金木犀の記憶

 その金木犀は昔から駐車場の片隅にあって周囲を眺めている。
 ほぼ東西に広がるゲート式の平面駐車場、その東南の端で。
 ここに植えられたのははるか昔。自分がもうそろそろ大木と言われるような高さであり樹齢であることを金木犀は知っている。
 屋根のない駐車場は年間を通してさんさんと日差しがそそぐ。夏の焼けつくようなそれはどちらかと言えば日陰を好む自分には少々つらい。今年は特に夏が長かったため大分葉焼けしてしまった。それでもやっと陽のやわらいだこの季節。爽やかな晴天の続くこの季節、今年も金木犀は多くの花を咲かせた。
 葉腋に集まって咲くオレンジ色の小花。自分のこの花は季節の風物詩だ。普段見向きもしない人々が花の盛りだけは自分に目を向ける。通りすがりに、もしくは近づいてきて。ある者は平静な顔で、またある者はうっとりと。素直に感嘆の声を上げて駆け寄ってくる子供もいる。表情や態度の違いはあれどみな一様に自分の花の甘い香りを愛でていくのだ。
 人々はこの金木犀の香りに、花に足を止めて見入る。この季節ばかりは見られることに金木犀は慣れている。けれど今日は違った。

 金木犀はまじまじと眺めた。

 ある珍しいものを。



 駐車場の東隣は広大な競技場だ。金木犀がここにやってきた頃からこのスタジアムではアメリカンフットボール──アメフトの試合が定期的に行われている。金木犀は駐車場を行き来する人々の会話からそれを学んだ。観たことはないしこの先観ることもできないが、聴くことはできる。フィールドから伝わるアナウンス、そして客たちのものだろう歓声。この競技は特に秋から冬がシーズンのようだ。他の季節に比べて多くの客がスタジアムを訪れる。
 今日も試合があるのだな。
 そう思いながら金木犀はいつものように眺めていた。
 多くの自家用車、チーム関係なのだろうトラック。そしてそこから降り立つ人々を。
 老若男女、さまざまな人間が目の前を通り過ぎていく。若い男女。中年男性。親子連れ。賑やかな若者のグループ。何台もの車。
 目の前に一台の自家用車がやってきた。色はありふれたシルバーグレー、大型のセダンだ。するすると金木犀の近くへ。こちらへ頭を向けて停まった。運転席のドアが開く。

 ──…………

 何気なく視線を向けた。本当に何気なく。だが次の瞬間には金木犀は目を瞠るような思いになった。よっこいしょ、という声とともに運転席からはみ出るように出てきたのは。

「やあ、いい天気でよかった!」

 そんな明るい声を続けて上げながら大男が姿を現したのだ。

 ここはアメフトフィールドの近く。おそらくは選手なのだろう体の大きな男、体格の良い男というのを金木犀は何人も見てきた。だがこれは今までに見たどの男より大きい。縦にも、横にも。これでは運転席いっぱいだったのではないだろうか。しかも、大きいというか──まんまるだ。丸い顔。愛嬌のある目もと口もと。ちょんと先の立った頭、まんまるな体。文字通りのまんまるな巨漢だ。大男にありがちなこわもてという風情では全くない。むしろ逆だ。歳は──推定しづらいが30前後だろうか、いい大人であるだろうにどこか愛らしい。
 もしかしたら競技経験者なのかもしれない。親しみやすい顔の下、グレーのトレーナーを着た巨体は決してたるんではいないようだ。強靭な筋力やパワー、そういうものを秘めている様子が感じられる。
 金木犀の見つめる前で、巨漢は運転席から車の後部を覗き込んだ。
「いまおろしてあげるからね、弥生」
 金木犀は思わず興味を引かれる。多分この巨漢は自分の子供に話しかけたのだろう。どんな子だろう。
 その時、助手席のドアが開いた。
 ちかりとまたたくもの。

 ──……?

 ふとそちらを見て金木犀の目はまたも釘付けになった。

 金髪。
 陽にまたたいたのは金髪頭。
 派手な金髪の男が姿を現した。

 大いに戸惑う。そんな自分を金木犀は意識した。見たこともない巨漢、それに続いて現れたこの金髪頭もひと目でこれはと思うほど個性的、印象的だったからだ。
 前髪以外はツンツンと逆立てた金色の髪。尖った耳にはリング形のピアスが二つ嵌め込まれている。
 顔を窺うと切長の瞳。いかにも抜け目なさそうな。細い鼻梁、引き締まった頬。唇は薄いが何だか横に長い。分厚くはないがずいぶん大きな口だ。
 細身で長身の体を覆うのは黒ずくめの服装だ。黒のVネックのTシャツに黒のスリムなパンツ。この男には似合っているのかもしれないがどこか禍々しく見える。
 そんなことを金木犀が考えていると、金髪頭の唇がカッと横に割れた。割れたような気がした。その口から出たのは。

「ケケケ、天気には恵まれたな」

 なんて変わった男だろうと金木犀は思った。容姿も非常に──というかとてつもなく──特徴的だし、ケケケという笑い方に至ってはどんな人間からも聞いたことがない。威嚇的な外見といい笑い様といい、例えば黒い角や尖った尻尾がついていてもおかしくはなさそうな。つまりは人というより悪魔という生き物に似ているようにも見える。そんなものが実在するならの話だが。
 どう考えても人目を引く巨漢、それに金髪。本当に今まで見たことがない組み合わせだ。この二人はどういう関係なのだろう。友人だろうか、それにしても珍しい。
 まじまじと眺めていると、金髪が巨漢を見やって次の言葉を発した。
「おい、早くおろしてやれ」
 おそらく車内の子供を気遣っているのだろうが、何とも横柄に聞こえる声音。だが巨漢はまったく気にならないようだ。分かってるよお、とのんきに答えて後部座席のドアを開ける。
「さあ、おりていいよ」
 ベルトを外す音。
 金木犀は再度興味を引かれる。現れるのはきっと巨漢の子供だろう。どんな子なのだろう。

 ぴょん、と軽い足音がした。

 車の後部席から飛び出してきたのは。

 女児だった。

 小さな女の子。

 目をきらきらさせた黒髪の。

 金木犀はじっくりと観察する。今までに得た知識見聞を総動員して、この子供のさまざまを探ろうと。ふっくらと愛らしい頬。丸いつぶらな瞳。目もとは父親似のようだ、巨漢と同じく愛嬌がある。年齢はおそらく就学前だろうと推定した。巨体の父の腰、背丈はそのあたりほどに見える。艶のある黒髪を後ろで束ね、淡い黄色のトレーナーが可愛らしい。明るい青のミニスカートに灰色の膝下丈のレギンス。身軽で活発そうだ。遠慮や物怖じを知らなさそうな、天真爛漫な様子。
 ──…………
 何か感心するような、息を呑むような思いに金木犀はとらわれる。まんまるな巨漢、見るからに物騒な金髪。それに可愛らしい女児。こんな人間たちの取り合わせはついぞ見たことがない。多分これから行われる試合を見に来たのだろうが、それにしても。
 と。
 女児が空を探るような顔をした。
「ねえ、パパ」
「なんだい、弥生」
「いい匂いがする」
 何とも素直な、屈託のない声だ。
「ああ」
 父が笑顔で答える。
「これだよ、弥生。花が咲いてるでしょう」
 金木犀は巨漢によって指し示された。
「金木犀っていうんだよ、これ。咲くといい匂いがするんだ」
「ふうん」
 女児はオレンジの小花──いっぱいに咲いた小花を見上げた。ただ、金木犀には感じられる。この子は自分にはそれほど興味を引かれていないらしい。別のことに気を取られているようだ。
 ふいと視線を外して、女児は軽い足取りで駆け出した。
 どうするのかと見守る金木犀の目の前で。
 巨漢を素通りして車の後ろを駆け抜け、女児はまっすぐに金髪に飛びついた。
 きゃっきゃとはしゃぎながら当たり前のように手を繋ぐ。ひとすじもこの剣呑な金髪を怖がってはいないらしい。それどころかまるで全幅の信頼を置いているような手の繋ぎ方。
 そんな二人を見て巨漢は笑う。
「も〜、弥生ったらすっかりヒル魔になついちゃってさ」
 スタジアムの方向へ歩き出しながら金髪はケケケと笑う。
「なんだ、妬いてンのかテメー」
「そうだよ妬けるよ〜、普段は僕にべったりなんだよ」
「まぁたまのことなんだから辛抱すンだな」
 金木犀に背を向ける三人。金髪と手を繋ぐ女児は本当は駆け出したいとでも思っているかのようだ。跳ねるように歩いていく。その心はきっと手を繋いだ金髪、そしてこれから始まる試合のことでいっぱいになっているのだろう。
 後ろ姿を見守りながら金木犀は考える。やはり巨漢が女児の父。金髪はその友人という組み合わせらしい。
 遠ざかる珍しい三人組の姿。だが風に乗って金木犀の耳にはかすかに会話が聞こえてくる。
「楽しみだねえ、ムサシにうんと頑張ってもらわなくちゃ」
「俺らが見てるからな。糞ジジイだって張り切るだろ」
「絶対勝つよね!」
「たりめーだ、ケケケ」
 
 金木犀の心にはまだ好奇心。
 何という奇妙な組み合わせだろう。たくさんの観客たちの中でひときわ目を引くに違いない三人。でも不思議とあたたかさのようなものが伝わる。それに。

 ──ムサシ

 誰のことだろう。
 察するにこれから試合に出る選手のことだろうか。巨漢と女児、そして金髪との関係はどんななのだろう。金髪は何だか放送禁止用語を交えて表現していたようだが。
 できればそのムサシとやらも観察できたら良い。
 そう金木犀は願った。
 ものを見て考えたり推し量ったりするのは動けない自分の楽しみだ。
 試合後が待ち遠しい。





 車に忘れて来ちゃったよ、と旧友は声を上げた。
 爽やかな秋晴れの日、湿度は低く快適だ。ただ何か飲み物があった方がいいかもしれない。スタンドの席についてからそういう会話をして、そこで旧友は思い出したらしい。
「なんか持って来てたのか」
「うん、麦茶をね、奥さんが詰めてくれて」
「取って来るか?」
「うん、ちょっと行ってくるよ」
「違う、俺がだ」
「いやいや、僕が行くよ」
 少し慌てたように栗田は立ち上がる。腕時計を覗いてまだ間に合うよねと呟いた。
「キックオフならまだ余裕だ。慌てるこたあねえ」
「そうだね」
 栗田はちょこんと座席に座る自分の娘に声をかけた。弥生、一緒に来るかい?
「ううん」
 父に目をやりもせず女児は答える。視線はまっすぐ、フィールドに向けたまま。
「弥生は俺が見てるから行って来い」
 ヒル魔がそう言うと、少し迷うような顔を見せたあと旧友は拝む手つきをした。じゃあごめんね、悪いけど頼むね。
 別に急ぐ必要もないのにせかせかと階段を降りていく。通路をゲートの方向へ。
 何だかヒル魔は微笑が湧くような思いだ。父親は傍からでも分かるほど、惜しみない愛情をその娘に注いでいる。ほんの片時も離れたくないというように。今も見るからに娘と離れ難い心配そうな様子だったのに、その娘本人はけろりとしている。父のことより生まれて初めての経験に心を奪われているのだろう。父娘の対比が微笑ましい。
 あらためて席に腰を落ち着けて、フィールドと女児をヒル魔も見守った。
 女児の父を先ほど安心させたように、今はまだ試合開始前だ。フィールドでは両チームの選手がおのおの体を温めている。短いランプレーの確認、パス練習。ライン勢の軽いラッシュの繰り返し。相手チームではキック練習も。

 あれはなに? 
 あっちは?
 あの人はなにしてるの?

 弥生はやがて小さな指でフィールドの人や物を指し示し始めた。知りたくて仕方ないといった様子だ。ヒル魔はひとつひとつ、丁寧に応えてやる。女児が理解できるように丁寧に、簡潔に分かりやすく。

「あそこに点が出る。数字だな。1、とか2、とか。どっちが勝ってるか分かるようにするんだ」
「あの人は審判て言うんだ。選手が反則、悪いことをしないようにプレーを見るのが仕事だ」
「あれはチアガールって言ってな、賑やかに応援する人たちだ。あとで踊ったりするところが見られるぞ」
「ありゃあゴールポストだ。あそこにボールが入ったら点が取れる。むしゃしゃんがボールを蹴って入れるところだ」

「むしゃしゃん」
 弥生は不思議そうに呟いた。目の前の選手たちとムサシが一致しないらしい。
「むしゃしゃんも試合するんだよね?」
「そうだ。まだ今はいないみてえだが出てきたら教えてやる」
「うん」
 素直に女児は頷く。椅子に背もたれはついているが弥生はやや前かがみの姿勢であちこちに目をめぐらせる。試合というものもこんな場所も初めてのことで、きっと何もかもがひどく新鮮なのだろう。空色のスニーカーを履いた足はぶらぶらと揺れる。多分揺れていることに本人は気づいていないだろう。
 様子を見てヒル魔は声をかけた。
「もっと近くで見たいか?」
 うん! と飛びつくような返事。
「じゃあこっちだ」
 席を立つと弥生も飛び跳ねるように立ち上がった。
 手を繋いで二人でゆっくりと階段を下りる。スタンドとフィールドを分ける鉄柵に近づくために。女児の足元にヒル魔は細心の注意を払った。万が一にも踏み外したりすることのないように、ゆっくりと。しっかりと手を繋いで。
 段状のスタンド。ヒル魔たちが選んだのは全体が見渡しやすい上の方の座席だ。そこから階段を下って鉄柵へ。このスタジアムはスタンドとフィールドの距離が近いことで評判だ。鉄柵の際に立つとチームエリアのざわめきや会話までところどころ聞き取れる。
「わあ……」
 弥生は感嘆するようだ。座席で見るより選手もフィールドも近いせいだろう。小さな手で柵棒を握って選手らに目を当てる。
 相手チームと同様、ブルーシートが敷かれたバベルズのチームエリアにも二つの青いベンチ。それぞれオフェンスとディフェンスの選手たちの集合場所だ。フィールドで体を動かしている者もいればベンチでアサインメントの最終的な確認をしている者もいる。テーピング中の選手やあちこちへ動き回るスタッフも。
 右手のベンチ近くに見慣れた顔があった。戸叶と黒木だ。こちらに背を向けて何事か話し合っている。表情にまだそれほどの緊張はない。高校を出てバベルズに入団して10年以上、二人とも団員としてもフットボーラーとしてもベテランだ。ヒル魔は会ったことはないがおそらくスタンドのどこかには彼らの家族もいるのかもしれない。
 チームエリアには際立つ巨体、峨王もいる。ウォームアップを終えて、ベンチに腰を据えてフィールドを見渡している。後ろからでも分かる威圧感。広い背中。弥生の様子を窺うとそれほど驚いたようでもない。大きな男というものを父親で見慣れているからだろう。
 ヒル魔と弥生が立っているのはスタンドのほぼ中央の柵際だ。目の下すぐにバベルズのチームエリアが位置する。スタンドのほぼ真下、いわばヒル魔たちの足の下が選手たちの控え場所、ストレッチスペースやロッカールームなどもそこにあるはずだ。

 ──来たな

 ヒル魔にはすぐに分かった。ムサシが姿を現したのだ。おそらくストレッチを終えてすぐにキッキング練習に入るつもりなのだろう。すでにヘルメットをつけている。そのままゆっくりとフィールドへ入る。
「あ」
 弥生が小さく声を上げた。
「むしゃしゃん」
 ヒル魔は思わず弥生を見た。まだ自分は何も言っていないのにこの子はムサシを見分けたのか。
 ムサシは防具を含めたバベルズのユニフォーム姿、しかもメットを着用している。そんなところを弥生は今まで見たことはないはずだ。それにムサシはこちらに顔を向けたわけでもない。フィールドの30ヤード付近で体を動かし始めている。
 もしかしたら父に写真でも見せられたことがあるのかもしれない。それに背番号。ムサシは高校時代と変わらず11をつけている。自分は教えていないが父に教えられたことでもあるか。
「弥生、分かるのか」
「あれ」
 弥生は小さな人差し指で示す。
「むしゃしゃん」
「どうして分かるんだ。背番号か?」
 弥生は不思議そうな顔でヒル魔を見上げる。
「背番号って何?」
「背中に数字がついてるだろう。11って。ありゃあむしゃしゃんの番号だ。あれで見分けたのか?」
「ううん」
 きょとんとした様子の女児。
 ムサシがボールを蹴る役目だということを弥生は知っている。それは以前話したことがあるからだ。だが肝心のキックをヒル魔の恋人はまだ見せていない。背番号も弥生は知っていたわけではないようだ。何より、ユニフォームを身につければ背丈こそ変わらなくともプレーヤーのまとう空気は変わる。なのにどうしてかムサシの判別はつくらしい。ヒル魔は内心舌を巻いた。
「あの人、むしゃしゃんだよね」
 弥生は無邪気にヒル魔を見上げる。ヒル魔は笑った。何だか愉快だ。
「そうだ」
 艶やかな黒髪を撫でてやる。
「弥生は賢いな」
 褒めたら女児はまた不思議そうな顔をした。
「賢いってどういうこと?」
「ええと……頭がいいってことだ。弥生はむしゃしゃんをすぐ見分けただろう。そういうのは弥生が頭がいいからできるんだ」
 女児は照れたような笑顔を見せる。
「パパはいつもひるましゃんのことを頭がいいって言ってるよ」
「そうなのか」
「うん。ひるましゃんはすごいんだよっていつも話してくれるよ」
 ヒル魔は苦笑した。あの心優しい巨漢は娘にどんな噂を伝えているのか。
「俺より弥生のパパの方がすごいぞ」
「そうなの?」
「パパはすごく強い選手だったんだ。絶対に負けなかった」
「ふうん」
 よく分からないという風に弥生は呟いた。無理もない。あれほど愛した競技を女児の父がきっぱりと辞めたのは大学卒業時、弥生が生まれるずっと前だ。現在は僧籍に入り実家の寺の副住職を務めている。かつて栗田が立てばフィールドの空気が変わると言われた、その姿を弥生が目の当たりにすることはない。弥生にとっての栗田はあくまでも優しい頼りになる父なのだ。
 学生時代の父の写真やビデオなど、弥生は見せられたことはあるかもしれない。栗田が大事にしているボールを弥生も気に入って、休日はパスやキックの真似事をして遊んでいるらしい。ただ、それでも5歳の女児に勇ましい現役時代の父を想像することは難しいだろう。
「弥生はパパがアメフトしてる写真を見たことはねえか」
「あるよ」
「そうか。パパはどんな顔してた」
「楽しそうだった」
「そうだろう。パパはアメフトが大好きだからな」
「パパ強かったんだね」
「ああ。すごく強かった」
「ね、ひるましゃん」
「うん?」
「パパもうアメフトしないのかな」
「…………」
 少し胸を突かれた。
「……パパにはもっと大事なものができたからな」
「大事なもの?」
「そう。弥生も、弥生のママも、それから弥生のおじいちゃんおばあちゃんも。みんなパパの大事なもんだ。パパはそういうものを頑張って守ろうとしたんだ」
「…………」
 弥生は戸惑うような様子を見せる。こういう話はまだこの子には早かったかとヒル魔は思った。
「弥生ね」
「うん?」
「パパ大好き」
 ヒル魔は微笑んだ。
 プレーヤー人生の代わりに二つとない宝を親友は得たのだ。
「パパもきっと弥生が大好きだ」
 嬉しそうに弥生は笑う。
 フィールドからキックの音。ぴくっと女児は反応する。
「あ! むしゃしゃん蹴った」
「そうだな」
 練習のセオリー通り、ムサシは先ほど立っていた30ヤード付近から蹴り込む。足元から鋭く放たれる球。それは弧を描き、ゴールポストを遥かに越えて落下する。
「…………」
 弥生はムサシを、ボールを見つめる。一心に。
 フィールドにはまだゲーム中のような緊迫感はない。けれど弥生のまなざしはとても真剣だ。ふっと女児はまたヒル魔を見上げた。
「ね、ひるましゃん」
「うん」
「勝つよね。むしゃしゃん」

 このつぶらな瞳に誰が逆らうことなどできるものか。
 微笑してヒル魔は答えた。

「ああ、勝つ」

「──絶対にな」



 むしゃしゃん。
 ひるましゃん。
 よちよち歩きをし始めた頃から、弥生はふたりをそう呼ぶ。その父と同じようにふたりに信頼を寄せてくれる。ムサシもヒル魔もそんな弥生に限りない愛情を注いできた。
 これよりもずっとあと。ずっとずっとあとになって、ヒル魔は何度も思い出すことになる。親友の娘。生まれた月にちなんで名付けられたこの娘、弥生が初めて自分らを祝福してくれた日のことを。
 恋人と自分とをまっすぐに見上げて祝ってくれた日のことを。
 生涯忘れられないだろう日を。

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