【プロローグ】異世界への来訪者。

 何年も閉ざされていた視界に、突如として光が差す。


(ああ――眩しいな)


 目が痛くなる程の空間の明るさに慣れてくると、光を遮っていた手をゆっくりと下ろして男は視線をぐるりと巡らせた。

(…世界というものはこんなにも明るいものだったのか)

 久し振りに自分の目で見る世界はしかしながら自分の良く知る世界とは違う、実に奇妙な場所だった。
 何処までも広がる青い空間。地に足が着いている感覚はあるがその空間には始まりも終わりもなく、部屋と呼ぶにはあまりにも広い。
 だがこれを世界と呼ぶにはかなりの殺風景だ。自分以外、何もないし誰も居ない。

「―…本当にその姿で良いのですか?」

 突然背後から聞こえてきた女性の声に男はハッとして振り返る。
 機械仕掛けの時計のような様相に蜂蜜と蜜柑を混ぜたような不思議なグラデーションの髪を持った美しいその女性は、自らのことを神と語った。

 ――その名は、マーテリア。

 安息の大地と呼ばれるこの異世界を創りし二柱の神のうちの一柱である。

「ああ。構わない」

 そう言って男は神へと巡らせていた視線を自分自身の体へと引き戻した。
 懐かしい警護隊の戦闘服。見覚えのある自身の手。その両手の感覚を確かめるように何度もギュッと閉じたりパッと開いたりしてみる。
 腕力は元々の体よりもやや劣ってはいるものの若いが故に動作の反応速度は中々悪くない。これならかつて自分が得意としていた軽い身のこなしの戦い方も充分に出来るだろう。
 我が王から借りた武器召喚の力も問題なく使えそうだった。

「分かりました。――軍師イグニス・スキエンティアよ。どうか貴方の知恵と機転を我が戦士達にお貸し下さい。今、この安息の大地は未曾有の危機に瀕しています。このまま放っておけば異世界はおろかいずれは貴方の世界にまで歪みの害が及ぶ事でしょう。…貴方の世界だけではありません。この異世界に通ずる全ての世界が消滅してしまう可能性だってあり得ます」

 憂いに満ちた女神の目は徐々に下へと伏せられていく。

「話の概要は大体分かった。出来る限り善処はしよう。…が、過度の期待はこの身に余る。程々にしてくれ」

 軍師と呼ばれた男――イグニスは片手で軽く眼鏡を直すと切れ長の目を更にスッと細めてその真意を見定めるべく鋭い視線をマーテリアへと向けた。

「…異世界ここには既にアイツらがいるんだったな?」
「ええ。彼らもまた貴方と同じ"十年前"の姿です。…残念ながら彼らの大切な記憶は"輝き"となってこの異世界中に散らばってしまいましたが…」

 後悔を滲ませたような神の声が何もない空間に静かに木霊する。

「本来であればもう少し憤るところだが、やってしまった事を今更嘆いていても仕方がない。それについては出来る限りこちらで何とかしよう。…早速で悪いが俺をノクト達の所へ連れていってくれ。至急幾つか確認したいことがある」
「分かりました」

 マーテリアが携えていた杖を高々と頭上へ掲げると、突如として空間には渦のような淀みのようなものが発生して、あっという間に人一人が通り抜けられるぐらいの大きさにまでなった。

「この"次元の歪み"を通っていけば彼らの近くにまでは行けましょう。…申し訳ありませんが私にはモグほどの探索能力がないので今はそれぐらいの事しか…」
「構わない。そこから先は自分の足で探そう」

 イグニスは躊躇うことなく次元の歪みへと足を踏み入れていく。


「…軍師よ。どうかこの世界のことをよろしくお願いします」


 歪みが閉じる直前にそのような弱々しい声が聞こえてきたのでイグニスは思わず後ろを振り返った。
 自分に対して深々と頭を下げている力無き神の姿を見て一瞬困惑したが、すぐに向こう側の歪みが閉ざされて見えなくなる。

(…何故、俺にそこまでする?)

 神の言葉の真意は今一掴めないが歪みの中で立ち止まっている訳にもいかず、イグニスは歩を前へと進めていく。
 まずは自分の主君でもある大切な仲間達のことを探さなければ。異世界のことはその後でゆっくり考えればいい。
 自分にとっての"一番"は何か。最善とは何か。それは何処に居たって何処に行ったって変わらない。

(自分の全ては王の為に)

 男は一人、王へと通ずる道を歩く。

 
――やがてその道が緩やかに分かれていく事を、男はまだ知らなかった。
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