shot.12 金の楔
グルートは走りながら、アンヌの身に危険が迫っていることをサイルーンに説明した。話を聞き、彼女の顔にも不安が滲む。
オフィスのように小部屋が並ぶ、バックステージの通路を駆け抜ける。演者だけでなく美術、照明など演劇関係の部屋も見られたが、妙なことに辺りには人気がなかった。
「変ね……いつも、舞台が終わった後はもっとにぎやかなのに。」
まるで集団で神隠しにあってしまったかのような、不気味な静けさに胸のざわつきが増す。
早く、早く、と気持ちばかりが先走る。全力で足を動かしているのに前に進んでいるような感覚がなかった。
サイルーンはある部屋の前で立ち止まった。“カレン様控室”の文字が、表札のようにドアの横に掲げられている。
ドアノブに手をかけた。ーーだが、ガチャガチャと音が鳴るばかりでノブは微動だにしない。どうやら内側から鍵が掛かっているようだ。
「聞こえる?アタシよ!アンヌちゃん、いるなら返事をして頂戴!」
ドアを叩きながら、サイルーンが呼びかけるが応答はない。
確かに中からアンヌの気配、彼女の匂いがする。ーーだが、それと同時に鼻につく香水と、それに紛れて錆びた鉄のような、血の臭いがした。
「……姐さん、どいてくれ。後で弁償すっからよ。」
グルートは手のひらに火をつける。彼の言動から何をしようとしているのかはおおよそ検討がついた。サイルーンは頷き、その場から後退して身を引いた。
灯火だったそれは火力を増し、火は二の腕辺りまで広がる。炎を纏い、燃える拳を彼はドアに向かって思いっきり叩きつけた。
◇◆◇◆◇
ドアは炎に包まれ、グルートの一撃によって焼け落ち、貫通した。吹き飛ばしたドアの残骸を踏みつけながら、彼は部屋の中へと足を踏み入れる。
「!っ、……アンヌ!」
そこにはグルートが探していた彼女と、見知らぬ金髪の男が立っていた。アンヌは力なく顔を伏せて、地面にへたり込み、そんな彼女を彼は冷たい目で見下している。
即座にグルートは男とアンヌの間に割って入り、彼女を守るように、背中に隠した。
「何とか間に合ったみてぇだな。……俺が来たからにはもう大丈夫だ。」
「……。」
「……アンヌ?」
彼女の無事を確認したグルートは安堵したがーー対して彼女は俯いたまま、一言も発しない。
……様子がおかしい。
彼女の様子に違和感を覚えたグルートは、男の動向を警戒しながら、屈んで彼女の表情を覗き込むように目線を合わせた。
「おい、アンーー、」
彼女の名前を呼びかけて、グルートは口を噤んだ。ぽつぽつと、点を作るように床が濡れていた。流れ落ちるそれは数を増して、やがて雨のように地面に打ちつける。
必死に声を殺して、激しい痛みを堪えるような顔でーー彼女はその美しいマリンブルーの瞳から大粒の雫を溢していた。
「どうした、何があった!?」
幾らグルートが聞いても、アンヌは答えなかった。視線も合わさず、震える唇を噛み、ひどく怯えている。
グルートはもどかしさから拳を作り、固く握る。彼女の痛みに寄り添うことができない歯痒さがグルートの胸を締め付けた。
その気持ちはサイルーンも同じで、彼女は男の前に立ち、彼を睨みつけた。
「……ギルバートさん。どういうつもり?」
「これはこれは、サイルーンさん。お久しぶりですね。お会いできて嬉しいですよ。」
「とぼけないで頂戴。買収の件は断ったはずよ。……一体、この子に何をしたの。」
ミュージカルホールの買収。それはアンヌが舞台に出演するきっかけになったことでもあった。話の流れから、ギルバートというこの男が、ミュージカルホールを買収しようとしている人物だということはグルートにも察しがついた。
当然、サイルーンは彼と面識があるようだったが、お世辞にも仲が良さそうには見えない。握手を求めるようにギルバートが差し出した手も、サイルーンは返さなかった。
好意を突き返され、敵意の眼差しを向けられてもギルバートは不気味なほどに、にこやかなままだ。すっと手を下げて、やれやれと肩を竦める。
「愛しの婚約者の晴れ舞台ですから、仕事のついでに少し、ご挨拶に伺わせて頂いたんです。……そうですよね、アンヌさん。」
ギルバートはアンヌに同意を求めるように語りかけ、彼女を見つめる。優しげな口調の中に、鋭利なナイフを突きつけているような有無を言わせぬ圧力が漂っていた。……アンヌは何も言えず、俯きながら涙を流しているばかりだった。
婚約者、というワードにグルートは俊敏に反応する。まるで私物のようにアンヌを扱う、ギルバートの態度が不快だった。
「お前が……アンヌの婚約者だってのか。」
「ええ。あなたにお会いするのは初めてですね。“誘拐犯”のグルートさん。」
ギルバートの言うことを鵜呑みにはできないが、調べればわかるような、明らかな嘘をつくメリットもないはずだ。グルートのことを誘拐犯呼ばわりしているのも、屋敷の関係者しか知り得ない、アンヌを連れ出した件を知っていることが伺える。……シャルロワ家の邸宅からアンヌがいなくなったことは、圧力がかかっているようで、マスメディアには一切報道されていなかったからだ。
ギルバートの出方を観察し、鼻をひくつかせると、……やはり先程感じた血の臭いの元は彼だった。
(この臭い…どこかで。)
シトラスの甘い香水に紛れた血の臭い。ーーと記憶を巡らせ、はっ、とする。
ヒウンシティでアンヌと逸れた時、彼女の体に付着していた香水と、血の臭い。妙に鼻につく悪臭で、グルートの嗅覚にも鮮明に残っていた。
あの時、確か彼女は“紳士的で優しい男性”に会ったと言っていた。
……成る程、確かに表面だけ見れば紳士にも見える。だが、アンヌの怯える姿を目の当たりにし、状況的にこの男が関与していることを鑑みると、とてもそうは見えない。漂う胡散臭さもさることながら、この男には裏がある様に思われてならなかった。
「ずっと俺らを見張ってたってわけか……。あの黒服の連中とゴルバットのおっさんもあんたの差し金か。」
「さて、何のことでしょう?」
「とぼけんな。……てめぇにアンヌは渡さねぇぞ。」
「ははっ、そんなに怖い顔をしていては、女性に嫌われてしまいますよ。」
グルートはギルバートを睨みつけながら、立ち上がる。誰もが震え上がってしまいそうな鋭いグルートの眼差しにも、彼は軽口を叩けるほどに余裕を見せて、まるで動じていなかった。
「姐さん、……アンヌを頼んだ。」
「……ええ、わかったわ。」
アンヌをサイルーンに託す。彼女はアンヌを庇うように抱きしめて、落ち着かせるようにその背中を優しく摩った。
彼女の身に何があったのかはわからない。……しかし、笑顔を失ったアンヌの様子から、彼女が傷つく様なことが起こったのは明らかだ。
にも関わらず、ギルバートは他人事のように微笑んでいる。その軽薄さにグルートは苛立ちながら勢いよく彼の胸ぐらを掴んだ。
ーー途端、細められていたギルバートの目が、すっと感情を失う。蔑むような冷たい眼差しでグルートを見下した。
「……しかし、話には聞いていましたがアンヌさんのお転婆には困ったものです。些か、あなたの悪影響を受けてしまったのでしょうか。」
「何……?」
「婚約者の熱い愛に対し、舌を噛んで拒むとは…お行儀がよくありませんね。」
「!」
ギルバートはグルートに見せびらかすように、舌を出す。淡い色の舌が赤く血で滲み、歯型のような傷跡が見えた。
その傷と放心状態の彼女を見れば、アンヌの身に何が起こったのかは、……グルートにも見当がついた。
身体中の血液が沸騰するような感覚で、猛烈な怒りが込み上げる。
グルートは衝動に身を任せて、彼に拳を振り下ろした。だが、その拳はいとも容易く片手で受け止められる。それでもグルートは震える拳を彼の手のひらに押しつけるのをやめなかった。
「誘拐犯に遊ばれているとばかり思っていましたが、あの動転ぶり。どうやらアンヌさんは初めてだったようですね。」
「……黙れ。」
「まさか怒っているんですか?……私が彼女の唇を奪ったことを。」
「黙れつってんだろ!」
尚も下衆に笑う、彼の口元。耳にしたくない、この男はそれをわかっていてわざと言葉を吐いている。挑発しているのだということは明らかだったが、グルートは彼女への非道を前にして、感情を抑えられるような男ではなかった。
アンヌの涙が脳裏に過る度、胸を抉る様な殺意が溢れる。
グルートの拳から火花が散り、攻撃を察知したギルバートは一歩後退する。彼の拳は炎を纏い、煌々と燃えていた。
オフィスのように小部屋が並ぶ、バックステージの通路を駆け抜ける。演者だけでなく美術、照明など演劇関係の部屋も見られたが、妙なことに辺りには人気がなかった。
「変ね……いつも、舞台が終わった後はもっとにぎやかなのに。」
まるで集団で神隠しにあってしまったかのような、不気味な静けさに胸のざわつきが増す。
早く、早く、と気持ちばかりが先走る。全力で足を動かしているのに前に進んでいるような感覚がなかった。
サイルーンはある部屋の前で立ち止まった。“カレン様控室”の文字が、表札のようにドアの横に掲げられている。
ドアノブに手をかけた。ーーだが、ガチャガチャと音が鳴るばかりでノブは微動だにしない。どうやら内側から鍵が掛かっているようだ。
「聞こえる?アタシよ!アンヌちゃん、いるなら返事をして頂戴!」
ドアを叩きながら、サイルーンが呼びかけるが応答はない。
確かに中からアンヌの気配、彼女の匂いがする。ーーだが、それと同時に鼻につく香水と、それに紛れて錆びた鉄のような、血の臭いがした。
「……姐さん、どいてくれ。後で弁償すっからよ。」
グルートは手のひらに火をつける。彼の言動から何をしようとしているのかはおおよそ検討がついた。サイルーンは頷き、その場から後退して身を引いた。
灯火だったそれは火力を増し、火は二の腕辺りまで広がる。炎を纏い、燃える拳を彼はドアに向かって思いっきり叩きつけた。
ドアは炎に包まれ、グルートの一撃によって焼け落ち、貫通した。吹き飛ばしたドアの残骸を踏みつけながら、彼は部屋の中へと足を踏み入れる。
「!っ、……アンヌ!」
そこにはグルートが探していた彼女と、見知らぬ金髪の男が立っていた。アンヌは力なく顔を伏せて、地面にへたり込み、そんな彼女を彼は冷たい目で見下している。
即座にグルートは男とアンヌの間に割って入り、彼女を守るように、背中に隠した。
「何とか間に合ったみてぇだな。……俺が来たからにはもう大丈夫だ。」
「……。」
「……アンヌ?」
彼女の無事を確認したグルートは安堵したがーー対して彼女は俯いたまま、一言も発しない。
……様子がおかしい。
彼女の様子に違和感を覚えたグルートは、男の動向を警戒しながら、屈んで彼女の表情を覗き込むように目線を合わせた。
「おい、アンーー、」
彼女の名前を呼びかけて、グルートは口を噤んだ。ぽつぽつと、点を作るように床が濡れていた。流れ落ちるそれは数を増して、やがて雨のように地面に打ちつける。
必死に声を殺して、激しい痛みを堪えるような顔でーー彼女はその美しいマリンブルーの瞳から大粒の雫を溢していた。
「どうした、何があった!?」
幾らグルートが聞いても、アンヌは答えなかった。視線も合わさず、震える唇を噛み、ひどく怯えている。
グルートはもどかしさから拳を作り、固く握る。彼女の痛みに寄り添うことができない歯痒さがグルートの胸を締め付けた。
その気持ちはサイルーンも同じで、彼女は男の前に立ち、彼を睨みつけた。
「……ギルバートさん。どういうつもり?」
「これはこれは、サイルーンさん。お久しぶりですね。お会いできて嬉しいですよ。」
「とぼけないで頂戴。買収の件は断ったはずよ。……一体、この子に何をしたの。」
ミュージカルホールの買収。それはアンヌが舞台に出演するきっかけになったことでもあった。話の流れから、ギルバートというこの男が、ミュージカルホールを買収しようとしている人物だということはグルートにも察しがついた。
当然、サイルーンは彼と面識があるようだったが、お世辞にも仲が良さそうには見えない。握手を求めるようにギルバートが差し出した手も、サイルーンは返さなかった。
好意を突き返され、敵意の眼差しを向けられてもギルバートは不気味なほどに、にこやかなままだ。すっと手を下げて、やれやれと肩を竦める。
「愛しの婚約者の晴れ舞台ですから、仕事のついでに少し、ご挨拶に伺わせて頂いたんです。……そうですよね、アンヌさん。」
ギルバートはアンヌに同意を求めるように語りかけ、彼女を見つめる。優しげな口調の中に、鋭利なナイフを突きつけているような有無を言わせぬ圧力が漂っていた。……アンヌは何も言えず、俯きながら涙を流しているばかりだった。
婚約者、というワードにグルートは俊敏に反応する。まるで私物のようにアンヌを扱う、ギルバートの態度が不快だった。
「お前が……アンヌの婚約者だってのか。」
「ええ。あなたにお会いするのは初めてですね。“誘拐犯”のグルートさん。」
ギルバートの言うことを鵜呑みにはできないが、調べればわかるような、明らかな嘘をつくメリットもないはずだ。グルートのことを誘拐犯呼ばわりしているのも、屋敷の関係者しか知り得ない、アンヌを連れ出した件を知っていることが伺える。……シャルロワ家の邸宅からアンヌがいなくなったことは、圧力がかかっているようで、マスメディアには一切報道されていなかったからだ。
ギルバートの出方を観察し、鼻をひくつかせると、……やはり先程感じた血の臭いの元は彼だった。
(この臭い…どこかで。)
シトラスの甘い香水に紛れた血の臭い。ーーと記憶を巡らせ、はっ、とする。
ヒウンシティでアンヌと逸れた時、彼女の体に付着していた香水と、血の臭い。妙に鼻につく悪臭で、グルートの嗅覚にも鮮明に残っていた。
あの時、確か彼女は“紳士的で優しい男性”に会ったと言っていた。
……成る程、確かに表面だけ見れば紳士にも見える。だが、アンヌの怯える姿を目の当たりにし、状況的にこの男が関与していることを鑑みると、とてもそうは見えない。漂う胡散臭さもさることながら、この男には裏がある様に思われてならなかった。
「ずっと俺らを見張ってたってわけか……。あの黒服の連中とゴルバットのおっさんもあんたの差し金か。」
「さて、何のことでしょう?」
「とぼけんな。……てめぇにアンヌは渡さねぇぞ。」
「ははっ、そんなに怖い顔をしていては、女性に嫌われてしまいますよ。」
グルートはギルバートを睨みつけながら、立ち上がる。誰もが震え上がってしまいそうな鋭いグルートの眼差しにも、彼は軽口を叩けるほどに余裕を見せて、まるで動じていなかった。
「姐さん、……アンヌを頼んだ。」
「……ええ、わかったわ。」
アンヌをサイルーンに託す。彼女はアンヌを庇うように抱きしめて、落ち着かせるようにその背中を優しく摩った。
彼女の身に何があったのかはわからない。……しかし、笑顔を失ったアンヌの様子から、彼女が傷つく様なことが起こったのは明らかだ。
にも関わらず、ギルバートは他人事のように微笑んでいる。その軽薄さにグルートは苛立ちながら勢いよく彼の胸ぐらを掴んだ。
ーー途端、細められていたギルバートの目が、すっと感情を失う。蔑むような冷たい眼差しでグルートを見下した。
「……しかし、話には聞いていましたがアンヌさんのお転婆には困ったものです。些か、あなたの悪影響を受けてしまったのでしょうか。」
「何……?」
「婚約者の熱い愛に対し、舌を噛んで拒むとは…お行儀がよくありませんね。」
「!」
ギルバートはグルートに見せびらかすように、舌を出す。淡い色の舌が赤く血で滲み、歯型のような傷跡が見えた。
その傷と放心状態の彼女を見れば、アンヌの身に何が起こったのかは、……グルートにも見当がついた。
身体中の血液が沸騰するような感覚で、猛烈な怒りが込み上げる。
グルートは衝動に身を任せて、彼に拳を振り下ろした。だが、その拳はいとも容易く片手で受け止められる。それでもグルートは震える拳を彼の手のひらに押しつけるのをやめなかった。
「誘拐犯に遊ばれているとばかり思っていましたが、あの動転ぶり。どうやらアンヌさんは初めてだったようですね。」
「……黙れ。」
「まさか怒っているんですか?……私が彼女の唇を奪ったことを。」
「黙れつってんだろ!」
尚も下衆に笑う、彼の口元。耳にしたくない、この男はそれをわかっていてわざと言葉を吐いている。挑発しているのだということは明らかだったが、グルートは彼女への非道を前にして、感情を抑えられるような男ではなかった。
アンヌの涙が脳裏に過る度、胸を抉る様な殺意が溢れる。
グルートの拳から火花が散り、攻撃を察知したギルバートは一歩後退する。彼の拳は炎を纏い、煌々と燃えていた。