shot.1 令嬢誘拐
「――お嬢様!ご無事ですかっ!」
アンヌの耳には随分と聞き慣れたリヒトの声が、扉の向こうから聞こえた。けれどそれは普段の落ち着いた彼の雰囲気からは想像ができないような、切羽詰まったものだった。
――その声に続くようにしてドッ、ドッ、ドッと振動しながら響いたのは1、2人ではない、数十人の足音。恐らく、リヒトが率いる、ラインハルトの隊員達だろう。何故、ラインハルトが血相を変え、この部屋に来るのか。幾ら鈍感なアンヌでも察しはついた。
アンヌはグルートから静かに身を離し、一歩、退いた。じっと彼を見つめて一番目につくのは、その鋭い目つき。アンヌの蒼い瞳とは対照的な、赤い瞳。それだけの違いなのに、自分とは全く違う世界で生きているひとのような感じがした。
……外の世界には他者を平気で傷つけ、騙し、奪う「悪」がいるという話をアンヌは思い出す。「だからお前は外に出てはいけないんだ。」と父が言っていた。ラインハルトはそういう「悪」からシャルロワ家を守る為に存在しているのだとも。ならば、そのラインハルトが追ってきているということはやはり彼は……。
「…ごめんなさい。」
「……あ?」
「その、引き留めてしまって。」
けれど、アンヌにはどうしても目の前にいるグルートが父やラインハルトのいう「悪」だとは思えなかった。…否、初めて「アンヌ」と呼んで、親しく接してくれた彼が悪者だとは思いたくなかったのだ。
「短い間だったけれど、あなたとお話しできて楽しかったわ。……さあ、ラインハルトの皆が来てしまうから。行って。」
アンヌは目元を拭い、急かすようにやや強い語気でグルートに言った。……しかし、グルートは去るどころか、一歩、アンヌの方へと歩み寄ってくる。その行動の意図がわからず、反射的にアンヌはまた一歩後ろへ退く。けれどグルートはまた一歩アンヌに近づく。その問答が暫く続き、テラスから部屋の中ほどまで来た時、そのペースを破って、グルートの力強い手がアンヌの腕を捕えた。
「は、離してください!」
「言ったよな、お前。俺について行きたいってよ。」
「……え?」
それはただの願望にしか過ぎない言葉だった。その言葉がグルートの口から出てくるとは思っていなかったので、身構えていたアンヌの口からは拍子抜けするような声が零れる。何故、今そんなことを言うのだろうか――という疑問に浸る間もなく、アンヌの身体は宙に浮いていた。逞しいグルートの両腕に抱き上げられていたのだ。
「なら、連れていってやるよ。」
そして二言目にはもっと信じられない言葉を発した。なのに、グルートはまたもや間髪を入れず、走り出す。勢いよく踏み込み、テラスの柵を今まさに飛び越えようというところで、アンヌの部屋にラインハルトが突入した。
「――待てっ!侵入者!!!」
(リヒト…!?)
去り際にアンヌが一瞬見たリヒトの表情は怒りで満ち溢れており、アンヌすら声をかけることが憚られるような雰囲気だった。対照的にリヒトの怒りの元凶であるグルートはその中でも余裕を崩さず、月光の下、勝ち誇ったように笑う。
「記念にこいつは頂いてくぜ、あばよ。」
ラインハルトの怒号や罵声が響く中、耳元で――しっかり捕まっとけよ、という囁きが聞こえて。体全体が一気に急降下した。反射的にだが、グルートの言うとおり彼の首周りに抱き着き、ぎゅっと目を瞑る。そのときに触れた彼の熱と煙草の匂いにアンヌは胸が締め付けられるような、それでいて、安堵するような不思議な感覚を覚えた。
◇◆◇◆◇
グルートは出口を目指し、走っていた。ここに来た時はひとりだったはずなのに、今はアンヌを抱えながらふたりで走っている。お陰でひとりの時よりスピードは落ちるし、厄介な連中に追われる羽目になった。……全くどうして自分はいつもこうなのだろうかとグルートは思う。面倒なことになるとわかっていても首を突っ込んでしまう。見知った影がちらつき余計に自分が、ろくでもない男だと思った。
振り落とされまいと、自分の首元に必死にしがみつく、三つ編みの少女。目尻を下げ、不安そうな顔をしている。やはり怖いのだろうか。強引過ぎたか。――などというくだらない思案を巡らせかけていることに気がつく。そしてすぐに、あれこれ考えるのは面倒臭いと無理矢理、思考を絶った。
「あの、」
「……なんだよ。」
「本当に、お外に連れて行ってくれるの。…私を。」
「お前が連れて行けって言ったんだろ。」
「……。」
しかし、アンヌは益々不安げな顔をする。純真な蒼い瞳が何か言いたげに真っ直ぐ、見つめてくるものだから、グルートはやや居心地が悪く、意識して視界に入れないようにした。
「俺はてめぇのしたいようにしてるだけだ。お前には手当てしてもらった借りがあるしな。」
「それは、放っておけなかっただけだから。」
「じゃあ、俺も同じだ。」
「……それ、なんだかずるいわ。」
「へっ、大人ってのはそういうもんなんだよ。」
少しだけアンヌの表情が柔らかくなる。そんな些細なことでグルートは何故だか、ほっと胸が穏やかになった。
「……でも、本当に無理をしないでね。私、決まりを破って、悪いことをあなたに頼んでいるんだもの。」
「決まり?なんだよそれ――」
妙に翳りのある、アンヌの声色にグルートは違和感を覚えて、口を開きかけたのだが、不意に足元に鋭い痛みを感じて、発しようとしていた言葉は寸前で途切れてしまった。
「……っち!」
「どうしたのっ!?」
右足のふくらはぎ辺りを抉るような傷跡。この感覚と傷跡にはグルートも覚えがあった。――ルカリオの波動弾によるものだ。
「……しつこい奴らだな。」
後から青い制服の集団がぞろぞろと現れ、一定の間隔で波動弾を繰り返す。多くは軌道が逸れてこちらまで届いていなかったのだが、グルートの足を貫いたのは、どうやら他の者とは格が違う、ラインハルトの先陣を切って二人を追いかけている隊長・リヒトの放ったもののようだった。
「怪我を……!」
「たいしたことねーよ…こんな怪我、唾つけときゃ治る。」
勝気な言動とは裏腹に、怪我を負ったグルートの足並みは徐々に乱れ始め、スピードも落ちる。その間にもラインハルトは攻撃の手を緩めず、むしろ好機とばかりにその勢いを増していく。
「侵入者を捕えろ!絶対に逃がすな!」
「シャルロワ家に仇なす悪は許さん!」
「お嬢様を取り返せなければ、ラインハルトの沽券にかかわるぞ!」
たったふたりのために、何かに憑りつかれたように迫りくる彼らの姿が、話に聞く「悪」のように見えてアンヌは底知れぬ恐怖に襲われた。あれは正義を掲げていたラインハルトではない。血眼で荒れ狂う様は、さしずめ暴徒のようだった。
「……っ!」
そして更に追い打ちをかけるようにして二人の目の前に現れた大きな壁。アンヌが決して乗り越えることが出来なかった、屋敷全体を覆う塀の一部分。それはまたもや障壁となり立ちはだかる。
……行き止まり。
――ふたりに残された道はもう、どこにもなかった。
アンヌの耳には随分と聞き慣れたリヒトの声が、扉の向こうから聞こえた。けれどそれは普段の落ち着いた彼の雰囲気からは想像ができないような、切羽詰まったものだった。
――その声に続くようにしてドッ、ドッ、ドッと振動しながら響いたのは1、2人ではない、数十人の足音。恐らく、リヒトが率いる、ラインハルトの隊員達だろう。何故、ラインハルトが血相を変え、この部屋に来るのか。幾ら鈍感なアンヌでも察しはついた。
アンヌはグルートから静かに身を離し、一歩、退いた。じっと彼を見つめて一番目につくのは、その鋭い目つき。アンヌの蒼い瞳とは対照的な、赤い瞳。それだけの違いなのに、自分とは全く違う世界で生きているひとのような感じがした。
……外の世界には他者を平気で傷つけ、騙し、奪う「悪」がいるという話をアンヌは思い出す。「だからお前は外に出てはいけないんだ。」と父が言っていた。ラインハルトはそういう「悪」からシャルロワ家を守る為に存在しているのだとも。ならば、そのラインハルトが追ってきているということはやはり彼は……。
「…ごめんなさい。」
「……あ?」
「その、引き留めてしまって。」
けれど、アンヌにはどうしても目の前にいるグルートが父やラインハルトのいう「悪」だとは思えなかった。…否、初めて「アンヌ」と呼んで、親しく接してくれた彼が悪者だとは思いたくなかったのだ。
「短い間だったけれど、あなたとお話しできて楽しかったわ。……さあ、ラインハルトの皆が来てしまうから。行って。」
アンヌは目元を拭い、急かすようにやや強い語気でグルートに言った。……しかし、グルートは去るどころか、一歩、アンヌの方へと歩み寄ってくる。その行動の意図がわからず、反射的にアンヌはまた一歩後ろへ退く。けれどグルートはまた一歩アンヌに近づく。その問答が暫く続き、テラスから部屋の中ほどまで来た時、そのペースを破って、グルートの力強い手がアンヌの腕を捕えた。
「は、離してください!」
「言ったよな、お前。俺について行きたいってよ。」
「……え?」
それはただの願望にしか過ぎない言葉だった。その言葉がグルートの口から出てくるとは思っていなかったので、身構えていたアンヌの口からは拍子抜けするような声が零れる。何故、今そんなことを言うのだろうか――という疑問に浸る間もなく、アンヌの身体は宙に浮いていた。逞しいグルートの両腕に抱き上げられていたのだ。
「なら、連れていってやるよ。」
そして二言目にはもっと信じられない言葉を発した。なのに、グルートはまたもや間髪を入れず、走り出す。勢いよく踏み込み、テラスの柵を今まさに飛び越えようというところで、アンヌの部屋にラインハルトが突入した。
「――待てっ!侵入者!!!」
(リヒト…!?)
去り際にアンヌが一瞬見たリヒトの表情は怒りで満ち溢れており、アンヌすら声をかけることが憚られるような雰囲気だった。対照的にリヒトの怒りの元凶であるグルートはその中でも余裕を崩さず、月光の下、勝ち誇ったように笑う。
「記念にこいつは頂いてくぜ、あばよ。」
ラインハルトの怒号や罵声が響く中、耳元で――しっかり捕まっとけよ、という囁きが聞こえて。体全体が一気に急降下した。反射的にだが、グルートの言うとおり彼の首周りに抱き着き、ぎゅっと目を瞑る。そのときに触れた彼の熱と煙草の匂いにアンヌは胸が締め付けられるような、それでいて、安堵するような不思議な感覚を覚えた。
グルートは出口を目指し、走っていた。ここに来た時はひとりだったはずなのに、今はアンヌを抱えながらふたりで走っている。お陰でひとりの時よりスピードは落ちるし、厄介な連中に追われる羽目になった。……全くどうして自分はいつもこうなのだろうかとグルートは思う。面倒なことになるとわかっていても首を突っ込んでしまう。見知った影がちらつき余計に自分が、ろくでもない男だと思った。
振り落とされまいと、自分の首元に必死にしがみつく、三つ編みの少女。目尻を下げ、不安そうな顔をしている。やはり怖いのだろうか。強引過ぎたか。――などというくだらない思案を巡らせかけていることに気がつく。そしてすぐに、あれこれ考えるのは面倒臭いと無理矢理、思考を絶った。
「あの、」
「……なんだよ。」
「本当に、お外に連れて行ってくれるの。…私を。」
「お前が連れて行けって言ったんだろ。」
「……。」
しかし、アンヌは益々不安げな顔をする。純真な蒼い瞳が何か言いたげに真っ直ぐ、見つめてくるものだから、グルートはやや居心地が悪く、意識して視界に入れないようにした。
「俺はてめぇのしたいようにしてるだけだ。お前には手当てしてもらった借りがあるしな。」
「それは、放っておけなかっただけだから。」
「じゃあ、俺も同じだ。」
「……それ、なんだかずるいわ。」
「へっ、大人ってのはそういうもんなんだよ。」
少しだけアンヌの表情が柔らかくなる。そんな些細なことでグルートは何故だか、ほっと胸が穏やかになった。
「……でも、本当に無理をしないでね。私、決まりを破って、悪いことをあなたに頼んでいるんだもの。」
「決まり?なんだよそれ――」
妙に翳りのある、アンヌの声色にグルートは違和感を覚えて、口を開きかけたのだが、不意に足元に鋭い痛みを感じて、発しようとしていた言葉は寸前で途切れてしまった。
「……っち!」
「どうしたのっ!?」
右足のふくらはぎ辺りを抉るような傷跡。この感覚と傷跡にはグルートも覚えがあった。――ルカリオの波動弾によるものだ。
「……しつこい奴らだな。」
後から青い制服の集団がぞろぞろと現れ、一定の間隔で波動弾を繰り返す。多くは軌道が逸れてこちらまで届いていなかったのだが、グルートの足を貫いたのは、どうやら他の者とは格が違う、ラインハルトの先陣を切って二人を追いかけている隊長・リヒトの放ったもののようだった。
「怪我を……!」
「たいしたことねーよ…こんな怪我、唾つけときゃ治る。」
勝気な言動とは裏腹に、怪我を負ったグルートの足並みは徐々に乱れ始め、スピードも落ちる。その間にもラインハルトは攻撃の手を緩めず、むしろ好機とばかりにその勢いを増していく。
「侵入者を捕えろ!絶対に逃がすな!」
「シャルロワ家に仇なす悪は許さん!」
「お嬢様を取り返せなければ、ラインハルトの沽券にかかわるぞ!」
たったふたりのために、何かに憑りつかれたように迫りくる彼らの姿が、話に聞く「悪」のように見えてアンヌは底知れぬ恐怖に襲われた。あれは正義を掲げていたラインハルトではない。血眼で荒れ狂う様は、さしずめ暴徒のようだった。
「……っ!」
そして更に追い打ちをかけるようにして二人の目の前に現れた大きな壁。アンヌが決して乗り越えることが出来なかった、屋敷全体を覆う塀の一部分。それはまたもや障壁となり立ちはだかる。
……行き止まり。
――ふたりに残された道はもう、どこにもなかった。