shot.12 金の楔
「如何されましたか?顔色があまり良くありませんが。」
「い、いえ…。」
しかし取った距離は、一歩また一歩と、容易く詰め寄られる。ギルバートはこちらを心配してくれているだけ、なのにそれがいやに白々しく思え、アンヌには不気味に感じられた。
胸騒ぎがするーーと、彼を注視することに気を取られ過ぎたのか、彼女は手を滑らせて、贈られた薔薇の花束を床に落としてしまった。
「あっ…ごめんなさい!私…!」
アンヌは即座に謝り、花束を拾い上げようとはした。だが、その手をギルバートが掴む。黒の革手袋をした彼の指がぎりぎりと手首に食い込んだ。違和感を覚えたアンヌが逃げようとするも、肩を掴まれ、一瞬のうちにアンヌの背は壁にぴたりと押し付けられていた。
「まるで獣に喰われそうになっている子犬のようだな。ーーアンヌさん。」
「!」
アンヌは体が強張るのを感じた。じわりと背筋を這う汗が気持ちの悪さを増幅させる。
ーーどうして彼がその名を知っているのか。
周囲にもアンヌの名はカレンで通っていて、少なくとも一観客の彼が知る術はないはずだ。知っているのだとしたら、彼はわざわざアンヌの身の上を調べたということだ。…一体、何の為に。
それにこの体勢。離れる隙もなく、あっという間に体の自由を奪われてしまった。
逃げられない。と直感的に思った。じわりじわりと恐怖が心を蝕む。ギルバートの眼差しが、こちらの動きを監視するように冷たく光っている。
出来るだけ動揺する気持ちを悟られないよう、アンヌは咄嗟に笑顔を作った。
「…嫌ですわ、ギルバートさん。私の名前はカレンです。人違いをなさっているのではなくて?」
「ククッ、この状況でシラを切るつもりですか。…自分はあくまでもカレンという新人の女優であり、シャルロワ財閥の令嬢ではないと。」
「あなたが何を仰っているのか…わからないわ。」
「頑固なひとだ。…いいでしょう。ならば、話を変えてみましょうか。」
辛うじてにこやかな表情を保っていたギルバートがすっと無表情になり、蔑むような冷徹な眼差しでアンヌを見下す。そこに先ほどまでの優しい紳士の姿はなかった。
「シャルロワ財閥の邸宅に盗みに入った…確か、グルートという名のヘルガーでしたかね。…彼はもう既に、この世にはいないかもしれませんよ。」
「っ…!?」
「いや彼だけでなく、そのお仲間もどうなっていることやら…。」
「何ですって…!」
彼の言葉に、アンヌの作ったカレンの顔はいとも簡単に崩された。真偽はどうあれ、大切な仲間のことを引き合いに出されて演技を続けられるほど、彼女は冷静な人間ではなかった。
…案の定。ギルバートは求めていた反応が返ってきて、満足そうに薄ら笑んだ。物騒な言動とは不釣り合いなその表情が、アンヌの不安をより掻き立てた。
「私の仲間に…何をしたの!?みんなに酷いことをしたら、あなたを絶対に許さないわっ!」
「許さない、ですか。…しかしあなたに何が出来る?…脆く、何の力もない無力な人間だというのに。」
「…っ!」
彼は長い指をアンヌの顎に絡ませ、持ち上げる。ぐっと強い力で引き寄せられ、ふたりの顔が接近する。
「世間知らずのあなたにいいことを教えて差し上げましょう。脅しというのは、自分より弱い立場の相手にしか通用しないのですよ。…今のあなたのようにね。」
彼の吐息がかかるぐらいの距離で、それにアンヌはひどく寒気がした。離れたい一心で何度も抵抗するが、強い力に押さえ込まれて、やはり何もできなかった。…できることと言えば、絶対に服従する気はないという固い意志を持ち、ギルバートを睨み続けることだけ。
「離して…私は、みんなのところに行かなければいけないわ!」
「それは出来ない相談だ。幾ら可憐なお嬢さんの頼みでもね。」
「…っ…あなたは何が目的なの?…私を追っていた黒服の人たちも…あなたの仕業なの?」
自分を捕らえようとする相手にはアンヌも心当たりがあった。彼女は何度か、謎の黒服の集団に同じように身を追われていた。同じようにこちらに危害を加えようとしているこのギルバートという男も、彼らと何か関係があるのかもしれないと、アンヌは考えたのだ。尤も、問いかけたところではぐらかされてしまう可能性もあったが。
「ええ。その通り、彼らは私の部下です。」
だが、ギルバートは弁明すらせず、黒服の集団との関係をあっさりと認めた。虚を突かれた彼女は目を見張る。時にはこちらの仲間を傷つけてきたのにも関わらず、彼からは罪悪の念がまるで感じられなかった。むしろ自分の行いは正当であるというように堂々としている。
アンヌには理解できなかった。他者に危害を加えるためだけに自分の仲間を使い、平然としている彼の気持ちが。
「どうして、こんなことをするの…誰かを傷つけるような真似を…。私の命が目的なら、みんなを巻き込む必要はないはずよ!」
「…どうやら、あなたは勘違いをしているようだ。私はあなたの命を取ろうだなんてことは、少しも思っていませんよ。」
「ならどうして!」
「野良犬に誑かされたあなたを救いに来たのですよ。…あなたの婚約者として、ね。」
長い間、聞いていなかったその単語にアンヌは息を呑み、言葉を失った。
逃げ出した縁談ーーそれは父の顔に泥を塗ったも同然。縁談相手とのやりとり次第では破談になっていてもおかしくはない。…否、アンヌが心のどこかでそう望んでいただけなのかもしれない。
(婚約…者?)
父から簡単に縁談相手の身の上などの話は聞いたがーーあの時は突然のことでショックが強く、詳細な記憶が朧げだった。父が語気を強めて『お前にはもったいないぐらい大物な方』と力説していたことだけが印象に残っている。
思えばシャルロワの名に誇りを持ち、崇高な精神を持ったあの父が萎縮していたーー彼は財閥の当主である父さえも越える権力を持っているということなのだろうか。
「…嘘よ、あなたが私の婚約者だなんて…。」
その可能性を全く考えなかったわけではないが、目の前に現実として突きつけられると認めたくない思いが溢れ出す。シャルロワ家より大きな障壁を前にし、アンヌは震えた。
頭の片隅では早く仲間の無事を確認しにいかなければと思っているのだが、彼女はとうとう彼を睨み付けることすら恐ろしくなってしまった。…だが、逸らすことは許さないと彼の冷たい瞳が命じている。
「どうやら、あなたはまだ“俺”を疑っているらしい。…本当に“いけない子”だ。」
耳元でねっとりと囁く声に、アンヌは体が粟立ち、悪寒を感じた。逃げるという選択肢は既にギルバートの手で握り潰されている。かつての生活がフラッシュバックし、連れ戻されてしまう恐怖にアンヌは呑まれていた。
ーー彼は彼女が見せた、その隙を逃さなかった。
獲物を捕捉した獣の赤い目が光るのと同時に、アンヌの世界から一切の空気が消えた。喰らうように口を塞がれ、悲鳴をあげることすら叶わない。身体中の酸素を根こそぎ彼に吸い取られているようで、その息苦しさに彼女は喘いだ。
迫り上がる猛烈な不快感と嫌悪感。しかし彼はアンヌが逃げようとしても、ギルバートはどこまでも追いかけて、執拗に舌を絡めながら、攻め立ててくる。彼の思うがまま、苛烈に貪られ、このままでは意識まで奪われてしまいそうだった。
アンヌの体から力が抜けて、歪みが強くなる景色の中。愉快そうに嗤うギルバートの顔だけがはっきりと彼女の目に映った。
「い、いえ…。」
しかし取った距離は、一歩また一歩と、容易く詰め寄られる。ギルバートはこちらを心配してくれているだけ、なのにそれがいやに白々しく思え、アンヌには不気味に感じられた。
胸騒ぎがするーーと、彼を注視することに気を取られ過ぎたのか、彼女は手を滑らせて、贈られた薔薇の花束を床に落としてしまった。
「あっ…ごめんなさい!私…!」
アンヌは即座に謝り、花束を拾い上げようとはした。だが、その手をギルバートが掴む。黒の革手袋をした彼の指がぎりぎりと手首に食い込んだ。違和感を覚えたアンヌが逃げようとするも、肩を掴まれ、一瞬のうちにアンヌの背は壁にぴたりと押し付けられていた。
「まるで獣に喰われそうになっている子犬のようだな。ーーアンヌさん。」
「!」
アンヌは体が強張るのを感じた。じわりと背筋を這う汗が気持ちの悪さを増幅させる。
ーーどうして彼がその名を知っているのか。
周囲にもアンヌの名はカレンで通っていて、少なくとも一観客の彼が知る術はないはずだ。知っているのだとしたら、彼はわざわざアンヌの身の上を調べたということだ。…一体、何の為に。
それにこの体勢。離れる隙もなく、あっという間に体の自由を奪われてしまった。
逃げられない。と直感的に思った。じわりじわりと恐怖が心を蝕む。ギルバートの眼差しが、こちらの動きを監視するように冷たく光っている。
出来るだけ動揺する気持ちを悟られないよう、アンヌは咄嗟に笑顔を作った。
「…嫌ですわ、ギルバートさん。私の名前はカレンです。人違いをなさっているのではなくて?」
「ククッ、この状況でシラを切るつもりですか。…自分はあくまでもカレンという新人の女優であり、シャルロワ財閥の令嬢ではないと。」
「あなたが何を仰っているのか…わからないわ。」
「頑固なひとだ。…いいでしょう。ならば、話を変えてみましょうか。」
辛うじてにこやかな表情を保っていたギルバートがすっと無表情になり、蔑むような冷徹な眼差しでアンヌを見下す。そこに先ほどまでの優しい紳士の姿はなかった。
「シャルロワ財閥の邸宅に盗みに入った…確か、グルートという名のヘルガーでしたかね。…彼はもう既に、この世にはいないかもしれませんよ。」
「っ…!?」
「いや彼だけでなく、そのお仲間もどうなっていることやら…。」
「何ですって…!」
彼の言葉に、アンヌの作ったカレンの顔はいとも簡単に崩された。真偽はどうあれ、大切な仲間のことを引き合いに出されて演技を続けられるほど、彼女は冷静な人間ではなかった。
…案の定。ギルバートは求めていた反応が返ってきて、満足そうに薄ら笑んだ。物騒な言動とは不釣り合いなその表情が、アンヌの不安をより掻き立てた。
「私の仲間に…何をしたの!?みんなに酷いことをしたら、あなたを絶対に許さないわっ!」
「許さない、ですか。…しかしあなたに何が出来る?…脆く、何の力もない無力な人間だというのに。」
「…っ!」
彼は長い指をアンヌの顎に絡ませ、持ち上げる。ぐっと強い力で引き寄せられ、ふたりの顔が接近する。
「世間知らずのあなたにいいことを教えて差し上げましょう。脅しというのは、自分より弱い立場の相手にしか通用しないのですよ。…今のあなたのようにね。」
彼の吐息がかかるぐらいの距離で、それにアンヌはひどく寒気がした。離れたい一心で何度も抵抗するが、強い力に押さえ込まれて、やはり何もできなかった。…できることと言えば、絶対に服従する気はないという固い意志を持ち、ギルバートを睨み続けることだけ。
「離して…私は、みんなのところに行かなければいけないわ!」
「それは出来ない相談だ。幾ら可憐なお嬢さんの頼みでもね。」
「…っ…あなたは何が目的なの?…私を追っていた黒服の人たちも…あなたの仕業なの?」
自分を捕らえようとする相手にはアンヌも心当たりがあった。彼女は何度か、謎の黒服の集団に同じように身を追われていた。同じようにこちらに危害を加えようとしているこのギルバートという男も、彼らと何か関係があるのかもしれないと、アンヌは考えたのだ。尤も、問いかけたところではぐらかされてしまう可能性もあったが。
「ええ。その通り、彼らは私の部下です。」
だが、ギルバートは弁明すらせず、黒服の集団との関係をあっさりと認めた。虚を突かれた彼女は目を見張る。時にはこちらの仲間を傷つけてきたのにも関わらず、彼からは罪悪の念がまるで感じられなかった。むしろ自分の行いは正当であるというように堂々としている。
アンヌには理解できなかった。他者に危害を加えるためだけに自分の仲間を使い、平然としている彼の気持ちが。
「どうして、こんなことをするの…誰かを傷つけるような真似を…。私の命が目的なら、みんなを巻き込む必要はないはずよ!」
「…どうやら、あなたは勘違いをしているようだ。私はあなたの命を取ろうだなんてことは、少しも思っていませんよ。」
「ならどうして!」
「野良犬に誑かされたあなたを救いに来たのですよ。…あなたの婚約者として、ね。」
長い間、聞いていなかったその単語にアンヌは息を呑み、言葉を失った。
逃げ出した縁談ーーそれは父の顔に泥を塗ったも同然。縁談相手とのやりとり次第では破談になっていてもおかしくはない。…否、アンヌが心のどこかでそう望んでいただけなのかもしれない。
(婚約…者?)
父から簡単に縁談相手の身の上などの話は聞いたがーーあの時は突然のことでショックが強く、詳細な記憶が朧げだった。父が語気を強めて『お前にはもったいないぐらい大物な方』と力説していたことだけが印象に残っている。
思えばシャルロワの名に誇りを持ち、崇高な精神を持ったあの父が萎縮していたーー彼は財閥の当主である父さえも越える権力を持っているということなのだろうか。
「…嘘よ、あなたが私の婚約者だなんて…。」
その可能性を全く考えなかったわけではないが、目の前に現実として突きつけられると認めたくない思いが溢れ出す。シャルロワ家より大きな障壁を前にし、アンヌは震えた。
頭の片隅では早く仲間の無事を確認しにいかなければと思っているのだが、彼女はとうとう彼を睨み付けることすら恐ろしくなってしまった。…だが、逸らすことは許さないと彼の冷たい瞳が命じている。
「どうやら、あなたはまだ“俺”を疑っているらしい。…本当に“いけない子”だ。」
耳元でねっとりと囁く声に、アンヌは体が粟立ち、悪寒を感じた。逃げるという選択肢は既にギルバートの手で握り潰されている。かつての生活がフラッシュバックし、連れ戻されてしまう恐怖にアンヌは呑まれていた。
ーー彼は彼女が見せた、その隙を逃さなかった。
獲物を捕捉した獣の赤い目が光るのと同時に、アンヌの世界から一切の空気が消えた。喰らうように口を塞がれ、悲鳴をあげることすら叶わない。身体中の酸素を根こそぎ彼に吸い取られているようで、その息苦しさに彼女は喘いだ。
迫り上がる猛烈な不快感と嫌悪感。しかし彼はアンヌが逃げようとしても、ギルバートはどこまでも追いかけて、執拗に舌を絡めながら、攻め立ててくる。彼の思うがまま、苛烈に貪られ、このままでは意識まで奪われてしまいそうだった。
アンヌの体から力が抜けて、歪みが強くなる景色の中。愉快そうに嗤うギルバートの顔だけがはっきりと彼女の目に映った。