄ッ!」

 漆黒の夜が赤に染まり、咽返るような熱気が周囲に広がる。耳を劈く様なけたたましい音とともに爆風が巻き起こり、アンヌは吹き飛ばされまいと、グルートに必死にしがみついた。
 未だ粉塵が視界を塞いだまま、アンヌの身体は宙に浮き――、おぼろげな視界で見上げると薄っすらとグルートの顔が見えて。気の抜けたような顔をするアンヌを見、ニッと笑った彼はそのまま彼女を抱えながら、再び夜を走り出した。

 彼らの道を阻んでいたあの立派なコンクリートの壁は――グルートの放った渾身の一撃により、見事なまでに両断され、崩れ落ちていた。
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