【第一集】異世界クッキング、始めました。
「イグニス、リンゴ持ってきたよ」
「―――ん、…」
不意に名前を呼ばれて、反射的に顔を上げた。
体とは裏腹に意識の戻りはゆっくりで、目も中々開かなかった。
「ふふっ、眠いの?」
「…いや…」
優しい声がする。若い女性の声だ。
「まだ寝ててもいいよ」
…はて、この声は誰の声だったろうか。急速に意識がはっきりとしてくる。
――この声を、俺は知らない。
パチリと目を開くと、白くて細い手が自分の顔のすぐ近くに見えた。
イグニスは驚いて跳ね上がる。
「っ、…!?」
「わっ」
ガタン、と陶器の倒れる音がした。
体が跳ねた衝動でテーブルが揺れ、手元にあったカップを倒したようだった。
カップの中の液体はテーブルの上へと零れ落ち、開いていた本をみるみるうちに茶色へと染め上げていく。
しまった、と思った。いや、それよりも――
困ったように少しだけ首を傾げている少女と目が合った。薄紫色の、綺麗な瞳だった。
「ごめんなさい…、大丈夫?」
「え、あっ…その、…」
寝起きの頭にはまだ何が起きてるのか良く分からない。
…分からないけど、分からないなりに分かることがある。
先程視界に入ってきた白い手は、どうやら彼女のものらしいこと。そして今も尚、その手は何故か自分に向けて伸ばされているということだ。
「…眼鏡、寝るのに邪魔かなって思ったんだけど…。起こしちゃったみたいだね」
そう言って申し訳なさそうに少女はその手を引っ込める。どうやら眼鏡を取ろうとしていたようだった。
「…いや…、…こんなところで寝てる俺の方が悪いな…、すまない…」
そう言ってイグニスは眼鏡を外すと、目頭を軽く押さえてから再びかけ直す。
知らない声ではあったが少女の姿には見覚えがあった。直接的な接点はなくとも食堂を利用していれば顔だけは分かる。
(確か、エドガーやロック達と良く一緒にいる…)
服装を見る限り、恐らく同じ世界の仲間だろう。
食堂を利用する人間には様々なタイプがいる。
毎日違う相手と食事をする者。
同じ相手とばかり食事をする者。
同性同士で食事をする者。
一人で食事をする者。
同じ世界の仲間とだけ食事をする者もいる。自分が知る限り、彼女はそういう者の一人だった。
他の世界の仲間達と一緒にいるところを見たことがなかったので、極度の人見知りかと思っていたが――今の状況を見る限り、どうやらそうでもないらしい。
知らない男に近付いて、あろうことか触ろうとするなんてむしろ警戒心がなさすぎやしないだろうか。
未だに困惑しているイグニスのことなどお構いなしに、少女は何かを思い出したように小さく声を上げた。
「そうだ。リンゴを持ってきたのよ」
「リンゴ?」
彼女の足元を見ると籠には真っ赤なリンゴがたくさん入っていて、今にも零れ落ちそうだった。
「…これ全部、一人で持ってきたのか?」
「ううん、シャドウが手伝ってくれたわ。ここに置いたらすぐに行ってしまったけど」
少女の口から中々物騒な男の名前が出てきてイグニスは一瞬たじろいだ。
だがその口振りから察するに、どうやら彼も彼女と同じ世界の仲間らしい。
「…そういえば子ども達は?」
「パロムとオニオンナイトが、どっちがリンゴを多く取れるかの競争を始めてしまって…。ポロムとエーコに頼まれて私だけ先にリンゴを届けにきたの」
何となく二人の争う光景が頭に浮かんだ。これではきっと、まだ暫く帰ってはこられまい。
何故オニオンナイトがその場に居るのかが少し気になったが、彼もまだ子どもといえば子どもだ。一緒に遊ぶこともあるのだろう。
幸いなことにアップルパイを作るだけの量のリンゴはこの籠にあるだけでも十分そうだった。
「仕方ないな。もう先に作ってしまおうか…」
時間的にもそろそろ作り始めた方が良さそうだとイグニスは判断する。
このままだと夕食の支度に支障が出てしまうからそれだけは避けたかった。
「ねぇ、作るとこ見ててもいいかな?」
「別に構わないが――」
そこまで言ってハッとする。そういえば今、カウンターの上は倒れたカップと零れた珈琲と濡れた本の所為で大変なことになっている。
慌ててイグニスが動こうとするのを制して、ニッコリと少女は笑った。
「大丈夫だよ、ここは私が片付けておくから。それよりも早くお菓子を作ってあげないと」
みんな楽しみにしてるよ、と言われてリンゴをポン、と一つ渡される。
「…そうだな、すまない。片付けは君に頼んでもいいだろうか」
歯切れの悪い言葉に気分を害することもなく、少女はすぐに頷いた。
何故かいつものように上手く立ち回ることが出来ない自分自身に、イグニスは少々もどかしさを感じていた。